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富樫淳
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富樫 淳(とがし じゅん、1924年8月22日 - 1986年10月26日)は、兵庫県武庫郡鳴尾村(現:西宮市)出身の元プロ野球選手。
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来歴・人物
初代阪神球団代表富樫興一の次男として生まれる。関西学院中学では、エースとして1939年に夏の甲子園に出場。2回戦で長野商に敗退。その後に平安中学に転校。1942年には「幻の甲子園」として知られる全国中等学校野球大会に出場。1回戦で蔭山和夫のいた市岡中を相手にノーヒットノーランを達成。ダブルヘッダーで決勝に進み徳島商と対戦するが、延長11回裏逆転サヨナラ負けを喫し準優勝にとどまる。卒業後は法政大学に進学するが、学徒動員により従軍。
1946年に大阪タイガースに入団。当初は投手登録であったが、全国中等学校野球大会の時に故障していた右肩をさらに痛め、主に外野手として起用される。同年は開幕から右翼手に抜擢され、48試合に先発出場。投手としても3試合に登板するが実績は残せなかった。翌1947年は主に三番打者として起用されるが、シーズン中盤に膝を負傷し欠場。1948年もシーズンのほとんどを欠場、同年9月には先発に復帰するが、病もあって1950年限りで引退した。第一次ダイナマイト打線の一員として数えられることもある。
引退後は、1952年から母校平安高校の野球部監督に就任し、1956年の夏の甲子園では優勝を果たした。1960年からは神戸製鋼所監督に就任し、1977年の都市対抗で45年ぶりの優勝を飾る。
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詳細情報
年度別打撃成績
年度別投手成績
背番号
- 6 (1946年 - 1949年)
- 27 (1950年)
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関連項目
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