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筒井敬三
日本のプロ野球選手 (1925-1959) ウィキペディアから
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筒井 敬三(つつい けいぞう、1923年1月1日[1] - 1959年12月6日)は、和歌山県海南市日方町出身[2]のプロ野球選手(捕手)・コーチ。
1949年4月14日に後楽園球場で走塁が原因で発生した「三原ポカリ事件」で、読売ジャイアンツ監督・三原脩から頭を殴打された選手である[3]。
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来歴
プロ入り前
小学一年生の時に野球を始めるが、進学先の高等小学校では200m走の県記録を更新するなど陸上選手として活躍していた[2]。
高等小学校卒業後は海南中学に進学するが、当時の野球部部長と筒井の父とは幼馴染だったこともあり、強引に野球部に入部させる。2年次に三塁手から捕手にコンバートされると、扇の要としてチームを5度の選抜出場に導く[4]。3学年上には安井亀和、2学年上に朝井昇、同級生には内山孝(内山清の実兄)、金田和一(平野謙二の実兄)がいた。
卒業後は明治大学への進学を予定していたが、先輩からの誘いを断りきれず横浜専門学校に進学[2][5]。1学年下に松井淳がいる。1943年に学徒出陣により召集され、幹部候補生として内地防衛に従事し、札幌で終戦を迎える[2]。
プロ入り後
その後は郷里で過ごしていたが、海南中の先輩である安井亀和の誘いで、1946年にグレートリングへ入団[2]。1年目から91試合に出場して正捕手の座を確保する。
1949年4月14日の対読売ジャイアンツ戦(後楽園球場)において、巨人監督の三原脩から二塁への走塁時に巨人の遊撃手:白石勝巳の送球を妨害したとして守備妨害を指摘され、認められなかった三原から頭を殴打された(三原ポカリ事件)。この年は打率.274、66打点を挙げ、自己最高の成績となった。なお、この年は開幕前に同僚の別所毅彦を巨人へ引き抜かれた別所引き抜き事件が起こり、当日を含めた3日間(14日が3連戦の最終)は巨人との3連戦として非常に殺伐とした中での試合開催となっていた。
その後も南海のレギュラーとして活躍し[6]、1953年と1955年にオールスターゲームに出場した。
1956年にコーチ兼任で高橋ユニオンズに招かれるが、翌1957年に大映スターズが高橋を吸収合併したことよって新生球団「大映ユニオンズ」へ移籍する[7]。さらに、1958年には大映と毎日オリオンズとの対等合併によって東映フライヤーズへ移籍するも、僅か8試合の出場に終わったのを最後に現役を引退した。
1959年には東映の二軍バッテリーコーチに就任するが、同年12月6日に東京都世田谷区新町にあった球団寮でガス漏れにより中毒死した。36歳没。当時、家族を残しての単身赴任中であり、帰阪前日ということで酒を飲み、酔っ払っていたためガス漏れに気が付かなかったことが原因だという[8]。
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選手としての特徴
高等小学校時代は陸上部だったこともあり、当時の捕手としては珍しく俊足・機敏の名手だった。また、打席に立った打者に対して小声で呟いて集中力を削ぐのが上手く、のちに南海へ入団した野村克也が得意とした「ささやき戦術」は、筒井の技を受け継いだのではないかとも評された[9]。
三原ポカリ事件の被疑者でもある三原脩が同じパ・リーグの西鉄の監督に就任した際は、チームが力をつけてきていたこともあり、より一層西鉄対策に力を入れていた[7]。
詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- グレートリングは、1947年に南海(南海ホークス)に球団名を変更
記録
- 節目の記録
- 1000試合出場:1957年6月5日 ※史上39人目
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:2回 (1953年、1955年) ※1951年、1952年も選出されるが出場なし。
背番号
- 2(1946年 - 1951年、1956年)
- 19(1952年 - 1955年)
- 20(1957年 - 1959年)
脚注
参考文献
関連項目
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