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久保祥次
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久保 祥次(くぼ しょうじ、1941年11月27日 - )は、広島県広島市[1]出身の元プロ野球選手(捕手)。
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来歴・人物
広陵高校では控え遊撃手で、チームは1959年に春夏の甲子園に連続出場。春の選抜では1回戦で芦屋高に敗退し、夏の選手権でも2回戦(初戦)で宇都宮工に敗れた。高校のチームメイトでは同期の三浦和美、1年下の枡岡憲三がプロ入り(いずれも広島)している。
卒業後は広島大学に職員として勤務しながら軟式チームで捕手をしていたが、知人の勧めで広島カープのテストを受け、1962年9月に入団[2]。この時に肩を壊していた鵜狩道夫が二軍で調整していたため、鵜狩の球を受け、シートバッティングで打たせてもらった[2]。鵜狩は「あのキャッチャーは投げいいよ」と首脳陣に進言し、その上にシートの時は打ちやすい球を投げて、その後も随分可愛がった[2]。
1963年から一軍の控え捕手となり、1965年5月11日の巨人戦(兼六園)では巨人瀧安治が放った打球が広島安仁屋宗八の膝を直撃した際、その跳ね返った打球を久保がノーバウンドで捕球、投触捕直(投手が接触した後のキャッチャーライナー)というプレーを経験[3]、ただ、記録上は投直で久保には刺殺(捕球)が記録された[4]。10月22日の巨人戦(後楽園)では鵜狩の10年目のボーナスがかかっていたが、それまで後楽園では一度も先発したことが無い鵜狩が監督長谷川良平に先発志願[2]。この時、キャッチャーに久保を指名してくれた[2]。
インサイドワークに優れ、肩もキャッチングも巧く[2]、1967年には衰えがあった正捕手の田中尊を凌ぐ106試合に出場。同年4月29日の阪神戦(甲子園)では江夏豊にプロ初勝利を許すが、久保は完封逃れの本塁打をかましている[2]。この後もレギュラーには定着できず、田中との定位置争いが続く。1968年9月14日の大洋戦(広島市民)で外木場義郎が史上10人目(当時)の完全試合を達成し、セ・リーグタイの1試合16奪三振を記録した試合をアシスト。
1971年には水沼四郎が台頭するが、1972年にはレギュラーを奪還した。
1973年に金銭トレードで近鉄バファローズへ移籍したが、ここでは出場機会に恵まれず、1974年に現役を引退[1]。
引退後は愛知県名古屋市に本社を置く広告代理店に勤務[2]。この会社は元衆議院議員・江﨑真澄の長男・乙澄が経営しており、久保は現役の時から親交があった乙澄の勧めで入社し、取締役部長の要職も務めた[2]。
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詳細情報
年度別打撃成績
背番号
- 40 (1962年 - 1966年)
- 24 (1967年 - 1972年)
- 22 (1973年 - 1974年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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