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田中律子

日本の女優、タレント、歌手 (1971-) ウィキペディアから

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田中 律子(たなか りつこ、1971年7月17日 - )は、日本女優タレント歌手である。本名同じ。元ボックスコーポレーション所属(2019年まで)[1]。 有限会社アール所属。NPO法人アクアプラネット理事長。日本サップヨガ協会理事長[2]沖縄デトックス協会会長。2022年時点では沖縄在住[3]。愛称はりっちゃん

概要 たなか りつこ 田中 律子, 本名 ...

東京都世田谷区出身[4]世田谷区立笹原小学校世田谷区立桜丘中学校[5]卒業。日出女子学園高等学校(現・目黒日本大学高等学校[5])から堀越高等学校芸能活動コース(現・トレイトコース)[5]に転入し、同校卒業。

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経歴

1984年、12歳の時に、東京都町田市小田急百貨店ボックスコーポレーションのマネジャーにスカウトされ[4]、「田中理津子」名義で雑誌『週刊セブンティーン』(1984年10月23日号、集英社)にてモデルデビュー。2度目に同誌(1985年3月26日号)に登場した際から、本名である「田中律子」名義となった。

1985年4月、テレビ朝日系列の音楽番組『鶴ちゃんのいちごチャンネル』のアシスタントとしてテレビデビュー。同年7月には連続ドラマ『ママ、大変だァ!』(テレビ朝日)にレギュラー出演(ドラマ初出演[5])し、女優活動も開始。 その後、雑誌『投稿写真』でのグラビアやNHKテキストシオリ1987年のイメージガールなども務めた。

その後、パウチッコのCMに出演し、CMを見たレコード会社関係者からスカウトされ、16歳高校2年生の時1988年昭和63年)5月21日フォーライフ・レコードより筒美京平プロデュースにより「FRIENDSHIP」でアイドル歌手としてもデビューした。歌手としてはシングル11枚、アルバム5枚を発売。同期歌手デビューはWink西田ひかる高岡早紀などがいる。当時、ニッポン放送で放送していたラジオ『関根勤のTOKYOベストヒット』では、同期デビューのアシスタント・仲村知夏との相性がよかった。

1989年(平成元年)、テレビの連続ドラマ『愛しあってるかい!』(フジテレビ)への出演をきっかけにテレビドラマの仕事が増え始めた[5]1991年のドラマ『101回目のプロポーズ』(フジテレビ系)でヒロイン(浅野温子)の妹役を演じ、本作が大ヒットしたことでさらに知名度を上げた[5]。以降の活動は女優業が中心となったが、その傍らバラエティー番組の司会や音楽活動も1990年代前半までおこなった。

1997年平成9年)には妊娠と結婚を発表、同年年末まではテレビ番組『'98新春ドラマスペシャル 味いちもんめ』(テレビ朝日)の撮影や、レギュラー出演していたバラエティー番組『王様のブランチ』(TBS)を続けた。翌1998年平成10年)3月末をもって芸能活動を一旦休止(産休)し、女児を出産した後、同年中にテレビ出演を再開した。

2007年平成19年)、『FILM FACTORY』(テレビ東京)で監督業に進出。また、テレビの連続ドラマ『こどもの事情』(TBS)では、初めて連続ドラマに主演している。

2015年(平成27年)ウルトラ・ヴァイヴレーベルより歌手時代の全シングル音源を収録したベスト盤CD『FRIENDSHIP コンプリート・シングルス』を発売した。

2019年(平成31年)4月1日、所属事務所ボックスコーポレーションを退社し独立したことを報告[1]

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エピソード

生い立ち

世田谷区内の商店街にある家で3きょうだいの長女(2つ下の弟と6つ下の妹がいる)として生まれ、子供の頃は両親と父方の曽祖母と祖母との7人家族だった[5]。実家は祖母の代から続く美容院で、その後父が2代目を継ぎ、2023年現在は弟が3代目として営業を続けている[5] 。子供の頃は学校では大人しく引っ込み思案な性格だったが責任感は強く、自宅では美容院の手伝い[注釈 1]が大好きで自ら進んで行っていた[5]。このため当時の将来の夢は、美容師になることだった[5]

