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マイク・マダックス

アメリカの野球選手 (1961 - ) ウィキペディアから

マイク・マダックス
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マイケル・オースリー・マダックスMichael Ausley Maddux, 1961年8月27日 - )はアメリカ合衆国オハイオ州モンゴメリー郡デイトン出身の元プロ野球選手投手)、野球指導者。右投左打。現在は、MLBテキサス・レンジャーズの投手コーチを務める。

概要 テキサス・レンジャーズ コーチ #41, 基本情報 ...

実弟は元プロ野球選手のグレッグ・マダックス

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経歴

要約
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プロ入り前

1979年MLBドラフト36巡目(全体838位)でシンシナティ・レッズから指名されたが、テキサス大学エルパソ校英語版へ進学した。

プロ入りとフィリーズ時代

1982年MLBドラフト5巡目(全体119位)でフィラデルフィア・フィリーズから指名され、6月21日に契約した。契約後、傘下のA-級ベンド・フィリーズ英語版でプロデビュー。11試合(先発10試合)に登板して3勝6敗、防御率3.99、59奪三振を記録した。

1983年はA級スパルタンバーグ・スピナーズ英語版、A+級ペニンシュラ・パイロッツ、AA級レディング・フィリーズでプレー。A+級ペニンシュラでは14試合に先発登板して8勝4敗、防御率3.62、78奪三振を記録した。

1984年はAA級レディングとAAA級ポートランド・ビーバーズでプレー。AAA級ポートランドでは8試合に先発登板して2勝4敗、防御率5.84、22奪三振を記録した。

1985年はAAA級ポートランドでプレーし、27試合(先発26試合)に登板して9勝12敗、防御率5.31、96奪三振を記録した。

1986年はAAA級ポートランドで開幕を迎え、6月にメジャーへ初昇格した。6月3日のロサンゼルス・ドジャース戦で先発起用されメジャーデビュー。初回から4失点を失い、2回にも1失点し、2回1死で降板した。この日は5安打5失点2四球と抑えられず、メジャー初黒星を喫した[1]。この年は16試合に先発登板して3勝7敗、防御率5.42、44奪三振を記録した。

1987年はAAA級メイン・ガイズで開幕を迎え、8月にメジャーへ昇格した。昇格後2試合は先発として登板していたが、3度目の登板となった9月5日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦からリリーフに転向した。この年は7試合(先発2試合)に登板して2勝0敗、防御率2.65、15奪三振を記録した。

1988年はリリーフとして開幕ロースター入りし、5試合に登板後、4月にAAA級メインへ降格した。6月に先発としてメジャーへ再昇格したが、8月下旬から再びリリーフに転向した。この年は25試合(先発11試合)に登板して4勝3敗、防御率3.76、59奪三振を記録した。

1989年はリリーフとして開幕を迎え4月29日のシンシナティ・レッズ戦から先発に転向した。同試合では9回を2安打無失点1四球4奪三振に抑え、メジャー初完封を記録した[2]。この年は16試合(先発4試合)に登板して1勝3敗1セーブ、防御率5.15、26奪三振を記録した。オフの11月20日に自由契約となった。

ドジャース時代

1989年12月21日にドジャースと契約を結んだ。

1990年は傘下のAAA級アルバカーキ・デュークスで開幕を迎え、5月にメジャーへ昇格した。昇格後はリリーフとして9試合に登板していたが、防御率4.15と結果を残していないまま、6月から先発に転向した。6月6日のアトランタ・ブレーブス戦では3回2失点で降板し、2度目の先発となった12日のヒューストン・アストロズ戦では5安打5失点で1死しか取れず降板し[3]、AAA級アルバカーキへ降格した。この年は11試合(先発2試合)に登板して0勝1敗、防御率6.53、11奪三振を記録した。レギュラーシーズン終了後の10月15日にFAとなった。

