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大沢清
日本のプロ野球選手 ウィキペディアから
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大沢 清(おおさわ きよし、1916年12月1日 - 2005年7月14日)は、神奈川県鎌倉郡川口村大字片瀬(現:藤沢市片瀬海岸)出身[1]のプロ野球選手(内野手)。右投右打。プロ野球選手の大沢紀三男、大沢啓二は弟[1]。タレントの大沢あかねは従孫娘。
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来歴
神奈川県立商工実習学校、國學院大學を経て、1937年に名古屋軍へ入団しプロ入り[1]。1年目から内野のユーティリティプレイヤーとして活躍し、1939年には川上哲治に次ぐ打率.310を記録する。第二次世界大戦終戦後、1946年に後身である中部日本軍へ復帰し、1949年に東急フライヤーズへ移籍[1]。
1950年には新球団として発足した大洋ホエールズへ移籍し、一塁手に定着。当時の日本記録となる1シーズン45二塁打[2]を記録するなどチームの主軸選手として活躍し[1]、同年はリーグ5位の打率.327を残す。1951年は大沢 伸夫(おおさわ のぶお)の登録名でプレーする。
1952年に石本秀一のたっての希望もあり、大沢 薫史の登録名で広島カープへ入団[1]。既に35歳とチーム最年長であったが、四番に入って開幕1ヶ月は打撃成績トップを走る[3]。その後息切れしたが、チームトップの打率.279(リーグ16位)、43打点を記録した。1953年からは大沢 伸夫に登録名を戻してプレー。松竹ロビンスから移籍入団した小鶴誠に四番を譲るが、三番一塁手としてフル出場。現役最終年となった1954年も規定打席を打ち、打率.257で打撃成績25位に入っている。
引退後、ノンプロの東京ガス硬式野球部へ補強選手として都市対抗野球に出場。1960年に母校の國學院大學硬式野球部監督へ就任[1]。1965年から國學院大の文学部講師を経て教授を務めた[1]。
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選手としての特徴
人物
詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- 名古屋(名古屋軍)は、1944年に産業に、1946年に中部日本に、1947年に中日(中日ドラゴンズ)に球団名を変更
年度別投手成績
記録
- 節目の記録
- その他の記録
背番号
- 19(1937年)
- 4(1938年 - 1941年、1946年 - 1949年)
- 5(1950年 - 1951年)
- 3(1952年 - 1954年)
登録名
- 大沢 清(おおさわ きよし、1937年 - 1941年、1946年 - 1950年)
- 大沢 伸夫(おおさわ のぶお、1951年、1953年 - 1954年)
- 大沢 薫史(読み不明、1952年)
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脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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