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全日本有線放送大賞

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全日本有線放送大賞(ぜんにほんゆうせんほうそうたいしょう)は、1968年から2000年まで讀賣テレビ放送大阪有線放送社(現在のUSEN)が共催していた歌謡曲の年間表彰である。初期を中心に上半期と年間の2回に分けて表彰された年もあるが、後に年1回(年間)のみの開催となった。ABC歌謡ゴールデン大賞・新人グランプリ』と並ぶ大阪で開催された音楽賞レースの1つである。

概要 全日本有線放送大賞, ジャンル ...
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概要

これは大阪有線放送社の有線放送を受信している利用者の楽曲へのリクエストの回数を基に審査するものであり1年間で最も多くのリクエストを獲得した楽曲を歌ったアーティストに贈られる大賞(以下グランプリ[注 1])を頂点に読売テレビ特別賞、ゴールドリクエスト賞、またその年デビューした新人アーティストの楽曲を対象とした新人賞とそこから選ばれる最優秀新人賞といった表彰があった。なお、1978年〜1989年は12月の年間のグランプリの選考・発表に加え、7月にも上半期における大阪有線でのリクエスト結果を元にした上半期グランプリの選考・発表も行われていたが、1990年度以降は年間グランプリ1本に統一された。

浜村淳の司会・進行で長年親しまれたが、1993年の第26回で降板し、1994年~1996年は赤坂泰彦が、1997年以降は堺正章が担当、2001年と2002年は『ALL JAPANリクエストアワード』へ、2003年以降は『ベストヒット歌謡祭』へ継承される(2011年以後は賞レース形式を廃止)。

大賞となるグランプリが決定すると天井から大量の紙吹雪が舞い、受賞者に読売テレビから賞金200万円[注 2]とゴールデントロフィーが贈られた。グランプリは「栄光の星座」という愛称が付け加えられた。受賞者が歌うと紙吹雪が再び舞う[注 3]。後継番組の『ベストヒット歌謡祭』(2005年)まで続いていたが、その後はなくなった(理由は不明)。最優秀新人賞を受賞した歌手にも大賞を受賞する権利を与えられた時期もある(浜村が司会をしていた頃、1992年の第25回まで)。

開催会場は初期(「夜のレコード大賞」)は読売テレビの本社スタジオ(「11PM」の収録スタジオ)、独立番組化した1976年以降はよみうり文化ホールフェスティバルホール大阪城ホールが主に使用された。

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沿革

ネオン街で口ずさまれている曲が本当のヒット曲ではないのか」というスタッフらの会話がきっかけで誕生[3]。もともとは読売テレビが制作して日本テレビ系列で放送されていた深夜のワイドショー『11PM』の年末企画「夜のレコード大賞」として、1968年12月10日にスタート(カラー放送)[1][3]。このタイトルには「日本レコード大賞アンチテーゼ」という意味が込められていた[3]。1976年度・第9回より独立して日本テレビ系列の「木曜スペシャル」枠で生放送されることとなり、『全日本有線放送大賞』(以下「全日本有線」)に改称した(独立後も『11PM』枠で新人賞ノミネートや当日放送後のパーティーが放送され、各受賞者が司会の藤本義一からインタビューを受ける事が慣例となっていた)。

1978年10月1日に読売テレビが音声多重放送を開始したのを受け、同年12月7日の第11回年間大賞からはステレオ放送となった[2]

1991年開催の第24回からは前年限りで終了した日本テレビ主催『日本テレビ音楽祭』の内容の一部を引き継いだ。

1992年8月30日に『24時間テレビ15「愛の歌声は地球を救う」』で『全日本有線』の過去のグランプリ受賞者などが受賞曲を披露する歌謡ショー形式として編成されたが、開始当初から続いた読売テレビ放送枠はこの回で終了した。

1995年開催の第28回からは、審査対象が楽曲からアーティストに変わった[3]。またノミネート制を廃止したことで欠席したアーティストが多く受賞するようになった。但し、グランプリと最優秀新人賞は出席したアーティストのみが受賞できる規定があった[3]。実際に1999年開催の第32回では最多リクエストを獲得した宇多田ヒカルが出演を辞退したため、次点のGLAYがグランプリを受賞した[3]。欠席者が受賞する問題はのちの『ALL JAPANリクエストアワード』に続いたが、『ベストヒット歌謡祭』になってからは欠席者の受賞を廃止した。

グランプリ連覇の最長記録は4連覇で浜崎あゆみが2000〜2003年に達成、全日本有線放送大賞限定だと3連覇でテレサ・テンが1984〜1986年に達成している(年間ベース)。

1978年から1988年の11年間はTBS系の『ザ・ベストテン』の放送日と重なり、『全日本有線』の終了直後に『ベストテン』が始まり、『全日本有線』に出演したアーティストがその週の『ベストテン』にランクインした場合は、“追っかけマン(ウーマン)”役のMBSアナウンサーの仕切りで、会場近くから中継で歌うことが恒例であった。この中継には当時『全日本有線』の司会を務めていた浜村が局の垣根を越えて出演[注 4]し、イントロに乗せて曲の紹介をした。

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部門賞にまつわるエピソード

司会者

歴代グランプリ(大賞・金賞)受賞一覧

要約
視点
さらに見る 回数, 放送日 ...

第1回〜32回の大賞受賞歌手・曲の出典:[3]

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スタッフ(2000年 (第33回))

  • 構成:八木晴彦
  • 舞台監督:梅田尚哉
  • ディレクター:山口剛正
  • プロデューサー:藤澤國彦
  • チーフプロデューサー:弘中謙

脚注

関連項目

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