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宮中席次

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宮中席次(きゅうちゅうせきじ)とは、公的な宮中行事における席次のこと。

歴史

要約
視点

明治時代以前には、公卿たちの手によって整えられた「伝統的な宮中座次」が存在した(詳細は下記「伝統的宮中座次」の節を参照)。この宮中席次に類する法令や席次表のようなものは、明治時代から存在していた。

伝統的な宮中座次の終わり

1868年1月3日(慶応3年12月9日)に摂政関白幕府等を廃止して仮に総裁議定参与三職を置いたときに[1]、伝統的な宮中座次では想定しない諸侯を議定・参与に加え、藩士を参与に加えたことから新たに宮中三職の出仕席を定めた。御評議の場所は小御所とし、総裁及び議定の出仕席と参与の出仕席とは別の間に分けて、総裁・議定詰所は麝香間、同休所は水鳥間、ただし公卿は奥の座、列藩は端の座とし、かつ総裁と議定は一席を隔てた。参与詰所は御色紙部屋二間、同休所は同東ノ間、なお藩士に於いては諸大夫間仮建、ただし公卿は奥の座、列藩は端の座、藩士は向座とした[2]。 ただし、1868年2月5日(慶応4年正月12日)に太政官代を九条家に設けることになり[3]、同年2月17日(同年正月27日)より太政官代を二条城に移転して、参与役所を同城内に設けたので[4]、この頃の三職は宮中とは別の場所で職務を行った。

宮中に於いては、1868年2月9日(慶応4年正月16日)に親王の座次及び親王・大臣の参入席定め、従前の禁中並公家諸法度で「三公之下親王」としてきた伝統的な宮中座次を修正し、親王宣下を済ませた方の座次は三公の上となった。参入席については、職を任せられた親王・大臣は八景絵間に参入させることとし、その他の親王・大臣は麝香間に参入させることとし、これまで大臣ではないが麝香間に参入していた人々は内々小番勤を仕ることとなった[5]

1868年6月11日(慶応4年4月21日)に政体書を定めて第一等官より第九等までの官等制を導入し、親王・公卿・諸侯でなければ第一等官に昇ることができないが、才能ある者を貴ぶため藩士・庶人であっても徴士の制度を設けてなおその第二等官にまで至ることができるとした[6]。 なお、同日に二条城へ玉座を移したことに伴い、太政官代を禁中へ移した[7]。 同年閏4月に定めた節朔礼式では、小御所に出御するので、先ず三等以上の官は小御所の廊下に控えておき、弁事が召し出しを告げると、次の両職(輔相、議定、知官事等[注釈 1]は中段、参与、副知事、知府事等[注釈 2]は下段)天顔を拝して退出し、次に弁事、判事、府判事、知県事、三等海陸軍将等[注釈 3]は下段で龍顔を拝して退出とした[8]。 参与と副知官事は共に第二等官としたが[6]、同年6月28日(同年5月9日)に参与は副知官事の上席とした[9][10]。 1868年12月11日(明治元年10月28日)には勅授官である徴士三等官以上の座順を定めて叙爵拝受の有無に拘らず先官が上席のこととし、ただし従来官位があるものはその官位を以て座順とした[11]

宮中と太政官の場所については、1868年9月3日(慶応4年7月17日)に江戸の名称を東京として[12]、1868年12月2日(明治元年10月19日)に東京城を以て皇居と定め[13]1869年4月5日(明治2年2月24日)に東幸中に太政官を東京に移す[14]

1869年8月15日(明治2年7月8日)に従前の官位を廃止して職員令を定め、政体書の官等制を廃止して新たに官位相当制を導入した[15][16]。このとき位階については変更がありながらも存続したとはいえ、伝統的な宮中座次が拠り所としてきた従前の官位を用いることができなくなったため、新たに座次を定めることになるが宮中座次ではなく政府座次や官庁座次とした。 同年8月20日(同年7月13日)の太政官規則では、政府座次は左右大臣は北上東面著座、大納言参議は北上西面著座とした[17]。 同年9月12日(同年8月7日)の太政官規則では、官庁座次は上之間上段に大臣・納言・参議等着座、弁官は東之間に分課を以て着座のこととし、ただし諸官員は猥に上之間に入ることを許さず届の上で許可を得て入るへきこととした[18]。なお、同年12月24日(同年11月22日)の太政官規則では但し書きが無くなった[19]

