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寺尾聰

日本の俳優、ミュージシャン (1947-) ウィキペディアから

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寺尾 聰(てらお あきら、1947年昭和22年〉5月18日[1] - )は、日本俳優ミュージシャン、ナレーター。

概要 てらお あきら 寺尾 聰, 生年月日 ...

神奈川県横浜市保土ケ谷区出身。ホリプロダクション石原プロモーションを経て、寺尾事務所(自らの個人事務所)所属。

目黒区立第十中学校和光学園法政大学第二高等学校文化学院卒業。父は俳優の宇野重吉。既婚。3児の父。

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来歴

要約
視点

劇団民藝の創設者である宇野の長男として生まれたが、この境遇に反発し音楽に傾倒。1965年に奥島吉雄、林廉吉らが結成したカレッジ・フォーク・グループ「ザ・サベージ」に加入し、ベースを担当した。1966年に「いつまでもいつまでも」でレコードデビュー、この曲と2枚目の「この手のひらに愛を」が大ヒットするが、すぐにグループを脱退した。1968年三保敬太郎を中心としてザ・ホワイト・キックスというグループ・サウンズに参加、シングルを1枚出して解散。

同年には、石原裕次郎製作・主演の映画『黒部の太陽』で俳優デビューを果たす。これを機に裕次郎の門下となり、石原軍団の若手有望株として、主にテレビドラマに出演、青春ものドラマなどで二枚目半的な役柄を演じることが多かった。また、『大都会』では新聞記者、『大都会 PARTIII』(日本テレビ)『西部警察』(テレビ朝日)など、石原プロモーション制作のアクションドラマでは刑事役で活躍した。このころはサングラスをかけ、ニヒルな表情がトレードマークだった。石原軍団入りするきっかけは、当初宇野の主宰する劇団民藝に一研修生として入団を希望したが、宇野本人から「たとえ研修生扱いでもマスコミは親の七光りとして見るだろう」という理由で、宇野と懇意だった石原を紹介されたという[2]

ソロとしての歌手活動では、ヨコハマタイヤのCM曲だった「SHADOW CITY」のほか「ルビーの指環」「出航 SASURAI」が大ヒットし、「ルビーの指環」は第23回日本レコード大賞TBSテレビラジオ)をはじめとする多くの賞を受賞した。これを含め、同時期に発表したソロアルバム『Reflections』は、当時のアルバムセールスを更新する(164万枚。井上陽水の『氷の世界』の売り上げ記録を8年ぶりに更新し、以後1990年に松任谷由実天国のドア』に破られるまでトップであった)空前の大ヒットとなり、本格的に音楽活動を再開することとなった。

しかし、音楽活動についてのスタンスの相違で、石原プロ首脳(小林正彦専務)と寺尾との関係が悪化し、最終的には「勘当」という表現で退所となる[3]。なお、退所後も石原個人との感情的な溝はなく、寺尾・石原プロの双方とも共演NGとはなっていない。

退所後、1980年代後半から黒澤明が監督した『』『』『まあだだよ』に続けて出演。2001年、黒澤の遺稿を映画化した『雨あがる』に主演し、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞した。2005年にも『半落ち』での演技で同賞の2度目の受賞を果たした。日本レコード大賞ならびに日本アカデミー賞最優秀主演男優賞の両方の獲得経験者は寺尾のみである(2022年現在)。

退所後も音楽活動を続け、1987年頃よりレコードのリリースが停止したが、2005年7月7日CLUB CITTA神奈川県川崎市)でのライヴを期に、18年ぶりとなる歌手活動を再開した[4]。現在でも、ステージでジャズベースをプレイしており、「ザ・サベージ」時代と変わらぬ腕前を披露している。アルバム『Re-Cool Reflections』も発売され、メロウな歌声を聴かせている。2007年1月に、NHK総合テレビで放送された『SONGS』に出演、アルバム『Reflections』収録曲や「ルビーの指環」を新アレンジで披露した[5]

2007年12月31日の『第58回NHK紅白歌合戦』(NHK総合テレビ・ラジオ第1)に出場した。紅白出場は、1981年から実に26年ぶりで、通算2回目[6](詳細はNHK紅白歌合戦出場歴を参照)。

2008年4月、紫綬褒章を受章。父の宇野重吉も紫綬褒章を受章しており、父子2代での受章となった。2018年11月、秋の叙勲で旭日小綬章を受章[7][8]

2023年12月31日、『第74回NHK紅白歌合戦』内のテレビ放送70年を記念した特別企画「テレビが届けた名曲たち」にて「ルビーの指環」を歌唱[9]。3度目の出場となった。

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人物

父は俳優宇野重吉。妻は『西部警察』で共演した元モデルの星野真弓。1979年秋の資生堂CM『微笑の法則』などに出演したが、結婚を機に引退した[3]。前妻は范文雀。『2丁目3番地』で共演し、1973年に結婚するも、翌年離婚した[2]

父親の宇野が有名過ぎることからこれに反発し、当初は俳優になる意思は一切持っていなかったという。寧ろスポーツに熱中し、特に野球を好んで高校に入ったものの、挫折。荒れた時期があったのか、高校1年の時だけで3度も留年したという[10]。その後、そんな状況を見かねた宇野が石原を介して石原プロモーションに入ることになり、デビューに繋がった。

賞詞

歌手活動

概要 寺尾 聰, 出生名 ...

シングル

さらに見る 発売日, 面 ...

コラボレーションシングル

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アルバム

オリジナルアルバム

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ライヴアルバム

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セルフカヴァーアルバム

さらに見る 発売日, タイトル ...

企画盤

さらに見る 発売日, タイトル ...

ベストアルバム

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タイアップ

さらに見る 曲名, タイアップ ...

歌手としてのテレビ出演

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出演作品

テレビドラマ

映画

劇場アニメ

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その他

ドラマ以外のテレビ出演

NHK紅白歌合戦出場歴

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ナレーション

ラジオ

コマーシャル

PV

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脚注

関連項目

外部リンク

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