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東条文博
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東条 文博(とうじょう ふみひろ、1944年7月12日- )は、鹿児島県日置郡出身の元プロ野球選手。現役時代のポジションは、内野手。
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来歴・人物
鹿児島実業高校では、エース村脇昭紀を擁し三塁手として1960年秋季九州大会に進むが、1回戦で津久見高の仲野重勝(近鉄)に完封負け。翌1961年の夏の甲子園に出場、鹿児島実は甲子園初出場であった。1回戦で中京商の山中巽、林俊彦両投手の継投の前に完封を喫する[1]。翌1962年夏の甲子園県予選は準々決勝で出水商に敗れる。
1966年に無徒史朗とともに金銭トレードでサンケイアトムズに移籍。同年は二塁手、遊撃手として起用され、54試合に先発出場を果たすが打撃面で伸び悩み、その後は出場機会が漸減する。
1969年には5月に西園寺昭夫が故障で離脱した後を受け、遊撃手、一番打者の定位置を勝ち取る。同年は打撃が開花し、規定打席には届かなかったが打率.320、17盗塁を記録した。8月17日の広島東洋カープ戦で大羽進からサヨナラ本塁打を放っている[2]。
1970年には、チームの17連敗を阻止するサヨナラヒットを放つなど、130試合にフル出場して28盗塁を記録し、盗塁王を獲得。打率は下がったが初めて規定打席(23位、打率.249)にも達した。
1973年までレギュラーを守る。
1975年にはロッテオリオンズに移籍。遊撃手として27試合に先発するが、同年オフに自由契約となる。江藤慎一の誘いで太平洋クラブライオンズの入団テストを受けるが不合格となり、現役を引退した。
引退後は鹿児島へ帰郷。1983年のニッサングリーンカップ全国草野球大会鹿児島県大会では、元日本ハムの中原勇、元ロッテの安田泰一と共に義富建設クラブの一員として出場した。
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詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- サンケイ(サンケイアトムズ)は、1969年にアトムズに、1970年にヤクルト(ヤクルトスワローズ)に球団名を変更
タイトル
- 盗塁王:1回 (1970年)
背番号
- 68 (1963年 - 1965年)
- 34 (1966年 - 1967年)
- 38 (1968年 - 1974年)
- 30 (1975年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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