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おニャン子クラブ

日本のアイドルグループ (1985-1987) ウィキペディアから

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おニャン子クラブ(おニャンこクラブ)は、フジテレビテレビ番組夕やけニャンニャン』から誕生した女性アイドルグループ[6][7]1985年昭和60年)から1987年(昭和62年)にかけて活動した[8]

概要 おニャン子クラブ, 出身地 ...
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概要

1985年(昭和60年)4月1日、フジテレビのバラエティ番組『夕やけニャンニャン』開始とともに番組内のアシスタントとして同時に芸能界デビューし、3か月後の1985年7月5日に発表したデビューシングル「セーラー服を脱がさないで」がヒットしてブレイクした[9][10]。会員番号制度、歌詞に含まれる独特のユーモア、本業の学生活動を優先させるクラブ活動的感覚での芸能活動で人気を博して一大ブームとなる[11][12][13]。以降、おニャン子クラブとしてのグループ名義、メンバーのソロ名義、グループ内の小ユニット(『うしろゆびさされ組』『ニャンギラス』『うしろ髪ひかれ隊』)名義で、シングル、アルバム、ビデオソフト、写真集を絶え間なくリリースし続けてヒットさせ、"おニャン子旋風" "おニャン子現象"と呼ばれる社会現象となり[14][15]1980年代後半[注 2]日本のアイドルシーンを席捲した[6][12][16]。1987年8月31日の『夕やけニャンニャン』の番組終了に伴い、翌9月に解散コンサートを行ない、わずか2年半でその活動が閉じられた。2年半の間にメンバーの加入と脱退が頻繁に行われたので、メンバーの顔ぶれは常に流動的であった。結成時は11人で、解散時は19人が在籍していた[注 3]。おニャン子クラブは日本で最初の大人数アイドルグループとされ[17]、メンバーを固定せず、卒業や新メンバーの加入があるという、1980年代当時において画期的なアイドルグループであった[18]。おニャン子クラブの登場は、日本の音楽シーンに、アイドル観に、そしてテレカ等の販売を巡るパブリシティ権の問題(おニャン子クラブ事件)に、大きく揺さぶりをかけた[12]

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歴史

要約
視点

結成までの経緯

1983年(昭和58年)から始まったフジテレビ土曜深夜の生放送番組『オールナイトフジ』は、"女子大生ブーム"を巻き起こすなど社会的現象ともいえるほどにヒットし[19]、そのヒットの一翼を担った番組アシスタントの女性グループ、オールナイターズもアイドル的な人気と活動展開で盛り上がっていた[20][21]。彼女らは既存の芸能人ではない素人の女子大生たちを中心に構成されていて、それまで崇高な存在であったアイドル像とは相反していたことで注目を浴びていた。素人女子大生集団のオールナイターズがレコードを出したりタレントに転身するといった流れは、おニャン子クラブやおニャン子以降のグループアイドルの原点とされ、後世に絶大な影響を及ぼした[21]

その成功から、フジテレビは同じスタッフによるもので、平日夕方の時間帯で中高生をメインターゲットに放送する、『オールナイトフジ』と同様な生放送の情報バラエティ番組『夕やけニャンニャン』の開始と、オールナイターズに相当する番組アシスタントの女性グループ、おニャン子クラブの結成を企画する[1][22][23]

1985年(昭和60年)

1985年4月からの夕方ローカル放送枠で行うレギュラー番組に先駆けて、まずはパイロット番組として、1985年初頭に特番『オールナイトフジ女子高生スペシャル』(1985年2月23日、3月16日)を制作して放送。その特番に出演していた女子高生の中から選抜した11人でおニャン子クラブを結成し、4月1日から『夕やけニャンニャン』放送開始とともに出演させた[24]

