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滝内弥瑞生
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滝内 弥瑞生(たきうち やすお、1935年10月30日 - 2018年9月23日[2])は、福岡県出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。
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経歴
戸畑高校ではエース・中島孝司(南海)を擁し、3年次の1953年に夏の甲子園県予選で決勝に進出するが、後にプロで同僚となる東筑高の仰木彬投手に抑えられ惜敗[1]。卒業後の1954年に西鉄ライオンズへ入団[1]。3年目の1956年に一軍に定着し、内野のユーティリティプレイヤーとして39試合に先発出場。また代走・守備要員としても起用され、同年からの3年連続リーグ優勝・日本一に貢献。1年先輩の正遊撃手であった豊田泰光が少し打撃不調になると、滝内はベンチの横に来て「あんたが打てんかったら何の取り柄もなか。いつでも代わるばい。」と刺激を与えた[3]。1960年には仰木の控えながら、主に二塁手として56試合に先発出場。守備要員としての出場が多く通算打率は1割台にとどまるが、同年には打率.249を記録している。1961年にも61試合に先発を果たすが、その後は出場機会が減少し、1963年限りで現役を引退[1]。
引退後は西鉄→太平洋→クラウン→西武で二軍守備コーチ(1964年 - 1965年, 1968年 - 1971年, 1975年 ,1977年 - 1981年)・一軍コーチ兼スコアラー(1966年 - 1967年)・一軍守備コーチ(1972年 - 1974年, 1976年)、近鉄で二軍守備・走塁コーチ(1982年 - 1984年)→一軍守備コーチ(1985年)→一軍内野守備コーチ(1986年 - 1988年)→二軍監督(1989年 - 1992年)→スカウトを務めた。ライオンズコーチ時代は試合前にノックバットを振るい、基満男・真弓明信らを鍛えて一人前の内野手に育てた[4]。「スピードのある野球」をモットーに日夜選手を先頭に立って引っ張り、激しい動きの中に自らを投じる指導方法は若手選手から好感を持たれた[5]。近鉄二軍監督時代には村上隆行、鈴木貴久、石井浩郎ら主力選手を育て上げた[4]。
近鉄退団後は岳父が社長であった株式会社原田組の総務部長[1]を務めたほか、一時は関口清治・安部和春と共に芥屋ゴルフクラブ競技委員として、月に1度は会って昔話をした[6]。
晩年は体調を崩して入退院を繰り返す日々が続いていたが、毎年年末に行われる西鉄ライオンズOB会の忘年会に律儀に顔を出し、端正な振る舞いで座を和ませていた[3]。2018年9月23日、慢性心不全のため、福岡市早良区の病院で死去[2]。82歳没。
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詳細情報
年度別打撃成績
記録
背番号
- 54 (1954年)
- 8 (1955年 - 1963年)
- 55 (1964年 - 1973年)
- 72 (1974年 - 1981年)
- 65 (1982年 - 1985年)
- 75 (1986年 - 1992年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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