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槇文彦
日本の建築家 (1928-2024) ウィキペディアから
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槇 文彦(まき ふみひこ、1928年〈昭和3年〉9月6日 - 2024年6月6日)は、日本の建築家(一級建築士)。位階は従四位、文化功労者。日本芸術院会員。
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経歴
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1928年(昭和3年)、東京都生まれ。母方の祖父は竹中工務店の会長を務めた竹中藤右衛門。1941年(昭和16年)慶應義塾幼稚舎卒業。慶應義塾普通部を経て慶應義塾大学工学部予科を中退し、建築学科のある東京大学工学部建築学科に入学、1952年(昭和27年)卒業。
丹下健三の研究室で外務省庁舎のコンペを担当した後、アメリカ合衆国に留学。クランブルック美術学院およびハーバード大学デザイン大学院修士課程修了。ハーバード大学院時代はホセ・ルイ・セルトのスタジオで学ぶ。1954年(昭和29年)に、スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル、翌1955年(昭和30年)には、セルト・ジャクソン建築設計事務所に勤務。その後はセントルイス・ワシントン大学とハーバード大学で都市デザインを講じた。
1965年(昭和40年)に槇総合計画事務所を設立。1979年(昭和54年)から1989年(平成元年)に東京大学教授を務めた。渋谷区のヒルサイドテラスは旧山手通り沿いで数次にかけて実施したプロジェクトであるが、10m軒線を守り、用途地域が変わった第六期では、10m以上の部分をセットバックさせている。

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家族・親族
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- 祖父・槇武(長岡藩士・槇小太郎の長男。岩城炭鉱、新竹拓殖軌道元社長)
- 父・槇武彦(銀行員ほか。1902年(明治35年)生まれ。)
- 母・竹中貴美(竹中工務店元会長竹中藤右衛門14代の二女)
- 伯父・槇智雄(政治学者)
- 伯父・槇有恒(登山家)
- 叔父・槇弘(医師)
- 叔父・槇文郎(医師)
- 叔父・竹中錬一(竹中工務店元社長)
- 妻・松本操(松本重治の長女。公爵松方正義の曾孫)
- 長女・坪井みどり(1961年(昭和36年)生、上智大学外国語学部フランス語学科卒業、上智大学大学院外国語学研究科比較文化専攻修士課程修了[3])
- 二女・槇直美(1966年(昭和41年)生、株式会社小林・槇デザインワークショップ代表取締役、日本女子大学家政学部住居学科卒業、カリフォルニア大学バークレー校環境デザイン学研究科修士課程修了[4])
- 大叔父(父方の祖父の弟)・槇哲(1866年(慶応2年) - 1939年(昭和14年))台湾塩水港製糖、台湾花蓮港木材、新日本砂糖工業、東北砂鉄各社長を務め、植民地経営に尽力した[5]
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受賞・栄典
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- 1962年 - 日本建築学会賞作品賞(名古屋大学豊田講堂)
- 1969年 - 毎日芸術賞(立正大学熊谷キャンパス)
- 1974年 - 芸術選奨文部大臣賞(ヒルサイドテラス)
- 1980年 - 日本芸術大賞(ヒルサイドテラス)
- 1984年 - 日本建築学会賞作品賞(2度目、藤沢市秋葉台文化体育館)
- 1987年 - アメリカ建築家協会R.S.レイノルズ賞
- 1988年
- ウルフ賞芸術部門
- シカゴ建築賞
- 1989年 - 紫綬褒章
- 1990年 - トーマス・ジェファーソン建築賞
- 1993年
- 1998年
- 1999年
- 高松宮殿下記念世界文化賞
- アーノルド・ブルナー記念建築賞
- 2001年 - 日本建築学会賞大賞
- 2007年 - 旭日中綬章
- 2011年 -
アメリカ合衆国AIAゴールドメダル
- 2013年
- 2015年 - 日本芸術院会員
- 2020年 - 横浜文化賞
作品
建築作品
- 主な作品・外観画像
- 名古屋大学豊田講堂
- 千葉大学医学部記念講堂
- 立正大学熊谷校舎
- ヒルサイドテラス第1期