おニャン子クラブは当初からメンバーの増員を図ることとなった。『夕やけニャンニャン』番組開始時からメンバー選定のオーディション・コーナー「ザ・スカウト アイドルを探せ!」を設け、放送第一回目のオーディションで河合その子(No.12)、内海和子(No.13)、富川春美(No.14)が加わり、以後、毎週のオーディションでメンバーを拡充していった[25]。平日月曜から金曜まで夕方5時からの一時間番組だった『夕やけニャンニャン』の番組コンセプトに“放課後”を置いていたため、現役の女子高生が中心に集められた。また、「どこにでもいそう」、「ちょっと気になる可愛い同級生」と、オールナイターズのコンセプトが踏襲されて、芸能界に染まっていない素人感覚のメンバーを集めたのだが、当初から芸能界志向のある者や、その関連オーディションの常連者、既に芸能事務所に所属していた者、オールナイターズ出身者で既に名前が知られていた者まで参加していた。週刊文春喫煙事件の影響により一部のメンバーがグループからの除籍を余儀なくされたものの、看板メンバーが中心となって以後の番組を盛り上げていった[25]

『夕やけニャンニャン』放送開始から3か月後の7月5日にシングル「セーラー服を脱がさないで」でレコードデビュー[26]。たちまちにヒットしていき、当初から評判があった番組とおニャン子クラブの人気はここでブレイクした[27][28]。それを期に『夕やけニャンニャン』は番組開始当初は7局ネットだったのが年内には全国ネット規模の23局ネットまで拡大していく。当初3%だった視聴率も、年末には18%を超えるようになる[29]。また、おニャン子クラブは、フジテレビの他の番組である『夜のヒットスタジオDELUXE』や『スターどっきり㊙報告』、他局人気音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS系)、『ザ・トップテン』(日本テレビ系)にも出演を果たし、さらにアイドル情報雑誌の『明星』『平凡』『DUNK』などにも登場して全国的な知名度も上がっていくようになる。

1985年9月、「セーラー服を脱がさないで」のヒットで軌道に乗ったおニャン子クラブから、そのメンバーのひとりであった河合その子が「涙の茉莉花LOVE」でメンバー初のソロデビューを果たす。オリコン週間チャートで初登場5位、翌週には1位を獲得。女性アイドルとしては薬師丸ひろ子以来となる、デビュー作チャート首位という快挙を成し遂げる[30]。翌10月には、そのメンバーから高井麻巳子(No.16)と岩井由紀子(ゆうゆ、No.19)のふたりで結成された初のグループ内ユニット、うしろゆびさされ組がフジテレビにおける新番組のアニメ『ハイスクール!奇面組』主題歌「うしろゆびさされ組」でデビューして、こちらもまたヒットして『夕やけニャンニャン』発のおニャン子クラブ関連曲は成功を収め続けた[30]。以降、おニャン子クラブとしてのグループ名義、メンバーのソロ、グループ内ユニットのシングル曲を続々と繰り出し、いずれもヒットを記録していった[31]

おニャン子クラブは、テレビ番組での歌唱にとどまらず、10月に日比谷野外音楽堂で初の有料コンサート「KICK OFF」を開催。フジテレビの関連会社、フジパシフィック音楽出版が運営する公式ファンクラブの「こニャン子クラブ」も発足し、最盛期で18万人の会員数が集まった。また、おニャン子クラブが番組内でタイアップで着ていた、原宿ブティックセーラーズの服が番組の影響で爆発的に売れるという現象が起こった。それを参考に「Hip's road」というフジテレビによる独自ブランドを立ち上げ、グッズ販売だけで番組のスポンサー収入に匹敵する事業収益をあげるなど、おニャン子クラブは単なる番組企画的な存在から、フジテレビにおける収益事業のひとつに向けて変換されていく[32]

1986年(昭和61年)

