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福澤洋一
日本の野球選手・コーチ (1967-) ウィキペディアから
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福澤 洋一(ふくざわ よういち、1967年5月26日 - )は、福岡県飯塚市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、解説者。
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来歴・人物
要約
視点
プロ入り前
直方学園高[注 1]では、1984年秋季県北部大会準々決勝に進むが、西田川高に敗退した。
大学は九州産業大学に進学。福岡六大学野球リーグでは2年生までに3回の優勝を経験した。1987年秋季リーグではベストナインを受賞、明治神宮大会では初戦でコールド負け。その後に中退。有藤通世監督に「キャッチャーがいないんだ」と見込まれて[1]、ロッテオリオンズの練習生となり、1988年オフにドラフト外で入団した。
現役時代
1989年から袴田英利に替わる正捕手として期待され、開幕2戦目となった4月11日のオリックス戦(川崎球場)では斉藤巧に代わり捕手として初出場した。開幕5戦目となった同14日の近鉄戦(川崎)では、「8番・捕手」としてプロ発先発出場した。4月末に一軍登録を外れるが5月後半に復帰すると、その後はほとんどの試合でスタメンマスクを被り、新人ながらチームトップの98試合に出場。盗塁阻止率はこの年のリーグトップの.407を記録したが、村田兆治とはバッテリーを組むことはなかった(村田が引退する翌年は開幕からバッテリーを組み10試合マスクを被った)。また、打撃面では苦戦し、これが翌年以降正捕手争いで大きく響いた。
1990年もレギュラーとして開幕を迎えたが、5月に二軍落ち。6月に復帰するがチームは低迷し、オールスター後にはマイク・ディアズがスタメンマスクを被る機会が増えるなど、前年よりも出番が減る結果となった。
1991年も開幕スタメンに起用された。その後は新人の定詰雅彦、青柳進やディアズらと併用される形でシーズンを過ごした。
1992年、チームは千葉マリンスタジアムへ移転した。新任の八木沢荘六監督は捕手を、守備の福澤、打撃の青柳のどちらかに固定することを明言。青柳はオープン戦からレギュラーを掴み、特に4月は月間MVPを獲得する活躍を見せていたため、福澤は控え捕手となった。その後、同29日の日本ハム戦(千葉マリン)まで1試合も出番がなかったが、その後は青柳もやや陰りを見せ始めたため、徐々に出場機会も増え、夏場はスタメン出場もしばしばあった。
1993年も青柳がレギュラーとして起用されたが、中盤から牛島和彦が復帰すると、1989年に多くバッテリーを組んだ福澤が女房役に指名された。
1994年は自身初の開幕二軍スタートとなり、一軍昇格の機会がなかったが、八木沢が8月前半に休養し、中西太が監督代行を務めた際に一軍昇格を果たし、特に成長株の榎康弘の先発試合ではスタメンで起用された。
1995年はボビー・バレンタイン監督体制となり、青柳がヤクルトへ移籍、日本ハムから山中潔が加入。その中で福澤は8月1日のオリックス戦(マリン)まで全く出番がなく、ほぼ1年間二軍暮らしとなった。
1996年は、一軍出場なしに終わった。
1997年はベテラン田村藤夫がダイエー、定詰が阪神に移籍したが、吉鶴憲治と清水将海のレギュラー争いに入ることはできず、一軍昇格は中々果たせなかった。
1998年は清水が怪我で離脱したこともあり、5年ぶりに開幕一軍スタートとなった。チームは6月13日のオリックス戦(千葉マリン)から連敗し始めた。2連敗の後の2試合や、20年ぶりの10連敗を喫した翌試合で先発出場するが、連敗を止めることはできなかった。7月7日のオリックス戦(GS神戸)で9回裏二死、黒木知宏がハービー・プリアムに同点2ラン本塁打を打たれ、連敗阻止に失敗した試合でも[注 2]、黒木とバッテリーを組んでいた。18連敗を喫した翌8日の試合で右第一中手骨を骨折し、以降を棒に振った。
1999年は開幕一軍入り後、すぐに二軍へ落ちたが、夏場から再登録された。
2000年は序盤こそ一軍に帯同したが、橋本将の台頭などで6月ごろに二軍へ降格した。
2001年は光山英和の加入、里崎智也の台頭により開幕からベンチを外れることも多かったが、5月から一軍に昇格した。
2002年は開幕一軍を果たすも、すぐに二軍落ちとなった。
2003年は通年二軍でコーチ補佐のような役割を果たし、同年限りで現役を引退した。
現役引退後
2004年はロッテに残り、1年だけ二軍バッテリーコーチを務めた。
2005年から2006年までは、横浜ベイスターズの一軍バッテリーコーチを担当。4年ぶりのAクラス入りに貢献した。
2007年は、新しく発足したクラブチーム「浦和ディアーズ」初代監督に就任。同年にはインターネット放送局「marines.tv」の『1ch「Game Live!」』に出演。2008年はこの中継が再構築され格上げになったTwellV プロ野球中継に不定期で出演した。
2009年、横浜の一軍バッテリーコーチに復帰し、2011年までに同コーチを務めた[2]。
2012年からは日本ハムの二軍バッテリーコーチを担当[3]。現役時代の若手への指導がコーチ業で生かされ、栗山英樹監督1年目のリーグ優勝に大きく貢献し[4]、自身も初の優勝経験となった。その後、2013年10月16日に、同年限りで退団することが球団より発表された[5]。
2014年からは古巣・ロッテに、二軍バッテリーコーチとして10年ぶりに復帰[6]。2016年まで同コーチを務め、2017年は二軍監督を[7]、2018年は二軍総合コーチを務め[8]、同年限りでコーチを退任した。
2019年からはスカウトを担当。2022年までの4年間で佐藤都志也、髙部瑛斗[9]、佐藤奨真[10]、池田来翔[11]、菊地吏玖[12]、白濱快起[13]を担当した。
2022年限りでスカウトを退任し、2023年は二軍バッテリーコーチとして5年ぶりに現場に復帰[14]。その後、同年限りでコーチを退任し、再びスカウトに復帰した[15]。
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エピソード
- 出場440試合のうち、先発出場は224試合であった。先発マスクを被った試合の勝敗は92勝123敗9分、勝率.428であったが、1990年と1991年はチームが20以上借金をしていた中で福澤自身は借金3ずつと他捕手より良かった。当時のロッテは捕手難のチームであり、先発出場224試合のうち、ゲームセットまで出続けたのは僅か72試合であった。途中交代のうち打席で代打を出されたのが185試合もあり、レギュラーを取れなかった原因の一つとなった。
- 打撃に課題があったためレギュラーに定着するまでには至らなかったが、後年はベテラン捕手として若手の投手・捕手を支え、指南役として貴重な働きをした。
- 現役時代の応援歌の原曲はチェッカーズの『ムーンライト・レヴュー50s´』
詳細情報
年度別打撃成績
年度別守備成績
- 各年度の太字はリーグ最高
記録
- 初記録
背番号
- 66(1988年 - 1990年)
- 39(1991年 - 2003年)
- 73(2004年、2014年 - 2018年)
- 77(2005年 - 2006年)
- 72(2009年 - 2011年)
- 84(2012年 - 2013年)
- 89(2023年)
脚注
関連項目
外部リンク
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