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蒔田広定
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蒔田 広定(まいた ひろさだ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。備中浅尾藩初代藩主。通称は権佐(ごんのすけ)。諱は正時(まさとき)ともする。
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略歴
尾張国中島郡下津の住人蒔田広光の次男として織津で生まれた[1]。豊臣秀吉に仕えてその小姓頭の1人となった。
天正18年(1590年)7月、北条氏政・氏照兄弟が小田原城を出て自害した時、広定は秀吉の小姓の身であったが、石川貞清・榊原康政らと共に検使役を務めた[3]。同19年(1591年)8月9日、鼻紙料の名目で河内国大県郡大平寺村で104石の知行を与えられた[3][4]。
文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵では、秀吉の旗本の後備衆の1つとして200人を出して、肥前名護屋城に駐屯し、東二の丸を守備した[3]。
文禄3年(1594年)、伏見城普請に参加[3]。翌年に父の広光が死去したため家督を継いで、河内・伊勢・備中にあった所領の1万16石を領した[3]。本拠は雲出(現三重県津市雲出)。
慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると、遺物道永の刀を受領[4]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍に与して伊勢口や大坂本町筋橋の警固をした後、占領された伊勢安濃津城に駐屯した[3]。関ヶ原本戦で西軍が敗北すると、高野山に逃れて蟄居し、所領は没収されて改易となった。しかし岳父の大島光義や、浅野長政・幸長親子の尽力もあって、罪を許されて所領安堵されることになり[3]、備中賀陽郡・窪屋郡・浅口郡、河内大県郡、山城久世郡、摂津豊島郡・八部郡の七郡の内に1万石を与えられて[1]、備中浅尾1万石に転封されて、浅尾藩を立藩した。
慶長7年(1602年)剣術の師・柳生宗厳から印可状を与えられた[8]。
慶長19年(1614年)、20年(1615年)の大坂の陣に従軍[9]。閏6月に徳川秀忠の凱旋に供奉して江戸に向かう[9]。
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脚注
参考文献
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