宮崎 剛(みやざき たけし、1918年12月17日 - 2015年5月22日)は、台灣出身[1]の元プロ野球選手(内野手)、野球指導者、監督。
来歴・人物
戦前日本の統治下にあった台湾の台北一中時代はラグビー選手で、同志社高等商業学校入学後に野球を始めた。1940年に大阪タイガース(同年秋より阪神軍)へ入団するが、2年目の1942年に久留米で入営。予備士官学校で本堂保次と出会い、幹部候補生に合格し満州へ渡る。終戦後は両親が台湾から長崎に移住したため、長崎に復員。1946年にタイガースに復帰したが、インフレの為、給料1000円では食べていけないため2ヶ月で退団。渡辺大陸の誘いで1947年に国民リーグ・宇高レッドソックスへ参加し、1番打者として秋季には首位打者を獲得。国民リーグ崩壊後は阪急ブレーブス(1948年 - 1949年)、大洋ホエールズ(1950年 - 1955年)に在籍。コーチ兼任となった1955年引退。
引退後は大洋で一軍コーチ(1956年, 1959年 - 1962年, 1973年)、二軍監督(1957年 - 1958年, 1963年 - 1965年, 1967年, 1972年)、ヘッドコーチ(1968年)、スカウト(1969年 - 1970年)、一軍守備コーチ(1966年)、監督(1974年)を歴任。1966年は三原脩監督の代理、1972年は別当薫監督の代理を務めた青田昇監督代行の更に代理でチームを指揮。正監督時代は課題である本塁打が出なかった試合の勝ち方を解消するべく、機動力野球を前面に押し出した。チーム盗塁数はリーグ2位の76盗塁で、中塚政幸が28盗塁で盗塁王に輝き、チーム打率もリーグ1位の.265を記録したが、投手陣がリーグ唯一の防御率4点台と崩壊し、首位から17.5ゲーム離された5位に終わり1年限りで退任となった。秋山登コーチが発案した日本プロ野球初となるツートンカラー式のホームユニフォーム(シャツ - オレンジ、パンツ - 白)を採用した。
詳細情報
年度別打撃成績
- 大洋(大洋ホエールズ)は、1953年に洋松(大洋松竹ロビンス)に、1955年に大洋(大洋ホエールズ)に球団名を変更
通算監督成績
- 204試合 89勝109敗6分 勝率.449
記録
- 通算1000試合出場、1954年8月1日 ※史上26人目
背番号
- 26 (1940年 - 1941年、1947年、1950年 - 1954年)
- 5 (1946年)
- 7 (1948年 - 1949年)
- 40 (1955年 - 1959年)
- 30 (1960年 - 1968年、1971年 - 1972年)
- 53 (1973年 - 1974年)
脚注
関連項目
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