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中井康之
日本のプロ野球選手 (1954-2014) ウィキペディアから
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中井 康之(なかい やすゆき、1954年8月7日 - 2014年8月9日)は、京都府京都市出身のプロ野球選手(外野手)。右投右打。
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来歴・人物
京都市立西京商業高等学校では、1972年夏の京滋大会京都予選準々決勝に進出。花園高の斉藤明雄投手と投げ合い、延長16回の熱戦の末に6-4で勝利。しかし準決勝で西舞鶴高に敗退し、甲子園には届かなかった。本格派で速球を武器に通算26試合で計234三振を奪った。同年のドラフト1位で巨人に指名され入団[1]。当時のエース・堀内恒夫によく似たタイプと言われていた。
投手として入団も、肩の故障により1978年から外野手へ転向。同年のイースタン・リーグでは首位打者、打点王の二冠に輝く。
1979年から一軍に定着、4月11日の阪神戦では球団史上初の初打席初本塁打を記録している。同年は92試合に出場、打率.257の記録を残す。同年オフの長嶋茂雄監督による「地獄の伊東キャンプ」にも参加する。その後も主に外野の守備固めや代走で起用される。
1981年の日本シリーズには6試合に出場。第5戦では2番打者として先発し5打数2安打、8年ぶりの日本一に貢献した。
1984年限りで現役引退。
引退後は東京都文京区の護国寺に居酒屋「護国寺なかい」を開業。2007年からは店舗を港区芝大門に移転(店名は「芝大門なかい」に変更、現在は閉店)[2]。居酒屋の開店に際して、看板や箸袋の店名を長嶋茂雄に揮毫してもらった。長嶋の揮毫した看板は移転後も(「護国寺」の部分を省いて)使用されていた。
2014年8月9日午前4時30分、神奈川県内の病院で食道がんのため死去[3]。60歳没。
8月12日に通夜、翌13日に告別式が営まれた。
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詳細情報
年度別打撃成績
記録
背番号
- 48(1973年 - 1978年)
- 39(1979年)
- 36(1980年 - 1984年)
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備考
- 『中井正広のブラックバラエティ』(日本テレビ系列)の野球コーナーでよく中井選手を紹介されていた事もあり、現役時代を知らない年代の人にも知名度が広まっていた。
- 中井正広のブラックバラエティの企画
脚注
関連項目
外部リンク
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