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九州一周駅伝
かつて九州で開催されていた駅伝競走大会 ウィキペディアから
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高松宮賜杯 西日本各県対抗九州一周駅伝競争大会(たかまつのみやしはい にしにっぽんかくけんたいこうきゅうしゅういっしゅうえきでんきょうそうたいかい)は、かつて開催されていた日本の駅伝競走大会。通称は、2010年の第59回以前は「九州一周駅伝」、2011年の第60回より「グランツール九州」。
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「九州一周駅伝」は1000キロ超のコースを10日間かけて走破する駅伝大会として「世界最長距離の駅伝」といわれてきたが、2011年に九州新幹線が全通し、また第60回を迎えたことにより、自転車のツール・ド・フランス、自動車のダカールラリーに似たステージ制の大会形式に変更された。しかし、運営上の問題などにより、2013年の大会を最後に廃止された。
概要
西日本新聞社が主催し、毎年10月末から11月上旬にかけ、九州7県および沖縄・山口両県の選抜選手による各県対抗方式で行われていた大会である。長崎市をスタートし、九州各県を回って福岡市の西日本新聞本社前をゴールとしていた(区間と距離、参加チームに若干の変更や入れ替わりがある)。
1952年に「西日本各県対抗九州一周駅伝競走大会」として始まった大会で、1956年に高松宮宣仁親王が大会に賜杯を行ったことから、優勝チーム(県)には、優勝旗・高松宮賜杯が贈られていた。第59回(2010年)までは例年、金曜日から翌々週日曜日までの10日間にわたって行われた[注釈 1]。
2011年(第60回)よりステージ制に変更し、「グランツール九州」の名称を導入した。
歴史
創設(1952年)
元陸上競技選手でオリンピック出場経験もある西日本新聞社運動部長納戸徳重(福岡県出身)が、大会創設の中心となった。「日本初のオリンピック選手」の一人で、陸上競技界の指導者の一人であった金栗四三(熊本県出身、納戸の東京高等師範学校での先輩にあたる)もこの発想に加わっているという。
1952年、「西日本各県対抗九州一周駅伝競走大会」開催。長崎市の長崎県庁前をスタートし、福岡市の西日本新聞本社前をゴールとする70区間、1090.29kmを走破する大会として開催された。
第59回(2010年)まで
1956年、高松宮宣仁親王が大会に賜杯。これにより「高松宮杯・西日本各県対抗九州一周駅伝競走大会」と改称。大会名称は、1960年に「高松宮杯争奪・西日本各県対抗九州一周駅伝競走大会」、1967年に「高松宮賜杯・西日本各県対抗九州一周駅伝大会」と改められた。
コースは、長崎市の平和祈念像前(平和公園)で原爆死没者の冥福を祈って黙祷の後スタートして九州各県を回り、最終日に福岡市の西日本新聞社本社前にゴールする約1056.6 km、合計72区間。長大なレースであることから、選手保護の為、選手が途中棄権してもチーム自体は失格(棄権)にはならずに『その区間の一番遅いタイムに5分加算』し次の区から再びレースが続行できる特別なルールがあった。
2001年は、大会50回記念と、サッカーワールドカップ日韓共同開催を翌年に控えていたため、初めて九州・山口地方9県以外のチームとして、韓国選抜がオープン参加し、累計9位となった。また2007年には関東学連選抜がオープン参加、4番目にゴールした。
第60回(2011年)以降
第60回を迎えた2011年に、大会は大きく変更される。選手・運営者の負担軽減に加え、新幹線全通を機に九州の観光振興も図ろうという目的から、長崎から福岡までの道を“ぶつ切り”にし、ステージ制・8日間の戦いに変更。「グランツール九州」の名称を導入した。これまで参考記録程度だった日間1位についても、ステージ優勝として表彰することにした。またこれに伴い、後援者の入れ替わりがあった。第60回は10月最終日曜日から翌週日曜日までの8日間の日程で、51区間739.9キロのコースで開催された。
大会終焉(2013年)
しかし、2013年7月5日に開催された記者会見で、交通量の増加による警備などの運営費増大や、選手の安全確保の問題から、同年10月27日から開催する「第62回グランツール九州大会」を最後として大会を廃止すると発表した。九州陸上競技協会は「経費や交通量の問題を総合的に判断して廃止を決めた」としている[1]。
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関係諸団体
コース
要約
視点
- 中継所の正式名称は公式サイトを参照。
第59回まで
第60回から
ステージ名称
