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ジーン・マーチン
アメリカのプロ野球選手 ウィキペディアから
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トーマス・ユージーン・マーチン(Thomas Eugene Martin, 1947年1月12日 - )は、アメリカ合衆国・ジョージア州出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。
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来歴・人物
1965年のMLBドラフト3位でワシントン・セネタースに入団し、1968年にメジャー初昇格で主に代打として9試合に出場。その後はメジャーへの昇格は無く、1972年にはリーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルのペトロレロス・デ・ポサリカでプレーし、当時のリーグ記録に並ぶ1試合3本塁打を放ち、リーグ2位の23回の敬遠四球を記録[1]。フィリーズ傘下AAAユージーン・エメラルズ、パドレス傘下AAAハワイ・アイランダーズでは1973年にパシフィックコーストリーグで本塁打王・打点王の二冠王を獲得。1974年に中日ドラゴンズへ入団。入団交渉は彼の資質に惚れ込んだ当時の与那嶺要監督が直々にハワイに訪れて行い、当初は中日への入団に難色を示していたものの、結局は与那嶺の熱意に折れて入団を決めたとされている[2]。入団当初は不振にあえいでいたものの徐々に日本の野球に適合し、来日1年目の1974年シーズンは35本塁打・87打点をマークし、20年ぶりのリーグ優勝と巨人V10阻止の原動力となった。その後も安定した成績を残し、1976年には共にリーグ2位の40本塁打・104打点をマーク。固め打ちも得意で、1試合3本塁打を通算3度記録した他、1976年には1試合2本塁打以上を年間10度記録。これは王貞治、ランディ・バースと並ぶ日本タイ記録でもある。1979年に横浜大洋ホエールズへ移籍し、薄毛に悩んでいた山下大輔に攻守交代時のヘルメットから帽子への早替えの技を教えたのが彼である。同年限りで退団。1981年にリーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルのポサリカに復帰して1年だけプレーし、リーグ3位の19回の敬遠四球を記録。
なお、トレードマークであった禿頭は、ベトナム戦争に参加した際、鉄兜を長く被っていたためそうなったと、本人は語っていた。
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詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
表彰
- NPB
- ベストナイン:1回 (1974年)
記録
- NPB初記録
- 初出場・初先発出場:1974年4月6日、対広島東洋カープ1回戦(中日スタヂアム)、4番・右翼手で先発出場
- 初安打:同上、7回裏に安仁屋宗八から
- 初本塁打・初打点:1974年4月7日、対広島東洋カープ2回戦(中日スタヂアム)、2回裏に外木場義郎からソロ
- NPB節目の記録
背番号
- 22 (1968年)
- 4 (1974年 - 1979年)
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脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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