1月、「セーラー服を脱がさないで」のフロントボーカル4人のうちのひとりだった新田恵利(No.4)が「冬のオペラグラス」でソロデビュー。オリコン初登場1位となり、30万枚以上の売り上げを記録する。新人女性歌手のデビュー曲初登場1位は初めての記録であった[33]。同月、フジテレビ単発ドラマ枠の「月曜ドラマランド」において、おニャン子クラブのメンバー初主演ドラマとなった福永恵規(No.11)主演『ボクの婚約者』放送。以後、同枠では月に一、二本のペースでおニャン子クラブのメンバーを主演に置いたものが放送されるようになっていく[34]

2月、おニャン子クラブ結成時からの人気メンバーであった国生さゆり(No.8)が「バレンタイン・キッス」で満を持してデビュー[35]。3月、「セーラー服を脱がさないで」のフロントボーカル4人のうちのひとりだった中島美春(No.5)が専門学校に進学するため、河合その子がソロ活動に専念するためにおニャン子クラブを脱退する。それを受けて、『夕やけニャンニャン』の番組内と同時期に開催されたおニャン子クラブのコンサートツアー最終公演でふたりの“卒業式”が執り行われ、華々しく送り出されていく。これが慣例となり、以後おニャン子クラブから脱退していく主要メンバーに対して、番組内とその同時期にあるコンサートツアー最終公演で“卒業式”が行われるようになっていく。現代において、モーニング娘。AKB48乃木坂46などのグループアイドルが採用している卒業システムは、おニャン子クラブがその先駆けである[36][37]

活動初期からの著名なメンバーが脱退していったものの、おニャン子クラブがブレイクした後に加入してきた渡辺美奈代(No.29)が7月にレコードデビューし[38]渡辺満里奈(No.36)も10月にレコードデビュー[39]、他にも工藤静香(No.38)、生稲晃子(No.40)ら、おニャン子クラブの中期から後期の人気を支え、その後も芸能界に残っていくメンバーが続々と加入してくるなど、おニャン子クラブの面子は日々充実していった。セールス面においても、1986年のオリコンシングル1位獲得46曲中、おニャン子クラブ関連が30曲獲り、52週中の36週でそれを記録するなど(1986年のオリコン週間シングルチャートを参照)、ヒットチャートの首位獲得率7割強という驚異のブームを巻き起こし[40]、「日本芸能界史上最大のヒット商品」と呼ばれるまでに至った[41]。人気歌手を抱える各プロダクションは、発売週がぶつかると必ず1位をおニャン子に取られてしまうため、「おニャン子がレコードを出す」と聞く度に発売日をずらす程であった[42]。おニャン子クラブ関連の連続リリースによりレコード店のシングル盤コーナーを訪れる客が増え、貸しレコードの普及などにより数年来低迷していたシングル盤市場が再び盛り上がりを見せたという分析もある[43]

一方でこの時期、おニャン子クラブ関連が毎週2~3組もランキングしていたTBSの『ザ・ベストテン』に、フジテレビと『夕やけニャンニャン』側は「順位が低い」とランキングについて異議を唱える。このランキングの見解を巡ったことによる双方の溝は埋まらなかった。7月からフジテレビと『夕やけニャンニャン』側は、おニャン子クラブ、ソロ、グループ内ユニット、そしておニャン子クラブから脱退したOGも含めた全ての出演を『ザ・ベストテン』に対してボイコットしていく。これは翌1987年4月まで半年以上にわたって長引いていくことになってしまった。

9月の番組内およびコンサートツアー最終公演で、新田恵利、名越美香(No.9)、福永恵規、吉沢秋絵(No.25)、山本スーザン久美子(No.32)の結成時からのメンバーを含む5名が卒業しておニャン子クラブを脱退[44]。それと前後して、集英社刊行の女性ファッション誌『Seventeen』主催のオーディション「ミス・セブンティーン」とコラボレーションした「ザ・スカウト アイドルを探せ!」によって選ばれた貝瀬典子(No.41)ら新世代のメンバーが大量に加入[44]。番組開始当初は毎日出演、この頃は週一でレギュラー出演していたとんねるず石橋貴明は、新メンバーの顔と名前が一致しないと嘆くようになる。

