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田野倉利男

日本のプロ野球選手 (1954-) ウィキペディアから

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田野倉 利男(たのくら としお、1954年4月3日 - )は中日ドラゴンズロッテオリオンズに所属した元プロ野球選手内野手)。東京都出身。引退後はロッテの2軍コーチを務めた。

概要 基本情報, 国籍 ...
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来歴・人物

小学校時代に調布リトルリーグに入る[1]早稲田実高では遊撃手、4番打者として活躍。1972年春季都大会では決勝に進出し、待井昇が先発し、吉沢俊幸が4番の日大三高を降す。続く関東大会でも決勝で成東高を破り優勝を飾った。成東高には後にプロで同期となる鈴木孝政がいたが、この試合には登板しなかった。同年夏は都大会で敗れ、甲子園には出場できなかった。

ドラフト4位で中日に入団。なかなか一軍に定着できなかったが、1976年には広瀬宰の移籍もあって、遊撃手の定位置を正岡真二梅田邦三と争う。しかし打撃面で実績を残せず、その後は一時低迷。

1980年には衰えの見える二塁手高木守道と併用された。

1981年は高木の引退でレギュラーを獲得。同年は規定打席に届かないものの打率.278、14本塁打の好記録を残す。しかし翌年に上川誠二が入団し、激しい定位置争いを繰り広げる。

1983年にはポジションを譲る。その後は内野のユーティリティプレイヤーとして起用された。

変わった「記録」としては、中日が1978年と1979年に2年続けて1イニング三者連続三球三振を奪われた(1978年は池谷公二郎、1979年は平松政次が相手)際、その両方で三振を喫している[2]。2024年終了時点で、日本プロ野球において一人で二度この記録に関係した打者は田野倉だけである。

燃えよドラゴンズ!』では、1979年版(歌:山本正之)と1982年版(歌:板東英二)に名前が登場する。

1985年劔持貴寛との交換トレードでロッテへ移籍。ここでも内野の準レギュラーとして活躍。

1987年には一塁手、二塁手として39試合に先発出場を果たす。

1988年限りで現役引退。

引退後は1990年までロッテの二軍コーチを務めた。野球解説はJ SPORTSで一時期行なっていたが2007年テレビ東京で復帰するまで離れていた。解説者としては割りとボソボソとした語り口ではあるものの、的を射た解説をする。

家業である徽章制作会社「有限会社山十徽章」の代表取締役を務める傍ら、YBC野球塾の塾長として野球教室・野球塾も運営し、ジャニーズ所属タレントの野球大会(2000年ごろ)(フジテレビ)の監督を務めた事がある。2014年9月15日放送の『乃木坂って、どこ?』では生駒里奈にキャッチボールを指導した[3]

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人物

改名がとても多く「正樹」「利長」「利行」「利男」(2番目以降は、読みがいずれも「としお」)と様々な名前を名乗ったことで有名である。

エピソード

ニックネームは「金魚」。その名前の由来は出目金魚のように目が大きかったことから。決勝ホームランを打った田野倉に、その試合の勝利投手であった星野仙一が「今日は金魚がよく打ってくれた。大手柄だな」と感謝の言葉を述べていた。宇野勝が七番、田野倉が八番を打っていた頃は、地元のマスコミが当時人気のあった「たのきんトリオ」を捩って、この二人を「うのきんコンビ」と呼ぶことがあった。また高代延博(同学年だが同僚の経験はない)と仲が良く、高代から「ブンちゃん」と呼ばれている。

詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...

記録

背番号

  • 52 (1973年 - 1980年)
  • 8 (1981年 - 1984年)
  • 10 (1985年 - 1986年)
  • 4 (1987年 - 1988年)
  • 77 (1989年 - 1990年)

登録名

  • 田野倉 利男 (1973年 ‐ 1978年)
  • 田野倉 正樹 (1979年 ‐ 1983年)
  • 田野倉 利長 (1984年 ‐ 1986年)
  • 田野倉 利行 (1987年 ‐ 1990年)
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出演

脚注

関連項目

外部リンク

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