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木原義隆
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木原 義隆(きはら よしたか、1942年7月12日 - )は、和歌山県海南市[1]出身の元プロ野球選手(投手)。投法はアンダースロー。
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来歴・人物
和歌山・海南高校では1年次の1958年、エース宗邦夫の控え投手として夏の甲子園に出場。準々決勝に進むが柳井高に敗退し、自らの登板はなかった[2]。2年次の1959年には夏の県予選準々決勝で向陽高と対戦し、ノーヒットノーランを達成するが、決勝では南部高に0-1で惜敗[2]。同年の秋季近畿大会に進み、準決勝で土井正博、伊藤幸男らのいた大鉄高に逆転勝ち。決勝でも土井正三のいた育英高に延長13回1-0で完封勝利、優勝を飾り3年次の1960年に行われる春の選抜への出場を決める。選抜では1回戦で関西高に延長10回サヨナラ勝ちしたが、2回戦では矢島勝彦のいた法政一高に延長11回0-1xでサヨナラ負け。2試合をいずれも完投している[3]。同年夏の県予選は、決勝で新宮高に敗退。
高校卒業後は1961年に法政大学へ進学し、東京六大学野球リーグで3度の優勝を経験。2年次の1962年春季リーグでは山崎武昭、龍隆行の先発陣をリリーフで支え優勝に貢献。同年の第1回日米大学選手権[4]に出場し、ミシガン大学と対戦している(戦績は2勝3敗)。3年次の1963年秋季リーグもチームは優勝するがあまり出番はなかった。4年次の1964年は主戦投手となり活躍。同年10月には、東京五輪デモンストレーションゲームとして開催された日米大学野球選抜試合に先発として起用された。リーグ通算40試合12勝9敗、防御率1.93、133奪三振。
大学卒業後の1965年に近鉄バファローズへ入団[1]し、1年目の同年は20試合に先発、8勝12敗で規定投球回(23位、防御率3.68)に到達。その後はやや低迷し、1967年オフに金銭トレードで大洋ホエールズへ移籍。2年間で通算15試合に登板するが0勝1敗と不本意な結果に終わり、1969年暮れに金銭トレードで広島東洋カープへ移籍[1]。1971年は6月末から先発に喰い込み、2度の完封を記録するなど7勝5敗。1972年も先発として起用されるが、打線の援護に恵まれず3勝にとどまる。5年間で12勝17敗5セーブという成績を残すが、1974年オフに戦力外通告を受け、太平洋クラブライオンズに移籍[1]。1975年には4月下旬から先発陣の一角として起用され、自身初の2桁勝利となる10勝9敗、防御率2.76(リーグ7位)の好成績を挙げた。1976年は5月まで8試合に先発するが5連敗し、その後は先発を外れ0勝6敗に終わり、同年限りで現役を引退[1]。
サイドスローでバランスが良く、リズミカルな投球フォーム。得意な球種はスライダー、カーブ、シュート、シンカーであった。
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詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
記録
背番号
- 21 (1965年 - 1967年)
- 29 (1968年 - 1969年、1974年)
- 11 (1970年 - 1973年)
- 28 (1975年 - 1976年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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