『夕やけニャンニャン』とおニャン子クラブは1986年前半から中盤に掛けては前年以上のブームを巻き起こしたのだが、後半である秋口あたりからブームの退潮が見られるようになっていく。8月末に全国公開された主演映画『おニャン子ザ・ムービー 危機イッパツ!』が興行的に失敗に終わる。そして、5月からゴールデンタイム帯で放送されていた『夕やけニャンニャン』の姉妹番組『夕食ニャンニャン』もわずか4ヶ月後の9月で終了し、"異常ブームの終わり" "陰りが差したおニャン子"などと囁かれ[45]、本体の『夕やけニャンニャン』自体の視聴率もピークだった1986年初頭から下がり続けていった[46]。1986年の後半から荻野目洋子南野陽子などのおニャン子クラブ系以外のアイドル・タレントも活躍を示し、アイドル・マーケットもおニャン子クラブだけではなくなってきたことを示した[47]コラムニスト竹内義和は、河合その子や国生さゆり、新田恵利などピンでも人気の獲れるトップアイドルが集団になっていたのがおニャン子クラブの魅力であったが、そうした人気メンバーが次々卒業していったことが、グループとしての人気低下に繋がったと指摘した[48]

1987年(昭和62年)

3月の番組内および4月の春のコンサートツアー最終公演で、「セーラー服を脱がさないで」フロントボーカル4人のうち最後のひとりであった内海和子、初期メンバーであった樹原亜紀(No.6)、国生さゆり、立見里歌(No.15)、高井麻巳子が脱退[49]。5月、生稲晃子、工藤静香、斉藤満喜子(No.42)の3人で結成されたうしろ髪ひかれ隊がシングル「時の河を越えて」でデビューする。ヒットしたものの、これがグループ内ユニットの最後のものとなり、翌6月15日に『夕やけニャンニャン』内で番組の終了とおニャン子クラブの解散を告知する[50]。同時に、おニャン子クラブの新規メンバーを選ぶ番組内オーディション・コーナー「ザ・スカウト アイドルを探せ!」も終了となる。

8月21日、ラストシングル『ウェディングドレス』を発売。同月31日、『夕やけニャンニャン』が番組終了[51]。翌月9月20日の代々木第一体育館におけるコンサートにて解散した[51]。テレビ連動型のグループであったが故に、番組の終了と共に必然的に終止符が打たれてしまう定めであったが、約2年半での解散となった[28]。ヒットチャートを独占した前年程の勢いは無かったものの、まだまだ余力を残しての早過ぎる解散であった[52]。おニャン子クラブ活動中にレコードデビューしていた者を中心に芸能事務所に所属していたメンバーは解散以降も芸能界に残れたが、それ以外のメンバーのマネージメントはフジテレビ預りであったため、活動続行不能となって同時に引退していった。尚、派生ユニットの「うしろ髪ひかれ隊」は、おニャン子クラブの解散後も活動を継続した。

解散後

1990年代に幾度か、「あの人は今」のような番組の企画で、芸能界に残っていた者、芸能界から引退していた者も含めた元メンバーを集め、時には「セーラー服を脱がさないで」を歌唱させ“再結成”と謳われもしたが、あくまでもその場限りであった。

1993年、『第35回日本レコード大賞』に作・編曲の佐藤準が編曲賞を受賞したために特別出演して「セーラー服を脱がさないで」を佐藤準の新アレンジでの披露で生歌唱出演した。その時のメンバーは岩井、内海、新田、斉藤、立見、白石の6名であった。

