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田村藤夫
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田村 藤夫(たむら ふじお、1959年10月24日 - )は、千葉県習志野市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ、解説者・評論家。
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経歴
要約
視点
関東第一高校では、エースとして2年次の1976年に秋季東京大会で準決勝に進むが、弓田鋭彦(早大 - 日本石油)・谷田部和彦(早大 - 拓銀)・川又米利らを擁する早実に敗れる。3年次の1977年には捕手へ転向し、夏の全国選手権東東京大会でも準々決勝へ進出するが、またも早実に大敗したため甲子園出場には届かなかった。同年のドラフト6位で日本ハムファイターズに入団。
日本ハム時代
プロ入り後、加藤俊夫・大宮龍男の存在で二軍(イースタン・リーグ)暮らしやブルペン生活が続いた。
1980年には球団が業務提携していたニューヨーク・ヤンキース傘下のA級に留学。
1981年には初めて一軍の春季キャンプに参加したものの、オープン戦の途中に二軍落ち[1]。9月27日の対阪急ブレーブス戦(西宮球場)で途中ながら初出場を果たし、福本豊の盗塁を制している[1]。
1982年には、大宮が死球禍で一時離脱したことによって出場機会を増やし、37試合の出場ながら打率.308を記録[1]。その後も徐々に出場機会を増やしていき、控え捕手として一軍に定着。
1986年には大宮から正捕手の座を奪うと、打撃でも巧みな右打ちが光り、最初は7番打者でスタートしたが一時は5番にも座る[1]。7月まで打率3割をキープするも疲れもあってか後半は失速するが[1]、オールスター初出場と自身唯一の全試合出場を果たし、初の規定打席到達で打率.274(リーグ24位)、自己最高の19本塁打を記録。同年は盗塁阻止率.427を記録し、伊東勤の.345を上回って以降、盗塁阻止率では5年連続で伊東を凌駕している[1]。
1987年は自己最多の60打点と自己最高の打率.275(リーグ11位)を記録。
1988年は打撃こそ失速したものの、自己最高の盗塁阻止率.465を記録。同年の日米野球では、59回連続無失点を記録中であったオーレル・ハーシュハイザーから11月5日の第1戦(東京ドーム)で本塁打を放つ。
1989年には横浜大洋ホエールズから若菜嘉晴が移籍してきたが、正捕手の座を守った。同年10月1日の福岡ダイエーホークス戦(平和台球場)で史上41人目のサイクル安打を達成。
1990年4月25日の近鉄バファローズ戦(東京ドーム)では柴田保光のノーヒットノーランをアシスト。
1993年シーズンには自身初タイトルのベストナインとゴールデングラブ賞を獲得したほか、金石昭人との最優秀バッテリー賞も受賞。同年のシーズンオフに「田村がFAするかもしれない」という噂が流れ、読売ジャイアンツ長嶋茂雄監督からもラブコールを貰ったが[2]、年俸9000万・功労金2000万という条件で球団に残留。
1995年は盗塁阻止率.390とリーグ二位の記録をしたものの打撃成績では自己ワーストとなり田口昌徳の台頭や、近鉄から移籍してきた山下和彦の活躍で9年ぶりに100試合を割る。それでも7月5日の西武ライオンズ戦(東京ドーム)では西崎幸広のノーヒットノーランをアシストしたが、同年のシーズンオフに日本ハムから戦力外通告を受け、金銭トレードで千葉ロッテマリーンズへ移籍。
ロッテ時代
1996年は定詰雅彦から正捕手の座を奪って95試合に出場。しかし同年シーズンオフにFA権を行使してわずか1年で退団。ロッテ球団初のFA移籍選手となった。
ダイエー時代
1997年、FA権を行使してダイエーに入団。既に一線で活躍する選手としての能力は衰えていたが、「城島健司に手本を見せてやってくれ」という、ダイエーの一軍バッテリーコーチであった若菜の懇願で移籍。
1997年は城島の指導役として貢献し、城島も「田村さんからは実戦で学ぶことが多かった」と述べている[3]。試合終盤のリリーフ捕手的な役割を中心に22試合に出場した。
引退後
引退後の翌1999年、ダイエーの2軍バッテリーコーチを務めた。
2000年に同年から監督に就任した大島の要請で、古巣・日本ハムに一軍バッテリーコーチとして5年ぶりに復帰[4]。
2006年は現場を離れてスコアラーへ転身。25年ぶりのリーグ優勝と44年ぶりの日本一に貢献し、同年限りで退団した。
2007年からは中日ドラゴンズ一軍捕手コーチに就任し、2度のリーグ優勝と2007年の日本一に貢献。
2011年退団。
2012年には阪神タイガース二軍バッテリーコーチに就任したが、1年で辞任[6]。
2013年からはソフトバンク一軍バッテリーコーチに就任[7]。
2014年のリーグ優勝と日本一に貢献。
2017年からは中日に一軍バッテリーコーチとして7年ぶりに復帰[8]するが、2年連続5位に低迷して正捕手を固定できなかった[9]。
2019年退任。
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選手としての特徴
日本ハム時代に同僚であった大島康徳は田村を「キャッチャーとしての技術は超一流でした」と評価している[4]。武田一浩は「本当に上手い捕手」として田村を挙げている[11]。当時のパ・リーグには球界を代表する捕手だった伊東の存在があったため、ベストナインやゴールデングラブ賞といったタイトル獲得はかなり少なかった。オールスターの選出に関しては捕手枠が2 - 3名のため、毎年おおむね田村、伊東で決まり、中嶋聡(オリックス)ら他チームの捕手の出番は少なかった。
詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- 太字年はゴールデングラブ賞の受賞
表彰
記録
- 初記録
- 初出場:1981年9月27日、対阪急ブレーブス後期13回戦(阪急西宮球場)、7回表に大宮龍男に代わり捕手として出場
- 初先発出場:1982年5月29日、対南海ホークス前期12回戦(大阪スタヂアム)、8番・捕手として先発出場
- 初安打:同上、4回表に藤田学から左翼線二塁打
- 初打点:1982年6月2日、対西武ライオンズ前期10回戦(後楽園球場)、2回裏に東尾修から逆転決勝2点適時打
- 初本塁打 1982年6月20日、対ロッテオリオンズ前期13回戦(川崎球場)、5回表に梅沢義勝からソロ
- 初盗塁:1983年8月28日、対南海ホークス18回戦(平和台球場)、1回表に二盗(投手:畠山準、捕手:岩木哲)
- 節目の記録
- 1000試合出場:1992年4月11日、対千葉ロッテマリーンズ2回戦(東京ドーム)、8番・捕手として先発出場 ※史上299人目
- 100本塁打:1993年7月1日、対千葉ロッテマリーンズ13回戦(千葉マリンスタジアム)、9回表に前田幸長から2ラン ※史上175人目
- 1000本安打:1994年4月30日、対福岡ダイエーホークス2回戦(東京ドーム)、9回裏に吉田豊彦から ※史上176人目
- 1500試合出場:1996年8月9日、対近鉄バファローズ16回戦(千葉マリンスタジアム)、9番・捕手として先発出場 ※史上117人目
- その他の記録
背番号
- 35(1978年 - 1981年)
- 22(1982年 - 1996年)
- 29(1997年 - 1998年)
- 75(1999年)
- 72(2000年 - 2005年、2007年 - 2011年、2017年 - )
- 82(2012年)
- 86(2013年 - 2016年)
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著書
- 「マスク越しに見たパ・リーグ最強の猛者たち」(2024年、ベースボール・マガジン社)ISBN 978-4583116648
脚注
関連項目
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