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吉鶴憲治
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吉鶴 憲治(よしつる けんじ、1971年5月3日 - )は、鹿児島県鹿児島市出身の元プロ野球選手(捕手)、コーチ。右投右打。
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経歴
要約
視点
鹿児島商工高校(現・樟南高校)時代は甲子園に3回出場[1]。高校では中日でも同僚となる大西崇之とチームメイトだった。
その後、社会人のトヨタ自動車に入社。都市対抗野球には2年目に補強、3年目には自チームで出場して高橋建ともバッテリーを組んだ[2]。
1992年度ドラフト会議にて中日ドラゴンズから4位指名を受けて入団。
しかし、当時中村武志、矢野輝弘の壁は厚く3番手止まりで出番はほとんどなく、1996年途中に、内藤尚行・森廣二との交換トレードで与田剛と共に千葉ロッテマリーンズへ移籍。
移籍した当初は3番手止まりだったが、当時の正捕手争いのメインであった定詰雅彦と田村藤夫が同シーズン終了後に揃ってトレードとFAでチームを離れ、控え捕手のベテラン山中潔が引退したため、翌1997年は、当時入団したばかりの大学ナンバーワンと評価された清水将海と共に併用される形で起用された。清水が守備の評価が高い反面、打撃が弱くチームも貧打に苦しみがちで、先発出場こそ清水が70試合に対して吉鶴は40試合だったが、清水が代打に送られるケースが多くまた吉鶴が抑えの河本育之との相性が良かったこともあり(河本はリーグ最多の25セーブを挙げた)、チーム最多の98試合マスクを被った。98年には清水が怪我で開幕に間に合わず、初の開幕スタメンを勝ち取り、この年中日から移籍してきた椎木匠、近年出番が減っていた福澤洋一の再台頭はあったものの引き続き1番手捕手をキープした(先発出場でも自己最多の57試合出場)が、この2年チームは最下位に沈む。連敗を18で止めた7月9日の神戸のオリックス戦では先発して1号本塁打を含む3安打を打った。
1999年は打撃好調で、懸案の盗塁阻止率に改善が見られた。3番手以降の捕手に大きく差をつけるなどチームの4位浮上にも貢献したが、ライバル清水も打撃に改善が見られ2番手捕手となる。
2000年には同じ打撃型橋本将の台頭があり、自身の打撃も不調だったため3番手に降格する。更に2001年には捕手としての出番はなく、入団して以来自己最少の出場数となる。
2002年には外野手転向を余儀なくされ、同じく一軍でほぼ出番がなくその年限りで現役を引退。
引退後は千葉ロッテマリーンズの二軍バッテリーコーチ、一軍バッテリーコーチ、一軍バッテリーコーチ補佐などを歴任し、2013年度より二軍育成コーチに就任。選手としては優勝はおろかAクラスの縁も薄かったが、コーチとしては一軍で日本一を1度(2010年)、二軍で2度(2006年、2012年)の優勝に立ち会っている。
2016年11月5日に福岡ソフトバンクホークスの三軍バッテリーコーチに就任[3]。
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人物
- 2002年4月10日の北海道日本ハムファイターズ戦(千葉マリンスタジアム)でパーフェクト投球を続けていたミラバルから9回裏の先頭打者で代打で安打を放ち、チーム唯一の出塁で完全試合を阻止している(打者28人)[7]。
- 現役晩年には登場曲に2 umlimitedの『TWILIGHT ZONE』を使用していた。これはかつて存在したディスコ『ジュリアナ東京』で使用されていた曲である。
詳細情報
年度別打撃成績
年度別守備成績
記録
- 初記録
- 初出場:1993年4月11日、対阪神タイガース2回戦(阪神甲子園球場)、9回表に鶴田泰の代打で出場
- 初打席:同上、9回表に湯舟敏郎から四球
- 初安打:1993年4月20日、対読売ジャイアンツ4回戦(東京ドーム)、13回表に森田幸一の代打で出場、石毛博史から
- 初打点:1993年5月29日、対読売ジャイアンツ7回戦(東京ドーム)、6回表に槙原寛己から
- 初盗塁:1995年6月8日、対広島東洋カープ10回戦(広島市民球場)、9回表に二盗(投手:高橋建、捕手:瀬戸輝信)
- 初先発出場:1996年8月24日、対日本ハムファイターズ23回戦(山形県野球場)、「9番・捕手」で先発出場
- 初本塁打:1997年5月28日、対近鉄バファローズ10回戦(大阪ドーム)、3回表に高村祐からソロ
背番号
- 37(1993年 - 1995年)
- 45(1996年 - 1996年途中)
- 44(1996年途中 - 2002年)
- 77(2003年 - 2016年)
- 95(2017年 - 2024年)
脚注
関連項目
外部リンク
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