2002年、初期メンバーのうち賛同者のみの14名によって一時的に再結成し、シングル「ショーミキゲン」をリリースした。リリース後にはイベントやテレビ出演なども果たし、同年12月5日放送の『2002FNS歌謡祭』では、後期メンバーを含めて「ショーミキゲン」と「セーラー服を脱がさないで」を歌唱した。また2010年にはテレビCM上で11名のメンバーが再結成し、「セーラー服を脱がさないで」のサビを俳優・伊藤淳史とともに歌い踊り、アラフォーになったおニャン子クラブの姿を披露した。

2005年秋、サンセイアールアンドディからパチンコ台「CRおニャン子クラブ」がリリースされた。ザ・ベストテンのランキング発表のような反転フラップ表示的な演出が特徴である。もっとも、視覚的には番組と同じなのはロゴとキャラクターの振り付けのみで、会員の実名は一切使われておらず、アニメ絵のキャラの顔も、特に会員に似せてはいない。登場キャラクターは全員学生服を着ているが、実際の番組では制服のまま出演することは許されなかった。

2018年7月7日正午から日本テレビ系の音楽特番『THE MUSIC DAY 2018 伝えたい歌』で、内海和子・国生さゆり・立見里歌・新田恵利・山本スーザン久美子・渡辺美奈代が出演した[53][54]

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メンバー

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派生ユニット

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特徴

要約
視点

プロデュース戦略

おニャン子クラブのプロモーションに関するフジテレビ(JOCX)のメディア戦略は『CX銀河計画』[注 11]と称され、テレビ的なメイキング感覚を巧みに利用した疑似イベント化により、番組の視聴者を巻き込みながら、フジテレビ自らがアイドルを作るという戦略をとった[55][56][57]。番組内のオーディションから新人を発掘するというシステムであったが、かつての『スター誕生!』との相違点は、フジテレビ自体がマネージメントのイニシアティブを握った点で、その意味でおニャン子クラブは、テレビが生み育てた「純正テレビアイドル」となった[58]。コアターゲットは10代の男子中高生であったが、世代を超えて多くの支持を集めた[59]。歌手という制約を設けた場合、とてもレコードが出せるレベルではないメンバーも中には居たが、音楽番組『ミュージックフェア』も担当したプロデューサーの石田弘は、アイドルと歌手は別問題であるとし、次のように語った。

ファンはアイドルに、歌のうまい、下手を求めていないと思う。それは関係ないんじゃないか。ジャケットの写真やテレビを含めたビジュアルな面から感じている"愛くるしさ"と音楽の音が結びついて興味を持っているのではないか、と思う。アイドルと歌手は別問題なんですよ。アイドルは、ボクに言わせるとグッズなんです石田弘、独占インタビュー/8月31日で終わったおニャン子[60]
おニャン子としての活動
  • 『夕やけニャンニャン』の番組内ではアシスタントやコーナー説明を当番制で行っていた。時にロケに出ることもあった。
  • 本業は高校生であるとメンバーもスタッフも強く認識しており、テスト期間中などは番組を休んでもよいことになっていた(一週間前後のことが多かったが、大学受験を控えたメンバーは1ヶ月以上番組に出演しないこともあった)。また、普段も宿題を楽屋に持ち込んでメンバー同士で教えあったり、番組スタッフに勉強を見てもらうことも頻繁にあった[61]
  • おニャン子クラブのメンバーは原則生放送である『夕やけニャンニャン』の出演に際して、大半は高校生大学生などの学生であったことから各々の定期試験中は番組出演を控え欠席した。また、番組側が斡旋した仕事(ドラマ撮影など)での欠席もあった。そのため、『夕やけニャンニャン』を含めて、おニャン子クラブ名義の活動は必ずしもメンバー全員が揃っていたわけではなかった。
メンバーの選出方法
  • オーディションは、月曜日に始まる自己紹介から金曜日の最終日までの5日間、5人で競い合い、その間毎日番組に登場して課題をこなさなければならなかった。
  • オーディションを受けたメンバーのなかには、芸能事務所やレコード会社に在籍していたメンバーもいる。ソロデビューを視野に入れた売込みの戦略のひとつで、オーディションに出場・合格させて観客や視聴者に「原石を見つけた」と注目させる目的であった[注 12]
  • オーディション合格後も(芸能事務所に所属していたメンバーを除いて)、メンバーは、フジテレビ局預かりとされ、芸能事務所無所属の正真正銘の素人集団であった。その為、大部分のメンバーが番組終了と同時に解散したおニャン子クラブと共に、一般人として各々の生活に戻った。しかし2014年現在、一般生活に戻っていることが確認できるのは15名のみであり、芸能事務所に所属していない残りの25名は消息不明の状態となっている[62]。芸能活動が続行出来たのは、その時点で芸能事務所に所属していた10人前後の者に限られた。

