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佐竹健太
日本の野球選手 ウィキペディアから
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佐竹 健太(さたけ けんた、1978年10月23日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(投手)。
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来歴・人物
要約
視点
プロ入り前
広陵高校出身で3年夏は県大会4回戦で敗退した[1]。卒業後は社会人野球のNKKに入団[1]。1999年夏の都市対抗野球では三菱自動車水島の補強選手として出場し、ベスト4の成績をおさめた[1]。社会人通算11勝4敗、防御率4.43[1]。
広島時代
2000年、球速は最速137km/hだが、キレのあるストレートと抜いてくるカーブを投げ分ける技巧派左腕として活躍し、ルーキーながら22試合に登板してチームに貢献した。
2001年は左のワンポイントリリーフを志向して自らサイドスローに転向したが、一軍では2001年は1試合、2002年は6試合の登板にとどまり、2003年には初めて一軍登板なしに終わった。
2004年は、2月のキャンプ中盤に胸郭出口症候群で離脱したが、7月に2年ぶりの一軍復帰を果たした。また、肩やひじへの負担を軽減するためにサイドスローから従来のオーバースローに戻した。32試合に登板して防御率3.91の成績を残し、プロ初勝利を挙げた。
2005年は、プロ入り初の開幕一軍を果たすと、ほぼ一年間一軍に帯同し、自己最多の50試合に登板した。オリックス・バファローズに移籍した菊地原毅に代わる左のワンポイントとして重宝され、半分以上が1イニング未満の登板だった。しかし被打率は左打者のほうが悪く、四球も多かった。
2006年、6年間付けていた背番号36から13に変更した。32試合に登板し、チームで唯一3年連続30試合以上に登板した。マーティ・ブラウン新監督によって1イニング以上を任される起用法に変わり、プロ入り後初めてイニング数が登板試合数を上回った。10月28日の秋季キャンプで左ひじ痛を発症したが、前回の病気と同じく手術をしないことを決断した。
2007年は球速が上昇し、140キロ後半まで出るようになった。シーズン前半は二軍だったが、後半にワンポイントとして起用され、20試合に登板。しかし被打率は右打者に5割以上、左打者にも3割打たれた。
楽天時代
2008年7月18日、牧野塁とのトレードで東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍。背番号は14。7月29日の対千葉ロッテマリーンズ戦で移籍後初登板。(2回1/3を1失点。)その後9月7日の北海道日本ハムファイターズ戦で先発の一場靖弘のあとを受け4回から7回までを無失点に抑えて、移籍後初勝利を挙げた。最終戦の対福岡ソフトバンクホークス戦では、松中信彦に投じた初球が併殺打となり、その裏にチームがサヨナラ勝ちしたために球団史上初の1球勝利(史上26人目)を達成した。その年の契約更改では、楽天選手初の保留者となった。
2009年は、チームの先発左腕が不足しているチーム事情により先発転向を目指し、オープン戦では先発で登板した。しかしシーズン中はワンポイント及びロングリリーフで起用された。
2010年は20試合、2011年は17試合、2012年は3試合にいずれもリリーフで登板したが、結果を残せず、10月2日に球団から戦力外通告を受けた。
引退後
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選手としての特徴
詳細情報
年度別投手成績
記録
- 初記録
- 初登板:2000年4月14日、対ヤクルトスワローズ1回戦(福岡ドーム)、9回裏に4番手で救援登板、1/3回無失点
- 初奪三振:同上、9回裏に稲葉篤紀から空振り三振
- 初勝利:2004年9月5日、対中日ドラゴンズ23回戦(広島市民球場)、9回表2死に4番手で救援登板・完了、1/3回無失点
- 初ホールド:2005年4月3日、対読売ジャイアンツ3回戦(東京ドーム)、6回裏1死に2番手で救援登板、1/3回を無失点
- その他の記録
- 1球勝利投手:2008年10月7日、対福岡ソフトバンクホークス24回戦(クリネックススタジアム宮城)、12回表1死に松中信彦を二塁ゴロ併殺 ※史上26人目
背番号
- 36 (2000年 - 2005年)
- 13 (2006年 - 2008年途中)
- 14 (2008年途中 - 2012年)
- 112 (2013年 - 2016年)
- 108 (2017年 - 2020年)
登場曲
- 『何度でも』 / DREAMS COME TRUE(2008年途中~)
脚注
関連項目
外部リンク
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