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楠瀬誠志郎
日本のシンガーソングライター ウィキペディアから
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楠瀬 誠志郎(くすのせ せいしろう、1960年2月9日 - )は、日本の シンガーソングライター、作曲家、編曲家、ボイストレーナー、発声表現研究家[1]。レッスンスタジオ・Breavo-para主宰。東京都小金井市出身。実弟は、元サッカー選手、サッカー指導者の楠瀬直木。
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略歴
高校在学中にCMソングを手掛け、プロの音楽家としてキャリアをスタート[1]。学生時代に村上"ポンタ"秀一に弟子入りし、以後幅広くミュージシャンと親交を深めた。他のアーティストのコンサートツアーやレコーディングにコーラスとして参加する傍ら、自身の作曲や他者への楽曲提供も行うようになったく[1]。
1986年にシンガーソングライターとして、CBS・ソニーからメジャー・デビュー。活動は主にアルバム制作と、ライブ(全国5大都市)がメインだった。
メジャーデビュー当初は、山下達郎のようなハーモニーを重視した楽曲が多かったが、3枚目のアルバム『aisA』(エイシア)以降、独自スタイルの楽曲を徐々に増やしていった。
1991年には通算10枚目のシングル「ほっとけないよ」が70万枚の大ヒットを記録、一躍その名を全国区にした[1]。以降“天使の歌声”とも言われる艷やかなヴォーカルと、主に優しく温もりのある楽曲などを制作・歌唱するく[1]。
1994年のシングル『しあわせまだかい』が、TBSの昼ドラ『ぽっかぽか』の主題歌に起用され、ドラマのシリーズ化もあり楽曲が広く愛された[1]。
武部聡志を介して旧知の崎谷健次郎、KATSUMIとともにコーラスグループ"adam"を結成、その楽曲は髙嶋政宏、崎谷、KATSUMIのアルバムに収録されている。日本の叙情歌、童謡、唱歌だけを歌うライブ「うたごよみ」の活動なども行う。音楽家としての活動の他に楽曲提供や編曲などの活動も行っている。
2000年頃に歌手業を休止し、ライブ活動から遠ざかった[1]。
2006年、東京の表参道に自らの事務所であるレッスンスタジオ「こえの学校 Breavo-para」を設立・主宰し、以後ボイストレーナーとしても活動[1]。
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人物
作曲に対する考え方
父は声楽家の楠瀬一途(かずみち)で、日本におけるボイストレーニングの草分け的存在とも言われている[1]。3人兄弟の長男として生まれ、元々両親が“長男が生まれたら音楽の道を継がせよう”と考えていたため、幼少期から音楽の英才教育を受けて育った[1]。
本人によると「幼い頃から父に『例えばコーヒーを見たら、これをどう音で表現したらいいか。誰かを見たら、この人をどう音に変えたらいいか』ということを教わった」という[1]。以降日常生活を送りながら「人や物が持つイメージを音に変換する」という癖が自然と身につき、この考え方は曲作りの基礎となった[1]。
1980年代に楽曲提供するようになってからは、上記の考え方を踏まえた独特な作曲方法を取っている[1]。具体的には、アーティスト本人に会って声を聴き、相手の日常の話などを聞いてどういう人物かを知り、頭の中でイメージできた“響き”を実際の音に変換していくというもの[1]。
自身が教えるボイストレーニング
父は、他の声楽家や役者など声のプロの人たちにボイストレーニングを指導してきたが、楠瀬が24歳の頃に亡くなった。死の間際の父から、「このボイストレーニングのメソッド(方法)を一般の人にも伝えなさい」と告げられた[1]。
当時本人はシンガーソングライターとしてのキャリアは順調で歌手活動も続けたかったが、「40歳になったら父の後を継いでボイストレーニングの道に進もう」と決意[1]。40歳の誕生日を境に歌手活動を休止し、生前父から教わったボイストレーニングを一般人にも分かりやすく改良し、それを指導するための技術や知識を深めるのに4年間を費やした[1]。
ボイストレーニングスタジオ「こえの学校 Breavo-para」ではオリジナル・メソッド「Breavo-paraメソッド」を用いて、声を扱うプロの人から一般の生徒まで幅広く門戸を開放している[1]。一般の生徒では教師や主婦、企業の管理職など幅広く、トレーニングを教わりたい動機も様々とのこと[注 1]。
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ディスコグラフィ
シングル
デュエット・シングル
配信限定シングル
アルバム
オリジナル・アルバム
ミニ・アルバム
ベスト・アルバム
参加楽曲
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タイアップ一覧
