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大宮季衡
日本の鎌倉時代の公家 ウィキペディアから
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大宮 季衡(おおみや すえひら)は、鎌倉時代後期の公卿。左大臣・西園寺公衡の長男、母は藤原光保女。官位は従一位・右大臣。
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経歴
侍従、左近衛少将、上野介、播磨介等を経て延慶元年(1308年)に従三位に叙せられ、公卿に列する。延慶2年(1309年)に正三位・左近衛中将。延慶3年(1310年)には従二位・参議、まもなく権中納言。正和2年(1312年)には正二位、文保2年(1318年)には権大納言となる。
さらに妹・西園寺寧子の産んだ量仁親王が後醍醐天皇の皇太子となった嘉暦元年(1326年)には大納言となり、元徳2年(1330年)には従一位。量仁親王が即位(光厳天皇)した翌元徳3年(1331年)には天皇の外叔父として内大臣、次いで正慶元年(1332年)には右大臣となる。官位・官職共に異母弟の実衡を越すが、まもなく鎌倉幕府滅亡直前の正慶2年(1333年)3月に出家した。法名は空勝。
系譜
大宮家自体は孫の実尚の代で一時断絶(江戸時代に再興)したが、女系を通して甲斐武田氏や伏見宮を始めとする旧宮家、越前松平家等に血統が伝えられた。
脚注
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