なお、上記のオーディションは形式上は審査員の合議で決められているとされていたが、ディレクターの笠井一二は稲増龍夫のインタビューの中で、メンバーは全て自分が決定していたと述べている。

稲増「おニャン子のオーディションというのは、あれは出来レースだったんですか。」

笠井「視聴者の評価を参考にして全部自分で決めていました。こういう子がいないからこういう子を選ぶとか。美形が欲しいから美形はどうかとか。たとえば、河合その子が卒業したら、河合その子みたいな子を二人入れるとか。いわば補充ですよ、クラスの。すごいアクの強い子もほしいし、生意気なのもほしいし、おとなしいのもほしいし、アイドルっぽいのもほしいし、そういうふうで、いつも補充と入れ替えをやって、三ヶ月くらい見てて、だめだったらそのまま出しちゃうという。」『増補 アイドル工学』 第5章 TVメディアが作ったアイドルシステム[63]
会員番号制度

おニャン子クラブのメンバーには会員番号が与えられ、『夕やけニャンニャン』内であろうと他局の番組であろうと、自己紹介の際には必ず名前の前に「おニャン子クラブ会員番号××番」を付けて名乗っていた[注 13]。そのため、解散後も芸能界に残るなどした著名なメンバーは名前とともに会員番号もセットにして覚えられている。会員番号の振り分けは、結成時の11人はくじ引き順で、それ以後は加入順(加入が同時の場合はエントリーNo.順)である。脱退した者の番号については欠番とした。解散時、会員番号は52番まで行っていた。

反復露出の効用

おニャン子クラブは『夕やけニャンニャン』により、週一回ではなく月曜から金曜までの帯、という反復ができるという大きな力を持ちえた結果、従来ラジオや有線で曲を知り、テレビで確認する、というレコード購買者の行動パターンを、テレビで知って、テレビで確認し、レコードを買いに行く、という形に変化させた。『夕ニャン』がラジオ的機能を果たした結果、ヒット曲が次々と生み出されることとなった[64]。また、『夕やけニャンニャン』のみならず、『夜のヒットスタジオ』『月曜ドラマランド』『ハイスクール!奇面組』『なるほど!ザ・ワールド』などフジテレビの各種番組が様々な形でおニャン子のレコードの露出に当たったことも、ヒットのスケールを大きくするのに役立った[65]

多品種少量の時代のアイドル

おニャン子クラブではビッグアイドルを作らず、クラブのメンバーの誰かのファンになってもらえばいいというスタイルをとった。社会学者の小川博司は、これは成熟した消費社会における少量多品種のマーケティングそのままであると指摘し、次のように評した。

「夕やけニャンニャン」は一つの番組だけで、アイドルのカタログとなっていた。おニャン子のメンバーは、おニャン子クラブの中で、メンバー相互の差異において、個性を析出させるのである。小川博司、『音楽する社会』[66]