- ヒルサイドテラス第3期
- スパイラル
- 慶應義塾日吉図書館
- 京都国立近代美術館
- ヒルサイドテラス第5期
- 津田ホール
- テピア
- 幕張メッセ
- 東京体育館
- 慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス
- 中津市立小幡記念図書館
- 霧島国際音楽ホール[注釈 3]
- 風の丘葬斎場
- ヒルサイドウエスト
- ロレックス東陽町ビル
- テレビ朝日本社ビル
- 朱鷺メッセ
- 横浜アイランドタワー
- 東京大学法科大学院棟
- 国立国語研究所
- 島根県立古代出雲歴史博物館
- ワシントン大学サム・フォックス視覚芸術学部
- 台北車站コンコースの「竹林瀑布」
進行中のプロジェクト
- 国道客運台北総駅跡地の台北駅の桃園機場捷運駅舎(台北双子星タワー)
- 国際連合増築
- 150グリニッジ・ストリート -新たなワールドトレードセンターに建設中
- インドのアーンドラ・プラデーシュ新州都行政地区[11]
- BLUE FRONT SHIBAURA
構想・都市計画
- 新宿副都心ターミナル再開発(大高正人・ミド設計研究所と) 1960年
- サンフランシスコ再開発競技設計案 1961年
- 堂島再開発計画 1961年
- ローゼンバーグ部庭園計画・ボストン 1966年
- 後楽園総合開発計画 1967年-1968年
- 立正大学熊谷キャンパス総合計画 1965年-1967年
- 環境整備計画(大阪府高石市) 1967年
- 羽衣駅周辺都市改造事業計画(大阪府高石市) 1968年
- 百草団地センター 1968年-1969年
- ウィーン国際会議場・国連事務機構都市国際設計競技応募案・群造形 1969年
- 国連ペルー低所得者層集合住宅国際指名競技設計 1969年
- 泉北大蓮公園計画(大阪府堺市) 1969年
- 横浜市海の公園基本構想 1969年-1970年
- 小田原駅前再開発計画の協力 1970年
- ボストン市交通網計画
- 筑波大学キャンパス計画
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著作・作品集
その他
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新国立競技場関連
槇は、国立競技場のザハ案の建設計画に早くから 反対してきた[注釈 5]。
槇グループとしては、大野秀敏、中村勉、元倉眞琴、山本圭介、古市徹雄らも反対活動に加わった[16]。なお、槇も2012年(平成24年)の国際デザインコンペの応募資格を満たしていたが、応募しなかった。逆にほぼ著名建築家しか応募できないという条件への疑問、そして第一には敷地が広くないところでその10倍の施設をつくるという設計条件をミスマッチだと直感的に感じたためと述べている[17]。「コンペへの不参加声明を出して、メッセージを出してもよかったのでは」という意見[注釈 6]もあった[18]。
2015年(平成25年)7月のザハ・ハディド案の白紙化決定後も、縮小案を提案するなど活動している。8万人でなく、5万 - 6万人規模を推奨する理由として、立地上、災害などで避難誘導するのは難しいと述べている[19]。ただし同月、やり直しとなる国際コンペへ参加することは「'これまで『こうであってはいけない』ということを言い続けてきた。新国立が『こうであるべきだ』とは言うつもりはない」と強く否定して、その審査委員の依頼があっても受けないが口は出すという無責任な姿勢を示した[20]。マスコミが費用面で批判していたが世論受けは良くなく、建築家のヒエラルキートップの槇が反対表明してから他の日本人建築家らが反対しだしたことで世論も白紙撤回支持になったことから、反対表明に加わった建築家曰く「槇さんが反対表明していなかったら、粛々とザハ案で建設された」と語られている[21]。その後、ラグビーワールドカップ2015で奮闘したラグビー日本代表チームを受けてマスコミと世論は手のひら返しで撤回のせいでラグビーワールドカップ2019に確実に間に合わなくなったことを後悔したり、費用対効果を無視してザハ案の必要性に無知だったと反省の声が溢れた。間に合わせろとの報道をし出した日本のマスコミの無責任さを追及する声もあがるなど白紙撤回に反対していたスポーツ関係者から非難の声が上がっているなど反対活動の正当性が疑われている[22][23]。
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脚注
関連項目
外部リンク
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