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ケン・ボイヤー
アメリカ合衆国の野球選手 (1931-1982) ウィキペディアから
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ケントン・ロイド・ボイヤー(Kenton Lloyd Boyer , 1931年5月20日 - 1982年9月7日[1])はMLBセントルイス・カージナルスなどに所属した野球選手。アメリカ合衆国ミズーリ州リバティ出身。右投げ右打ち。オールスター選出7回、ゴールドグラブ賞5回受賞の1950年代 - 1960年代のMLBを代表する堅守の三塁手である。
同じくカージナルスなどに所属した投手のクロイドは兄、ニューヨーク・ヤンキースや大洋ホエールズに所属した三塁手のクリートは弟。7男7女の14人兄弟であるが[2]、男子は全員プロ入りしている(4人はメジャー未昇格)[3]。
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経歴
要約
視点
プロ入り - マイナー
高校卒業時の1949年にカージナルスのトライアウト参加をすすめられたボイヤーは、元々野手であったが、強肩に目をつけたチームは投手として契約する。プロ初年度はクラスDでプレー、投手としてまずまずの成績を残す一方、打者としては打率.455を記録した。2年目はコントロール難や変化球の習得に苦労していたが、チームの三塁手がいなくなったため、登板しない日はとりあえず三塁を守ることとなった。しかし、投手としてより打者としての成績の方が良かったため、翌1951年からは正式にAで三塁手としてプレーする。シーズン終了後には徴兵され、2年間海外で過ごすこととなった。除隊後の1954年はAAで過ごしたが、ここで1944年の首位打者であるディキシー・ウォーカー監督に徹底的に攻守を鍛えられた。
セントルイス・カージナルス時代
前年オフに正三塁手をトレードで放出していたチームは、1955年の開幕からボイヤーを三塁手として起用する。この年は打率.264、18本塁打、22盗塁とルーキーとしてはまずまずの成績を残した。1956年には打撃好調で初のオールスターに選出される。最終的にはスタン・ミュージアルの27本に次ぐチーム2位の26本塁打を記録した。1957年は新人に三塁のポジションを明け渡し、外野手にコンバートされたが、翌1958年にはカート・フラッドがセンターに定着したため三塁に復帰し、初のゴールドグラブ賞を獲得する。打撃面でもチームトップの23本塁打、90打点を記録するほか、同年オフには日米野球来日メンバーに参加している。1959年 - 1961年は3年連続で打率、本塁打、打点の3部門でチームトップを記録するなど主軸選手として活躍した。1959年 - 1964年はオールスターに連続選出、ゴールドグラブ賞も4回受賞した。また1959年には自己最長となる29試合連続安打を[4]、1961年と1964年にはサイクルヒットを記録している[5]。また、1961年から1964年にかけて4年連続で24本塁打を記録。4年連続で20本以上の本塁打を記録し、しかも同じ本数という選手はこの時のボイヤーが第一号で、のちに1984年から1987年にかけてフレッド・リンが23本塁打を記録した2例しかない。
ワールドシリーズ
1964年、ナ・リーグ優勝を果たしたカージナルスは、弟クリートの所属するニューヨーク・ヤンキースとのワールドシリーズへと進出する。1勝2敗で迎えた第4戦は、初回の3失点で0対3と負けていた。1死満塁でむかえた6回の打席で、アル・ダウニングから左翼に満塁本塁打を放ち、4対3でこの試合を制する。第7戦ではクリートと共に本塁打を放ち、初めてワールドシリーズの同じ試合で本塁打を打った兄弟となった[6]。結局シリーズは、4勝3敗でカージナルスはチャンピオンとなった。またボイヤー自身はシーズンMVPを獲得した。
翌1965年もカージナルスでプレーしたが、8年ぶりに20本塁打を割るなど衰えが見え始めていた。オフの10月20日に2選手とのトレードでニューヨーク・メッツへ移籍する。
移籍後・引退まで
35歳となった1966年は、創設間もない弱小球団メッツの主軸としてチームトップの61打点、2位の14本塁打を記録するが、1967年は一塁手としての出場も増え、打撃不振のためにシーズン半ばにサンディ・アロマーと共にシカゴ・ホワイトソックスへ移籍する。移籍後は少し持ち直したかに見えたが、翌1968年は開幕から不調で5月2日に解雇、10日にロサンゼルス・ドジャースと契約した。ドジャースでも控えの野手としてすごし、1969年いっぱいで引退した。
通算長打率.462は1000試合場出場した三塁手としては3位である。
引退後
セントルイス・カージナルスの永久欠番に1984年指定。
1971年、1972年は古巣カージナルスのコーチを務め、その後カージナルス傘下のマイナーチームで監督を歴任する。1978年にはカージナルス監督に就任する。2年目の1979年はリーグ3位とまずまずの成績を残すが、1980年は18勝33敗となったところでホワイティ・ハーゾグと交代、再びマイナーチーム監督をシーズン終了まで務めたが、この頃に肺癌に罹患。その後闘病生活を送ったが、1982年9月8日に51歳で死去した[7]。
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詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- 打点王:1回(1964年)
表彰
- シーズンMVP:1回(1964年)
- ゴールドグラブ賞(三塁手部門):5回(1958年 - 1961年、1963年)
- ルー・ゲーリッグ賞:1回(1964年)
記録
- MLBオールスターゲーム選出:7回(1956年、1959年 - 1964年)
- サイクルヒット:2回(1961年、1964年)
年度別監督成績
背番号
- 14(1955年 - 1968年途中)
- 45(1968年途中 - 同年終了)
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参考資料
外部リンク
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