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ヘヴィー・ローテーション/パワープレイ
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ラジオ
楽曲提供作品
- 武田久美子「夢の飛行船」(1984年)
- 井上麻衣「舞姫」(1984年)
- 秋本奈緒美「MY FRIEND」(1984年)
- 大杉久美子「うみへいったよ」(1984年)
- 橋本実加子「蒼いときめき」(1985年)
- 伊藤美奈子「PORTRAIT」(1985年)
- ハイ・ファイ・セット
- 「Elevator Town」(1986年)
- 「夏のフィオーレ」(1987年)
- 「Pink Sand Dune」(1988年)
- 「Promised Land」(1991年)
- 小森まなみ「HAPPY BIRTHDAY」(1987年)
- 須藤薫「初恋は何度でも」(1988年)
- 藤谷美紀「君の名前」(1989年)
- 森山良子「日だまりの時間」(1989年)
- 山口由子「COME ON!」(1989年)
- GWINKO「Bubbly Girl」(1989年)
- 薬師丸ひろ子
- 「手をつないでいて」(1990年)
- 「留守番電話のHAPPY BIRTHDAY」(1991年)
- 小川範子「ひとみしりangel〜天使たちのLesson〜」(1990年※楠瀬自身は通算7枚目のシングル「天使達のLesson」のタイトルでリリース)
- 越智静香「ONE MILEの片想い」(1990年)
- 吉田真里子
- 「いつだってどこでだって」・「今の気持ちを忘れないで」(共に1990年)
- 「雨あがり」・「淋しい翼」(共に1990年)
- アニメ『めぞん一刻』「ずっとほほえんでいてくれた」(1990年)
- KATSUMI「安心という名の欲望」(1990年)
- 森川美穂「失恋旅行」(1991年)「新しい季節」(1992年)
- 田原俊彦「思い出に負けない」(1992年)
- 千堂あきほ「二人」(1992年)
- 沢田研二「太陽のひとりごと」(1992年)
- 髙嶋政宏「哀しみはオネスティ」(1992年)
- 西田ひかる「好きだと言われた」(1992年)
- 和久井映見「おかえりなさい」(1992年)
- 鈴木ユカリ「夢見る年頃」(1992年)
- 相馬裕子
- 「リフレイン」「星が見えない夜」(共に1992年)
- 「私をつかまえて」(1993年)
- 「いっしょに暮らそう」「遠い約束」(共に1994年)
- 浅香唯「Walking with you」(1993年)
- ribbon「BE MY DIAMOND」(1993年)
- Wink「Made In Love」(1993年)
- SMAP「君が何かを企んでいても」(1994年)
- 吉田栄作「丘の上の鐘」(1994年)
- 裕木奈江「めかくし」「鏡の中の私」(1994年)
- ビリー・バンバン「君には君しかないのだから」(1994年)
- 奥菜恵「あなたが好きだから」(1995年)
- 内田有紀「北風と太陽」(1995年)
- 本田美奈子「幸せ届きますように」(1995年)
- 椎名へきる「Kissが足りない」(1995年)
- 大塚純子「Tears & Velvet」(1995年)
- 河相我聞「Forever You」(1996年)
- 佐藤敦啓「a piece of my love」(1996年)
- 永井みゆき「幸せの合図」(1996年)
- 久川綾「この遊歩道(みち)が終わるまでに」(1996年)
- 水谷優子「うちにおいでよ」(1996年)
- CHAKA「Loving Feet-恋する右足、左足」(1996年)
- 大竹しのぶ「きっと嬉しい」(1996年)
- 工藤静香
- 「ずっと」「SEASIDE」「color」(1999年)
- 米良美一「Blue,Red and Green」(1999年)
- 金月真美「真夏の扉」(2000年)
- 丹下桜「ひとつだけ」(2000年)
- 井上あずみ「さがしにゆこうよ!!」(2002年)
- 速水奨
- 「Sherry Dance」「夢の破片」(共に2002年)
- 及川奈央「謝・謝Shake」(2006年)
- 山本潤子「明日への翼」(2007年)
- 佳川奈未
- 「TRUE LOVE」「MESSAGE」(共に2007年)
- 兵庫ケンイチ
- 三ツ木清隆「きっと何処かで〜You are my frends〜feat.兵庫ケンイチ」(2010年※6thアルバム『数千の星』よりカバー)
その他
- ニッポン放送『ショウアップナイター』ジングル(1980年代中盤〜後半)[11]
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脚注
外部リンク
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