音楽性

おニャン子クラブは音楽の方向性として1960年代のモータウン・サウンドを意識していたとされる。60年代の人懐っこいモータウン風のメロディーに、打ち込みビートを融合させるスタイルが特徴であった[67]。『KICK OFF』『夢カタログ』で編曲の多くを担当した山川恵津子と、シンセサイザー・プログラマーの森達彦は、当時イギリスで流行していたマリ・ウィルソンなどの洋楽アーティストのサウンドを参考にしていたと語っている[68]。森はムーンライダーズの所属事務所の系列のプログラマー集団・ハンマーの代表で、おニャン子のほぼ全作品で音作りに関わった。おニャン子作品のバッキングにはProphet-5、PPGなどの当時の最新デヴァイスが用いられ、アイドル歌謡といえどサウンドはロックに引けを取らなかった[69]秋元康は、朝妻一郎との対談において、おニャン子クラブの音楽性を次のように語っている。

後藤次利さんとか、佐藤準さん、高橋研さん、そういう本物の音楽好きが冗談でやっていたことの面白さですよね。つまり、僕も含めて、当時、歌謡曲最前線の人たちが作っていたわけじゃないんです。それまでアイドルの曲を書いていた職業作家ではなかったから、良かったんじゃないですかね?もともとサディスティック・ミカ・バンドにいた後藤次利みたいな人が「俺だったらこういうアイドル曲をつくるけどね」とか「俺、前からアイドルの曲を作りたかったんだ」とか言って曲を作った。だから、要所要所で、あの洋楽のあそこをパクッてるなとかいう遊びが見える。それも、隠してパクってるんじゃなくて、それが分かる楽しさ。秋元康、『対談:秋元康×朝妻一郎』[70]

他局の歌番組との関係

おニャン子クラブおよびそのメンバーは(解散前もしくは卒業前・脱退前においては)、フジテレビ専属とされ、局側が必要と判断したもの以外は他局の番組や主催イベントに出ることは原則としてなかった[71]

ザ・ベストテン』(TBS)には彼女らの楽曲(卒業組含む)が1986年7月31日から1987年4月2日の間には多数チャートインし、1985年8月29日の初登場から1986年7月中旬までは出演していたものの、その後減少した。司会者は、おニャン子クラブの欠席理由に関して、1986年10月2日までは、「定期試験中」「コンサート中・レコーディング中」等の理由を述べていたが、1986年10月9日以降は「各方面の調整がいまだ取れず今回は欠席」という欠席理由を述べていた[注 14][注 15]。1987年3月12日に「哀愁のカルナバル」で7位の河合その子、4月9日に「天使のボディーガード」でゆうゆ with おニャン子クラブが第10位にランクインを機に出演拒否を解除したが、“おニャン子クラブ”としての出演は解除後も一度もなかった。ソロ出演かうしろ髪ひかれ隊のようなユニット出演のみしかなく、解除後にランクインされた曲では、「金輪際、出演する事はない」という理由で歌が披露される事はなかったなど、特に『ザ・ベストテン』との関係はおよそ良好とは言い難かった。

この件に関しては、夕やけニャンニャンディレクターの笠井一三が、「おニャン子クラブの歌にランキングは付けられない」と言う理由だと説明していたが[72]、一方で日本テレビの『歌のトップテン』には出演していたり、夕ニャン内でオリコンのコーナーを作り、おニャン子関係でランキングされるとそれを祝うという活動も行っていた。またそれ以外にも、「『ザ・ベストテン』のランキングは、レコード売り上げ、有線放送リクエスト、ラジオ放送のリクエストチャート、番組に寄せられたハガキのリクエスト等の総合ポイントにて順位付けがなされていたが、放送される週によってそれらの比重が変化し(例:レコード売り上げがランキングに最重視される週もあれば、ハガキのリクエスト、もしくは有線・ラジオのリクエストが最重視される週がある等)、順位付が公正になされていなかった為、出演を遠慮していた」との記述もある[72]が、真偽の程は定かでない。なお『ザ・ベストテン』におけるおニャン子関連での初の1位獲得は解散からちょうど1年後に工藤静香の「MUGO・ん…色っぽい」でようやく達成している。

