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クレイグ・ブレスロウ

アメリカの野球選手、エグゼクティブ (1980-) ウィキペディアから

クレイグ・ブレスロウ
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クレイグ・アンドリュー・ブレスロウCraig Andrew Breslow, 1980年8月8日 - )は、アメリカ合衆国コネチカット州ニューヘイブン出身の元プロ野球選手投手)。投左打。ユダヤ系アメリカ人である。MLBボストン・レッドソックスの最高野球責任者 (Chief Baseball Officer)。

概要 基本情報, 国籍 ...
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経歴

要約
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プロ入りとブルワーズ傘下時代

名門イェール大学生物物理学生化学学位を取得後[1]2002年MLBドラフト26巡目(全体769位)でミルウォーキー・ブルワーズから指名を受け、6月6日に契約。契約後、傘下のパイオニアリーグのルーキー級オグデン・ラプターズ英語版でプロデビュー。23試合に登板して6勝2敗2セーブ・防御率1.82・56奪三振の成績を残した。

2003年はA級ベロイト・スナッパーズ英語版でプレーし、33試合に登板して3勝4敗2セーブ・防御率5.12・80奪三振の成績を残した。

2004年はA+級ハイデザート・マーベリックスでプレーし、23試合に登板して1勝3敗・防御率7.19・41奪三振と振るわず、7月6日に自由契約となった[2]

独立リーグ時代

2004年シーズン途中に自由契約となった後は独立リーグ・ノースイーストリーグニュージャージー・ジャッカルズに加入。19試合に登板して3勝1敗1セーブ・防御率4.10・37奪三振の成績を残した[要出典]

パドレス時代

2005年3月3日サンディエゴ・パドレスとマイナー契約を結んだ[2]7月23日にパドレスとメジャー契約を結び[3]、この年は14試合に登板。防御率は2.20だった。オフの12月21日にノンテンダーFAとなった[4]

レッドソックス時代

2006年2月1日ボストン・レッドソックスとマイナー契約を結んだ[5]。開幕をAAA級ポータケット・レッドソックスで迎え、7月13日にレッドソックスとメジャー契約を結んだ[6]。この年は13試合に登板して0勝2敗・防御率3.75・12奪三振の成績を残した。

2007年3月17日にAAA級ポータケットへ異動し[7]、開幕を迎えた。この年はAAA級ポータケットで49試合(先発1試合)に登板して2勝3敗1セーブ・防御率4.06・73奪三振の成績を残した[2]

2008年3月6日にレッドソックスと1年契約に合意した[8]

インディアンス時代

2008年3月23日ウェイバー公示を経てクリーブランド・インディアンスへ移籍した[9]。開幕後は7試合に登板したが、5月23日ジョー・ボロウスキーの復帰に伴ってDFAとなった[10]

ツインズ時代

2008年5月29日にウェイバー公示を経てミネソタ・ツインズへ移籍した[11]。移籍後は42試合に登板して0勝2敗1セーブ・防御率1.63・32奪三振の成績を残した。

2009年は17試合に登板して1勝2敗・防御率6.28・11奪三振の成績を残した[2]

アスレチックス時代

2009年5月29日にウェイバー公示を経てオークランド・アスレチックスへ移籍。移籍後は60試合に登板して7勝5敗・防御率2.60・44奪三振の成績を残した。

2010年3月8日にアスレチックスと1年契約に合意[12]。この年は75試合に登板し、4勝4敗5セーブ・防御率3.01・71奪三振の成績を残した。

2011年1月25日にアスレチックスと140万ドルの1年契約に合意した[13]。この年は67試合に登板して0勝2敗・防御率3.79・44奪三振の成績を残した[2]

ダイヤモンドバックス時代

2011年12月9日ライアン・クックコリン・カウギルジャロッド・パーカーとのトレードで、トレバー・ケーヒルと共にアリゾナ・ダイヤモンドバックスへ移籍した[14]

2012年2月8日にダイヤモンドバックスと179万5000ドルの1年契約に合意[15]。開幕後はトレードまでの間で40試合に登板して2勝0敗・防御率2.70・42奪三振の成績を残した[2]

レッドソックス復帰

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ボストンでの優勝パレードでダックボートに乗って手を振る。右から上原、田澤、ブレスロー。(2013年11月2日)

2012年7月31日スコット・ポドセドニックマット・アルバースとのトレードで、古巣のレッドソックスへ移籍した[16]。移籍後は23試合に登板して1勝0敗・防御率2.70・19奪三振の成績を残した[2]

2013年1月24日にレッドソックスと総額625万ドル[17]の2年契約(2015年・400万ドルの球団オプション付き)を結んだ[18]。左肩腱炎のため開幕から故障者リスト入りしたが、5月7日からセットアッパーとして復帰し、右腕の田澤純一上原浩治等と共にレッドソックスのリリーフ陣を牽引した。このシーズンは61試合の登板で、5勝2敗・防御率1.81(ア・リーグ左腕の救援投手3位)[19]、WHIP1.12と優秀な成績を残した。特に後半戦は自責点2と、クローザーの上原と遜色の無い成績だった。自身初のポストシーズンにおいてもその活躍は続き、ディビジョンシリーズでは3試合に登板し、2安打無失点4奪三振2四死球、WHIP0.82の成績でレッドソックスの勝利に貢献。続くリーグチャンピオンシップシリーズでも4試合に登板し、1安打無失点2奪三振4四球、WHIP1.50の成績を残し、対戦相手であるデトロイト・タイガースジム・リーランド監督から、“レッドソックスの先発投手陣は良いが、救援陣は圧倒的だ”と賞讃された[20]。しかしながらワールドシリーズでは、4試合の登板で、3安打3失点3四死球、WHIP15.0という惨憺たる成績に加え、アウトは第2戦での犠飛1つしか奪えておらず、しかもその際には三塁への暴投により2点目を献上するなど、絶不調に陥った。しかしながらチームは踏ん張り、レッドソックスはワールドシリーズを制覇した。