宮中に於いては、1869年8月28日(明治2年7月21日)に親王・元大臣の参入席並びに取扱方を定め、親王は八景ノ間へ参入の事として送迎お取り扱いは総てこれまで通りとする一方で、元大臣は麝香間へ参入の事として取り扱いは非官の華族と同様になった[20]

1871年9月13日(明治4年7月29日)の正院事務章程では、太政大臣・納言・参議の三職の等級は官を以て順次とし、同官はを以て次とし、同位は叙爵の先後を以て次とした[21]

職務上と儀式上の区別

1871年12月1日(明治4年10月19日)に皇族華族取扱規則を定め、皇族は職務関係の外は皇族を以て取り扱う事となる。また、この年の官制改正で官位相当制を廃止して官等制を導入したことから[22]華族は従前の相当従五位にあたる六等官相当の取り扱いの事とし、在官の華族は職務関係の外は官・族の内で重きに従い取り扱いできる事とした[23]。この規定により、皇族・華族については職務関係の取り扱いと、職務関係の外の取り扱いを区別する。

1874年(明治7年)6月13日には太政官達官員の席順は宣旨の日を以て前後を定めるとし[24]、同年11月17日に改めて明治7年太政官第152号達で官員席順を定め平常職務上に於いては位階の有無高下に拘らずに同等同官は総て宣旨の日を以て前後を立てることとするが、ただし、朝拝及び礼式の場合は従来の通りであるとした[25]。この規定により、官員については平常職務上の席順と朝拝及び礼式など宮中儀式上の席順を区別する。

なお、1875年(明治8年)9月23日に正院の中で新任拝命の者の様に官員の宣旨が同日の場合の席順について照会があり、宣旨が同日のときは位階の高下に因り定め、同位は叙日の前後、その同日同位に叙せらたものはその前位の前後有無を以て順次を立て、ただし判任以下無位のものが同日同官拝命の場合は旧官の席順によるべきとした[26]。 また、1878年(明治11年)4月30日に太政官の書記官に宛てた宮内省問合せに回答があり、明治7年太政官第152号達の前の席順で位階の高下、叙日の前後を以て席順を立てたものについては従前の通り据え置きとした[27]。 明治7年太政官第152号達の以前に、位階を以て順次を定めたのは旧来の成例に傚うものであって、維新以来別に定めた規則はなかったと考えられた[28]

1878年(明治11年)8月15日に大臣以下の一等官の中の位次を改定し、太政官の書記官より宮内省並びに式部寮に宛て通牒した[29]。 同年12月28日に式部寮より勅奏任官が諸儀式に参列のとき同官は勲等・位階を以て席順を定める事を上申しているが、このときは法制局の審議で爵位の制度が定めらた上で席順を定めるべきとして従前のまま据え置きとなった[30]

1879年(明治12年)12月23日の太政官指令により麝香間祗候華族は勅任官に準ずる取り扱いとなる[31]

1881年(明治14年)11月1日には参事院議長以下儀式上の席次について式部寮から太政官の内閣書記官へ照会があり[32]、同年12月9日に改めて宮内省宛の太政官達で各省院使等の勅任官の席次を定めた[33]1882年(明治15年)4月24日の太政官達でこれを改定した[34]

1881年(明治14年)11月4日の太政官達では、勅奏判任の区別があって等級を設けない諸官員は儀式上に在っては他の有等官と各別席に列するとし、ただし判任官の席次は明治14年5月太政官第46号達[35]の通りとした[36]

1882年(明治15年)1月に宮内省達を督部長へ宛て華族にて同日に数人が初めて叙位されたものの席次を定めており、同じ日に同じ位に叙せられた場合はその父の位階によりその席次を定め、この規定に據ることができないときは本人の年齢の長幼を以て次第を定めることとした[37]

宮中の自律

1884年(明治17年)に伊藤博文が宮内卿に就任して宮中改革に乗り出すと、「宮中・府中の別」という原則を導入して宮中から府中への干渉(宮内官や天皇の政治関与)を制限する一方で、府中から宮中への干渉(天皇の政治利用)もまた制限することで皇室の自律性が向上していく。皇室の外交儀礼に関する事務が外務省から宮内省へ移管しており、また同年10月に式部寮を式部職に改組して皇室の儀式に関する体制を強化した[38]。こうした事情から宮中の席次は、従前は太政官が定めて宮内省へ達してきたところ、これからは宮内省が定めることになる。