NHK紅白歌合戦』の出場歌手にも選出されなかったが、NHKによると1985年の不出場は「単に視聴者対象の事前調査で票数が少なかったから」と説明している[43]。なお、おニャン子クラブメンバーのうち、『NHK紅白歌合戦』に歌手として出場経験があるのは(2024年現在)工藤静香のみである[注 16]

他の歌手との関係

他の歌手の中には素人同然の彼女らに対し、冷たい扱いをした者もいたとされる。例えば中森明菜は露骨に不快感を示したが、所属レコード会社のワーナー・パイオニア(当時)の明菜担当チームは「ニャンギラス」も担当しており、その事実を明菜に知られないように作曲家の名前を変名にしたり、クレジットを意図的に外すなどしたという[73]。また、おニャン子クラブの登場で活躍の場を奪われたり、ファンが減った元アイドルやタレントからはきつい目で見られたという[74]

類似点

音楽評論家の安倍寧は、おニャン子クラブと1934年公開の日本映画隣の八重ちゃん』との類似点を指摘している[75]

影響

おニャン子クラブに象徴される「普通過ぎる」アイドルの増殖や「アイドルの素人化」は、その反動として後藤久美子に代表される美少女ブームを到来させた[76][77]。評論家の芹沢俊介は当時の美少女ブームについて次のように語っている。

ゴクミたちの出現は、おニャン子たちの終焉を語っている。かわいさ、親しさから美しさ、取りつきにくさへの変化は、水平的なアイドル関係から垂直的なアイドル関係への移行である。アイドルないしスターの基準は、そのときどきで親しみやすさと美しさの両極の間を揺れている。芹沢俊介、『ゴクミたち』[78]

社会学者の稲増龍夫は、おニャン子クラブが一大ブームを巻き起こした反動で、1990年代の「女性アイドル冬の時代」に繋がったと指摘し、次のように評した。

アイドルは、70年代、80年代と、それぞれ現象の発展形態としては異なっていたが、多くのファンを巻き込んだメディア文化現象として展開し、特に80年代の松田聖子の登場からおニャン子クラブの大ブームまでは、当時のわが国の「シミュレーション文化」の典型例であった。ところが、おニャン子クラブに見られた、アイドルの誕生メカニズムそのものを自ら暴露し相対化していくという、過激なメディア戦略の反動からか、90年代になってからは特に女性アイドルの低迷が著しく(男性アイドルはジャニーズ系が健在であった)、近年の安室奈美恵SPEEDの登場までは、ミュージックシーンの表舞台から遠ざかってしまったのである。稲増龍夫、『SPEEDに見るアイドル現象の変容』[79]
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作品

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出演

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バラエティ

テレビドラマ

音楽番組

ラジオ

CM

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コンサート

要約
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解散コンサート

1987年9月20日(日曜日)、国立代々木競技場第一体育館ではおニャン子クラブ解散コンサートが行われ、全国から3万人近いファンが集まった。また会場前の広場には チケットを手に入れられなかった数百人のファンが押し寄せ、その数は原宿駅に渡る歩道橋まで埋め尽くす程であった。そうしたファンは皆一丸となって会場から微かに聞こえてくる歌声を聞きながら声援を送っていた。

しかし、最終公演のアンコールに差し掛かった時に一部のファンが暴走。「突っ込めー!!」の合図と共に親衛隊を中心とした数十人が入り口のガラスを折りたたみ椅子で割るなどして乱入、これにつられて他のファン数百人も「俺達だって中に入る権利があるんだ!」と叫びながら警備員の制止を振り切って一気になだれ込んだ(この一件は翌日のニュースやスポーツ新聞で大きくとり上げられている)。

これ以後、毎年9月20日にファン有志が代々木競技場近くの代々木公園に集まって集会(解散コンサートのビデオ上映会)が行われている。[81]

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再結成企画

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脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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