パドレス時代

1991年3月30日にサンディエゴ・パドレスと契約を結んだ。開幕後はリリーフに定着し、自己最多でチームトップタイの64試合(先発1試合)に登板した。7勝2敗5セーブ、防御率2.46、57奪三振を記録した。

1992年は開幕から15日間の故障者リスト入りし、4月27日に復帰した。復帰後は前年と同様にリリーフに定着した。この年は50試合(先発1試合)に登板して2勝2敗5セーブ、防御率2.37、60奪三振を記録した。

メッツ時代

1992年12月17日にロジャー・メイソン英語版マイク・フレイタスとのトレードで、ニューヨーク・メッツへ移籍した。

1993年はリリーフとして58試合に登板して3勝8敗5セーブ、防御率3.60、57奪三振を記録した。

1994年は27試合に登板して2勝1敗2セーブ、防御率5.11、32奪三振を記録した。レギュラーシーズン終了後の10月18日にFAとなった。

パイレーツ時代

1995年4月10日にピッツバーグ・パイレーツと契約を結んだ。昇格後は8試合に登板したが、防御率9.00と結果を出せず、5月16日に自由契約となった。

レッドソックス時代

1995年5月30日にボストン・レッドソックスと契約を結んだ。移籍後は36試合(先発4試合)に登板して4勝1敗1セーブ、防御率3.61、65奪三振を記録した。オフの11月6日にFAとなったが、12月15日にレッドソックスと再契約を結んだ。

1996年は開幕ロースター入りし、開幕後は13試合に登板していたが、5月6日に15日間の故障者リスト入りした。8月6日に復帰すると、先発に転向した。この年は23試合(先発7試合)に登板して3勝2敗、防御率4.48、32奪三振を記録した。オフの11月1日にFAとなったが、12月7日にレッドソックスと再契約した。

1997年3月26日に自由契約となった。

マリナーズ時代

1997年4月11日にシアトル・マリナーズと契約を結んだ。昇格後はリリーフとして6試合に登板したが防御率10.13と結果を残せず、7月23日に自由契約となった。

パドレス傘下時代

1997年8月19日にサンディエゴ・パドレスと契約を結んだ。契約後は傘下のAAA級ラスベガス・スターズで先発として3試合に先発登板して0勝2敗、防御率5.62、13奪三振を記録した。レギュラーシーズン終了後の10月15日にFAとなった。

エクスポズ時代

1998年3月30日にモントリオール・エクスポズと契約を結んだ。開幕ロースター入りし、リリーフとして1993年以来の50試合登板を記録した。この年は51試合に登板して3勝4敗1セーブ、防御率3.72、33奪三振を記録した。9月29日にFAとなった。

1999年2月2日にエクスポズと再契約した。開幕後は4試合に登板したが、4月15日に自由契約となった。

ドジャース復帰

1999年4月24日に古巣・ドジャースと契約を結んだ。リリーフとして49試合に登板して1勝1敗、防御率3.29、41奪三振を記録した。レギュラーシーズン終了後の10月14日にFAとなった。

アストロズ時代

2000年2月1日にアストロズと契約を結んだ。開幕後はリリーフとして18試合に登板していたが、5月21日に15日間の故障者リスト入りした。6月23日に復帰後は3試合に登板したが、7月5日に自由契約となり、現役引退を発表した。

引退後

2000年のシーズン途中からアストロズ傘下のAA級ラウンドロック・エクスプレスの投手コーチに就任し、同年のテキサスリーグ優勝に貢献した。

2001年カルロス・ヘルナンデスティム・レディングの好投もあり、テキサスリーグ1位のチーム防御率を記録し、2年連続の優勝を経験した。

2002年もテキサスリーグ三連覇に貢献した。

ブルワーズでのコーチ時代

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ミルウォーキー・ブルワーズでのコーチ時代
(2008年8月3日)

2002年オフにミルウォーキー・ブルワーズの投手コーチに就任した[4]