1884年(明治17年)に華族令を施行して爵位を定めたときに[39]、宮内省達で華族席順[40][41]及び麝香間祗候無爵者礼遇[42]を定めた。 宮中儀式上の席次はこのときに明治17年宮内省乙第13号達を以て初めて文武奏任官以上の席次を定めた[43][44][注釈 4]。 これらに加えて、1888年(明治21年)には宮内省達により大勲位以下の宮中儀式上の席次を定め[48][49]1889年(明治22年)には前官大臣礼遇内規を定めた[50][51][注釈 5][注釈 6]

1890年(明治23年)11月に大日本帝国憲法を施行して1891年(明治24年)に高等官の官等を廃止したため(ただし翌1892年(明治25年)に再び高等官の官等を設けた)、これに対応するために明治24年宮内省達甲第6号により「宮中儀式上席次」を改定した。このとき宮中儀式上の席次は別表に依りその次第を定めるとして「宮中席次表」の中で官職勲章及び爵位による席次を示した[55][注釈 7]

1915年大正4年)には皇室令により従前の華族席順[40]及び麝香間祗候無爵者礼遇[42]並びに宮中儀式上席次[55]に関する宮内省達を廃止して新たに「宮中席次令」を制定して、高等官、有勲者、有爵者、有位者及び優遇者の宮中に於ける席次を定め、別表の順位によるとした[69][注釈 8]1926年(大正15年)には従前の紋章[72]旗章[73]及び宮中席次[69]に関する法令を廃止して新たに皇室儀制令を定め、その第4章で「宮中席次」を規定した[74]

本来は単なる宮中行事の席次表であったが[注釈 9]内閣総理大臣臨時代理を設ける際に宮中席次最高位の閣僚が務めるなど、政治的意味も持つようになった。宮中席次による順位がポストの格のようにみられる風潮もあり、鈴木貫太郎軍令部長から侍従長に転任した際の受諾理由の一つとして「宮中席次では軍令部長のほうが侍従長よりよほど上だが、席次が下がるから受けないと思われては恥辱である」と述べている。なお、複数の席次に該当する場合は最高位のものによる。たとえば晩年の西園寺公望は、第1の大勲位、第7の首相前官礼遇、第16の公爵などに該当するが、第1の大勲位として扱われた。さきの鈴木の例では、軍令部長や侍従長よりも海軍大将としての席次が上となり、実際に席次が大きく下がるわけではなかった。

両院議長の席次が低いことは戦前から問題視され(現職議長としての席次よりも大臣前官礼遇の席次のほうが高いという事態も生じた。たとえば初代貴族院議長の伊藤博文)、大正時代には内閣から宮内省に改正申し入れがなされたこともあったが実現しなかった[75][76]

ポツダム宣言の受諾後

ポツダム宣言受諾の後、連合軍占領下1945年昭和20年)12月には、貴族院衆議院両院の議長が第6位に繰り上げられるなどの改正が行われた[77]日本国憲法を施行する前日の1947年(昭和22年)5月2日限りで皇室儀制令が廃止され[78]、翌3日に宮内府の内部規程である宮中席次暫定規程が定められた[79]

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席次表

要約
視点

皇室儀制令

宮中席次暫定規程

宮中席次暫定規程別表による。

1947年(昭和22年)5月3日施行時[80][79]
1965年(昭和40年)6月16日時点(1950年(昭和25年)7月1日宮内庁長官通知)[81]
正二位以下有位者
勲二等以下有勲者
備 考
正二位以下勲三等までは十二級職[注釈 10]の次
正四位以下勲八等までは九級職[注釈 10]の次
位勲の順位は正二位従二位勲二等(一、旭日重光章 二、宝冠章 三、瑞宝章)として三位以下之に準ずる。
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伝統的宮中座次

明治時代以前の公家社会においても宮中座次と呼ばれるものがあった。この伝統的宮中座次では先例と実情とが頻繁に衝突し、紛争が絶えなかった。徳川家康禁中並公家諸法度制定の背景の一つは、この宮中座次の紛争に終止符を打つ目的だった。幕末の宮中席次は、ほぼ次のような序列だった。

脚注

参考文献

関連文献

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