先述の12歳でモデルにスカウトされた後、両親は「将来モデルになるにしてもまだ12歳だし、早いんじゃないの?」と否定的だった[5]。しかし、この話を聞いた叔母が「いい経験になるからやった方がいい」と後押ししてくれたことでモデルデビューが決まった[5]。モデル活動を始めてから持ち前の責任感を持って仕事をした結果、その後音楽番組のアシスタントやCMなど色々な仕事を依頼されるようになった[5]

中学卒業後は、芸能活動が許されている目黒にある日出女子学園高等学校(現・目黒日本大学高等学校)に進学[5]。しかしある日、髪を結ばずに街を歩いていたところを担任教師に見つかった。同校は校則が厳しく、髪を切るか学校をやめるかどちらかを選ぶように言われた田中は、髪を切らずに翌月、堀越高校(東京・中野)に転校した。

歌手活動

10代の頃、事務所には「歌は苦手なので歌手業だけは勘弁してほしい」という旨を伝えていたが、押し切られる形で歌手デビューが決まった[5]。デビュー曲「FRIENDSHIP」のレコーディングは、筒美京平が歌の指導を直接し、2日から3日かけて行われた。本人いわく「(同曲は)キーが高く、テンポが速すぎてリズムをとるのが大変だった」と語っている[6]

デビューからしばらくは3ヶ月に一度のペースで新曲を出し、歌番組への出演や全国を周るキャンペーンも行った[5]が、ヒット曲は出なかった。また、歌手活動では“ポスト杏里”として売り出された。杏里とは同じレコード会社かつ音楽制作スタッフも一緒で、本人同志も雰囲気が似てると語りあっていた[6]

第4弾シングル「また夏が来る・・・」は欧陽菲菲の「ラブ・イズ・オーバー」を書いた伊藤薫の手による楽曲である。また、ラストアルバム『ハート・ボイス』は本人のセルフプロデュース。その他藤原ヒロシなどが楽曲プロデュースをしている。

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人物

私生活

21歳の頃に実家を出て、目黒のマンションで一人暮らしを始めた[5]

1997年平成9年)、妊娠4ヶ月であることを発表、相手であるカメラマン杉本学と結婚し、翌年に女児を出産した。

2012年2月に離婚。15年の結婚生活にピリオドを打った[7]

遡って10代の頃に仕事で初めて沖縄に行ったことで「いつか沖縄に住みたい」と思うようになり、その後45歳で沖縄に移住して長年の夢を叶えた[5][8]

その他

CMやテレビのバラエティー番組に出演するとともに、女優としても活動している。

大好物は世田谷区のパン屋「キャッスル」のシナモンロールで、メディア出演の際にもしばしば紹介している。

80歳で赤いビキニを着てサーフィンをしたいという夢のために走ることを習慣としているが、実は走ることが大嫌い[9]

ダイビングインストラクター、ヨガインストラクターの資格を持つ。また、ダイビングをきっかけに沖縄の環境問題に取り組むようになり、2006年サンゴを養殖し沖縄の海に移植する活動を行うNPO法人「アクアプラネット」を立ち上げ(理事長 2009年~)、沖縄でのサンゴ再生プロジェクトに励む。他にも沖縄関係では、内閣府沖縄振興審議会委員(2009年~)、久米島観光大使(2010年~)、美ら海沖縄大使(2011年~)、石垣島さんご大使(2013年~)、座間味村観光大使などの経歴を持つ[5]

以前は視力が悪く、仕事ではコンタクトレンズ、普段はメガネを着用していたが、2007年平成19年)12月に角膜のレーザー手術 「レーシック」を受けている[10]

出演

テレビドラマ

映画

バラエティ・情報番組ほか

ラジオ

Webドラマ

  • 神児遊助のげんきのでる恋 (NTTドコモ携帯電話放送、BeeTV)(2009年8月~)
  • サヨナラの恋(NTTドコモ携帯電話TV「BeeTV」2010年10月1日 - / 毎週木曜日更新 / 全12話)- 松田耀子 役

CM

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ディスコグラフィ

要約
視点

シングル

さらに見る 発売日, 面 ...

アルバム

さらに見る 発売日, アルバム ...

ベストアルバム

さらに見る 発売日, アルバム ...

タイアップ

さらに見る 曲名, タイアップ名 ...
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書籍

写真集

フォトエッセイ

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脚注

関連項目

外部リンク

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