コース変更
第61回に関しては初日の第1ステージのみ変更があった。これは佐世保市で「全国和牛共進会」が大会期間中に開催されたことにより、混乱を防ぐため会場近くのハウステンボスにゴールできなくなったためである。このため東彼杵町千綿中継所からのコースが変更され、国道205号ではなく国道34号をそのまま行くルートとなり、佐賀県嬉野市の嬉野温泉地区(市役所総合支所前)がゴールとなった。選手関係者は遅くとも翌朝かなり早くに温泉を発ち、高速道路で佐世保へ移動して第2ステージの勝負に挑む。
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大会競技規定
8日間で700km超を走破する競技の特殊性から、大会独自の規定が定められている。第60回大会(2011年)の大会競技規定は以下のとおり。
競技 | 各県対抗競技とする。 | ||||||||||||||||||
選手の出走回数 | 選手の出走回数は1回以上3回までとし、1人の選手が1ステージで2回出走してはならない。 | ||||||||||||||||||
スタートならびに勝敗 | 8ステージの所要時間の合計により順位を決定する。各ステージでも優勝チームを決定する。 | ||||||||||||||||||
タスキ | タスキの色別は次のとおり。
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歴代優勝県
福岡県と宮崎県の上位独占状態であった。
- 九州一周駅伝
- 第1回(1952年)~第7回(1958年) 福岡県
- 第8回(1959年)~第9回(1960年) 宮崎県
- 第10回(1961年)~第14回(1965年) 福岡県
- 第15回(1966年)~第16回(1967年) 宮崎県
- 第17回(1968年) 福岡県
- 第18回(1969年) 宮崎県
- 第19回(1970年)~第20回(1971年) 福岡県
- 第21回(1972年)~第23回(1974年) 宮崎県
- 第24回(1975年)~第25回(1976年) 福岡県
- 第26回(1977年)~第27回(1978年) 宮崎県
- 第28回(1979年)~第29回(1980年) 福岡県
- 第30回(1981年)~第53回(2004年) 宮崎県
- 第54回(2005年)~第58回(2009年) 福岡県
- 第59回(2010年)宮崎県
- グランツール九州
- 第60回(2011年) 宮崎県
- 第61回(2012年)~第62回(2013年) 福岡県[5]
- 優勝回数
- 宮崎県 36回
- 福岡県 27回
2000年ごろの各チームの動向
大会発足当初より福岡県と宮崎県が毎年優勝争いを繰り広げ、これに長崎県が食い下がる図式となっていた。
- 宮崎県は2004年まで24連覇し、一時は大会無意味論や宮崎県排除論が起こるほど圧倒的な強さを誇った。しかし、ほとんどの選手を旭化成勢が占めていた状態を2002年ごろから改め、他の実業団選手や市民ランナーの育成を図るチーム構成を進めるようになったことで、ついに2005年は福岡県に大差をつけられての優勝を許した。
- 2006年は厚い選手層を作り上げた福岡県が連覇を果たしたが、世代交代に成功しつつある宮崎県が前半をリードするなど優勝争いは激しさを増していた。2010年には覇権を奪還した。
- 山口県は2005年まで優勝争いの活躍を続けてきたが、カネボウが経営再建で防府工場を売却したことに伴い2006年4月に陸上競技部をブランド継承先のカネボウ化粧品本社がある東京都に移転したことで、「カネボウ頼み」だったチーム構成の転換を迫られ、その後の苦戦が予想されていた。
- 長崎県は、特に十八銀行で女子の活躍に刺激され男子も力を付けている影響が表れていた。
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同様の大会
2002年まで同時期に開催されていた東北、関東、甲信越の都道府県対抗戦として、東日本縦断駅伝があった(青森県から東京都を縦断することから「青東駅伝」とも。なお、元々この大会は「本州縦断駅伝」計画のひとつとして組み入れられ、この後東海道を縦断する「東京~大阪駅伝」、更に大阪から山口県下関を縦断する「西日本縦断駅伝」と3大会で本州を縦断し、更にこの大会を合わせて青森から九州を駅伝で結ぶ計画があったとされるが、東海道・西日本の縦断大会はその後実施されなかった。
また戦前にはこの列島縦断駅伝とは別に明治神宮競技大会という今日の国民体育大会のルーツともなる競技会で宮崎県から奈良県橿原市畝傍(うねび)を横断する駅伝大会が存在した[注釈 4]。
関連項目
脚注
関連書籍
外部リンク
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