2014年3月27日に左肩の故障で、15日間の故障者リスト入りした[21]。4月3日にリハビリのため、AAA級ポータケットへ異動した。同月9日にメジャーへ昇格[22]。以降リリーフとしてコンスタントに登板を重ねた。8月までは防御率4.65であったが、9月は8試合に登板して11失点(自責点10)、防御率22.5、WHIP3.75と絶不調に陥った。6年連続の60試合登板を達成した一方で、終盤の不調が大きく響き、防御率5.96、WHIP1.86はそれぞれ自己ワースト記録を更新した。オフの10月31日にレッドソックスが球団オプションを破棄したため、FAとなった[23]

2015年1月6日にレッドソックスと200万ドルの1年契約で再契約した[24][25]。不振からの脱却を期する同シーズンは、45試合に投げて通算500試合登板を達成した。投球内容は、0勝4敗と未勝利に終わったが、防御率を4.15まで低下させて、やや復調の兆しを見せた。一方、65.0イニングで、自身初の二桁被弾となる12本もの本塁打を打たれ、球の軽さが目立った。11月2日にFAとなった[26]

マーリンズ時代

2016年2月12日マイアミ・マーリンズとマイナー契約を結んだ[27]。開幕メジャー入りするも、5月11日にDFAとなり[28]、13日に40人枠を外れる形で傘下のAAA級ニューオーリンズ・ゼファーズへ配属された。7月18日に自由契約となった[2]

レンジャーズ傘下時代

2016年7月24日テキサス・レンジャーズとマイナー契約を結んだ[29]8月9日に自由契約となった[2]

ツインズ復帰

2017年2月8日にツインズとマイナー契約を結び、スプリングトレーニングに招待選手として参加することになった[30]。同日には第4回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)本戦のイスラエル代表に選出された[31]。イスラエル代表敗退後の3月20日にメジャー契約を結んで40人枠入りした[32]7月24日にDFAとなり、29日に自由契約となった[2]

インディアンス復帰

2017年8月4日にインディアンスとマイナー契約を結んだ[33]。傘下のAAA級コロンバス・クリッパーズで7試合に登板後、8月26日にメジャー契約を結んでアクティブ・ロースター入りした[34]。オフの11月2日にフリーエージェント(FA)となった[35]

ブルージェイズ傘下時代

2018年2月12日トロント・ブルージェイズとマイナー契約を結んでスプリングトレーニングに招待選手として参加することになった[2]が、3月24日に自由契約となった[36]4月3日にブルージェイズと再びマイナー契約を結んだ[2]。マイナーリーグで33試合に登板したものの、防御率5.77と結果を残せず、メジャーリーグに昇格できずに終わった。

引退後・カブスフロント時代

2019年1月14日、公式な引退宣言はなかったが、シカゴ・カブスの戦略主導担当ディレクターに就任[37]

2019年10月17日、シカゴ・カブスの投手部門部長兼社長特別補佐兼GM特別補佐に昇進した[38]

2020年11月、同球団のGM補佐兼副社長(投手部門)に昇進した[39]

レッドソックスフロント時代 

2023年10月25日、ボストン・レッドソックスの最高野球責任者 (Chief Baseball Officer) に就任した[40]

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投球スタイル

速球は最速148km/hほどであり、ツーシームフォーシームを投げる。 また、変化球としてはスライダーを得意としており、以前より球速も上がっているため、カッターと思われやすい。他には、100km/h台のカーブと、約120km/hのチェンジアップを投げる。 奪三振は多くなく、K/BBは2.00、ゴロ/フライ比率は1.00程度であり、打たせて取る傾向のある投手である[41]

人物

名門イェール大学出身であり、2010年にスポーツ専門メディア『Sporting News』が特集した“20 smartest athletes in sports”(スポーツ界で最も賢い20人)では、堂々の1位に輝いた[42]。同僚のライアン・ラバーンウェイ捕手もイェール大学出身であり、2013年8月18日にはMLB史上初となるイェール大学出身者同士のバッテリーが実現した[43]。イェール大学出身者がチームメイトになるのは、63年ぶり2度目であった[44]。また、“Strike 3 Foundation”というチャリティ財団を自ら設立、運営しており、2013年9月には、ロベルト・クレメンテ賞にノミネートされた[45]

詳細情報

年度別投手成績

さらに見る 年 度, 球団 ...

背番号

  • 49(2005年、2008年途中 - 2009年途中)
  • 54(2006年)
  • 58(2008年 - 同年途中)
  • 56(2009年途中 - 2011年)
  • 32(2012年 - 2015年)
  • 17(2016年)
  • 47(2017年 - 同年7月22日)
  • 40(2017年8月26日 - 同年終了)

代表歴

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脚注

関連項目

外部リンク

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