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坂口允彦
日本の将棋棋士 ウィキペディアから
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坂口 允彦(さかぐち のぶひこ、1908年(明治41年)12月10日 - 1990年(平成2年)1月18日)は、将棋棋士。九段。棋士番号10。1953年から1954年、1967年から1968年まで日本将棋連盟会長。花田長太郎九段門下。北海道沙流郡日高町出身[1]。
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経歴
北海道沙流郡富川[2](現・日高町)に生まれた[1]。14歳の時、洋服業を営む兄を頼って兵庫県神戸市に転居[1]。翌年満洲に渡ったが胸を病んで1年で帰国[1]。その後は神戸で兄が経営する洋服屋の仕事を手伝った[1]。
兄が経営する洋服屋を手伝っていた時期に神戸の将棋クラブで開催された将棋大会に出席して優勝した[1]。元来将棋が強かったことから席主は棋士になることを勧め[1]、関根金次郎に紹介状を書いた[1]。坂口はその紹介状を持って上京したが[1]、既に関根の家には渡辺東一ら2人の内弟子が住み込んでいた[1]。関根は自らの弟子である花田長太郎を紹介し[1]、1927年(昭和2年)花田に入門[1]。兄弟子に塚田正夫[1]、弟弟子に荒巻三之、廣津久雄らがいる[1]。
1928年9月の奨励会創設に二段として参加。1931年(昭和6年)四段。
1938年(昭和13年)八段[3]、1976年(昭和51年)九段。
若手時代、塚田正夫、建部和歌夫の三名で「昭和の三銃士」と呼ばれた。「くろがね」「不沈艦」と呼ばれる強靱な棋風[3]。順位戦A級通算8年。
現役の間に連盟会長を2度務めた。
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弟子
棋士となった弟子
- 孫弟子の中村修は1980年にプロデビューしているが、中村の大師匠にあたる坂口は現役中であった。このため、坂口は「現役中に孫弟子がプロデビューする」という珍しい快挙を達成したことになる。
人物
- チェスの強豪としても有名で、チェスのために第2期 - 第4期のA級順位戦を3年間休場するという、異色の経歴を持つ。終戦直後、敗戦で自他ともに自信を失った日本人全体に対して、チェスではアメリカ人と対等に戦えるということを示すため、奮起してチェスを独学で学び、チェスのプロに転向[3]。アレクサンドル・アレヒンの棋譜を徹底的に研究し、占領軍将校らにチェスを教えるまでになった[5]。1947年(昭和22年)日本チェス連盟(日本チェス協会とは無関係)を設立し、日本でのチェスの普及に努めた[5]。またチェスの初代日本チャンピオンでもある。『チェス上達法』(1961年、虹有社)などの入門書も著している。
昇段履歴
→昇段規定については「将棋の段級」を参照
- 1927年 : 入門
- 1931年 : 四段
- 1932年 : 五段
- 1934年 : 六段
- 1936年 : 七段
- 1938年 : 八段
- 1976年11月 : 九段
- 1985年 4月 2日: 引退
主な戦績
一般棋戦優勝
- 産経杯戦:1回(1951年度)
在籍クラス
年度別成績
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栄典
参考文献
脚注・出典
関連項目
外部リンク
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