2003年ネッド・ヨスト監督の下でコーチ1年目を迎えたが、チーム防御率はナショナルリーグ平均(4.28)を大きく下回るワースト3位の5.02だった。先発陣もベン・シーツウェイン・フランクリン英語版マット・キニーの三本柱こそ二桁勝利を挙げたが、4番手のグレンドン・ラッシュは1勝12敗、5番手のウェス・オーバーミューラーは2勝5敗と、先発投手の不足も露呈し、投手コーチとしては頭の痛いシーズンとなった。

2004年はシーツとダグ・デービスがナ・リーグ3位タイとなる24度のクオリティ・スタートを記録し、チーム防御率がリーグ平均の4.30を上回る4.24に向上した。

2005年はナ・リーグ5位となるチーム防御率3.97を記録した。

2006年は前年防御率1点台を記録したクローザーのデリック・ターンボウが不調でシーズン途中にマイナーへ異動するなど、リリーフ陣が崩壊し、チーム防御率はナ・リーグワースト2位の4.82に悪化した。

2007年は前年の開幕投手であるデービスが移籍したが、新加入のジェフ・スーパンの活躍もあり、二桁投手を4人輩出。ターンボウからクローザーの座を奪ったフランシスコ・コルデロが球団新記録の44セーブを挙げるなど、先発・リリーフ共に活躍し、チーム防御率はナ・リーグ9位の4.41まで回復した。

2008年は防御率1点台を記録したCC・サバシアの加入もあり、チーム防御率はナ・リーグ2位となる3.85に向上。チームは地区2位となり、ワイルドカード獲得に貢献したが、ヨスト監督の退任に伴い、同年限りでブルワーズを退団した。

レンジャーズでのコーチ時代

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テキサス・レンジャーズでのコーチ時代
(2015年3月9日)

2008年11月3日にテキサス・レンジャーズの投手コーチへの就任が発表された[5]

2009年は前年アメリカンリーグ最下位のチーム防御率5.37を、ア・リーグ8位の4.38まで改善。

2010年はア・リーグ3位となるチーム防御率を3.93まで向上させ、地区優勝及びア・リーグ優勝に貢献した。

2011年はチーム防御率が昨年を上回る3.79を記録(ア・リーグ5位)。先発5本柱(C・J・ウィルソンコルビー・ルイスデレク・ホランドマット・ハリソンアレクシー・オガンド)全員が二桁勝利を挙げ、2年連続の地区優勝及びア・リーグ優勝に貢献した。

2012年はチーム防御率が3.99と前年を下回った。

2013年はチーム防御率を3.62まで向上させた。

ナショナルズでのコーチ時代

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ワシントン・ナショナルズでのコーチ時代
(2016年8月22日)

2015年11月4日にワシントン・ナショナルズの投手コーチへの就任が発表され[6]2017年まで務めた[7]

カージナルスでのコーチ時代

2018年シーズンからはセントルイス・カージナルスの投手コーチを務める[8]2022年まで務めた[9]

2度目のレンジャーズでのコーチ時代

2022年11月23日にレンジャーズの投手コーチへの就任が発表された[10]

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詳細情報

年度別投手成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
  • 「-」は記録なし
  • 通算成績の「*数字」は不明年度があることを示す

年度別守備成績

さらに見る 年 度, 球 団 ...

背番号

  • 44(1986年 - 1989年)
  • 54(1990年)
  • 51(1991年 - 1994年、1998年 - 1999年、2016年 - 2017年)
  • 60(1995年 - 同年途中)
  • 19(1995年途中 - 1996年)
  • 20(1997年)
  • 36(2000年、2003年- 2008年)
  • 31(2009年 - 2015年、2018年 - 2021年途中、2022年 - 2023年途中)
  • 35(2022年途中 - 同年終了)
  • 41(2023年途中 - )
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脚注

関連項目

外部リンク

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