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西塩子の回り舞台
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西塩子の回り舞台(にししおごのまわりぶたい)は、茨城県常陸大宮市の西塩子地区で受け継がれている廻り舞台付の組立式の農村歌舞伎の舞台各部・道具一式である。伝えられているのは舞台の名称にもなっている廻り舞台装置の他、”フスマ”と呼ぶ舞台背景図、幕、本床(チョボ)などである。柱や屋根等の構造材は現存していないが、これは西塩子の回り舞台は公演のたびに木材等を切り出し柱等にして、保有している舞台各部等と組み合わせ舞台を組み立て、公演が終わると柱などの構造材は売却してしまう方式をとってきたためである[1]。
伝えられている道具の中には”文政三辰菊月"(文政3年=1820年)との染め抜きがある引幕の他、文政期には存在していたと思われる本床や幕類が存在する。このことから少なくとも江戸時代の文政年間には仮設程度の舞台が作られ使用されていたものと考えられ、日本国内で現存する組み立て式の農村歌舞伎舞台としては最古級のものと見なされている[2]。
国内で現存する数少ない組み立て式の農村歌舞伎舞台のひとつであり、歴史を経た道具群が伝えられている貴重性から、1994年(平成6年)には大宮町(現、常陸大宮市)の有形民俗文化財に、1999年(平成11年)には茨城県の有形民俗文化財に指定された[2][3]。
かつてこの舞台は、地域の祭りに合わせて組み立てられ、芝居が上演されることで、地区の人々の楽しみの場となってきた。しかし、1946年(昭和21年)を最後にその上演は途絶え舞台の部材は芝居上演に使われず、地区内の倉庫に保管されたままとなった。
最後の組立から約半世紀後の1991年(平成3年)、大宮町歴史民俗資料館(現・常陸大宮市歴史民俗資料館)による調査が行われる。この調査は西塩子の回り舞台が長い歴史を経た、全国的にも貴重な文化財であることを世に知らしめる契機となった。このことで舞台復活の気運が高まり1997年(平成9年)に舞台の組み立てと芝居上演が成された。以後、“定期公演”と称し、ほぼ3年おきに舞台を組み上げ、素人演芸の公演が行われ、多くの観客が訪れている。公演の実施は西塩子地区の住民で結成された「西塩子の回り舞台保存会」を中軸として行われており、住民による伝統の継承、地域振興の観点から彼らの活動は高く評価されサントリー地域文化賞他各賞で顕彰されている[3][4]。
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ギャラリー
- 西塩子の回り舞台(2019年公演)
西塩子について


西塩子は常陸大宮市の大宮地域の一地区である。江戸時代では水戸藩領の西塩子村であり、1889年(明治22年)に他村と合併して塩田村となりその大字となった。塩田村は大宮町となり、大宮町は山方町、美和村、緒川村、御前山村と合併し現在の常陸大宮市となった[5]。
西塩子は土地のほとんどが八溝山地系の山間地で、東の久慈川、西の那珂川に挟まれている。久慈川の支流の玉川は西塩子を水源地とする河川である。栃木県の旧馬頭町に通じる国道293号線が地区の東を走っている。那珂川を水運に利用していたため、上流の芳賀郡茂木町などが属する栃木県東部との文化的交流が深かった。耕作地は狭いが、土質が良いため、良質のコメを産した。またタバコの栽培も盛んであった[6]。
西塩子地区年齢層別人口(令和2年国勢調査)
15歳未満:7人 (4.8%)
15~64歳:60人 (41.4%)
65歳以上:76人 (52.4%)
不詳:2人 (1.4%)
1891年(明治24年)で戸数63、人口396人[5]。2020年(令和2年)国勢調査では人口145人で世帯数は70[7]。65歳以上は76人で高齢化率52.4パーセントである[8]。これは日本全体の高齢化率28.6パーセント(令和2年国勢調査結果)と比べ著しく高い数値である[9]。
→「西塩子」を参照
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伝えられている舞台各部・道具類
要約
視点
舞台各部
舞台各部としては平舞台部、花道部、廻り舞台部が伝承されている。
平舞台部は奥行き9尺6寸(約290センチメートル)、間口は4間(約730センチメートル)から1間ごとに組み最大で7間(約1280センチメートル)まで拡張可能なものである。
花道部は巾約5尺(約147センチメートル)、長さは4間ないし6間(約1097センチメートル)に組み立て可能で、平舞台の下手に約110度の角度で付けられるものである。
廻り舞台部は4層構造で、その構成は以下である。
- A層:最下層で土台となる木枠。
- B層:A層の上に置く鉄製の円形レールが敷設された床。
- C層:B層の上に置くD層の回転する円形床を支える腕木のついた台木。
- D層:最上層で、B層の円形レール上を転がるための鉄製車輪のついた直径8尺の円形床、及び廻り舞台前面を円形床と同じ高さにするための床。
廻り舞台部は平舞台の奥中央に取り付けられる。
D層の円形床には鉄製の輪がついている。この輪に結んだ綱を引くことで円形床を回転させたと思われる。このような回転方式を上廻し式という。ただし地区の古老は、昔は奈落に入った者が心棒の腕木を押し回して舞台を回転させていた、と話している。この話を裏付けるように回り舞台装置には心棒を押し回していた痕跡があり、ある時に上廻し式に改造されたものと思われる[10]。
道具類
道具類としては計62点が伝えられている。その内、特徴的なものを以下に詳説する。
- 本床(チョボ)


太夫座とされるものが2基伝わっている。一つは、縦203センチメートル、横212センチメートルのもので、表には「進上 酒源」、裏には「水□上小瀬街 大工政吉作之」と墨書されている。西塩子の回り舞台に関する道具の控え帳である『仲磨諸道貢控帳』にある、文政6年時の記載「酒源寄進本床」と符合する本床であり、少なくとも1823年(文政6年)には存在、と見ることができる[11]。
もう一つは縦192×横189センチメートルの大きさの物。前述の物より小さめであるが鷲子彫(とりのこぼり)の名工である明治時代の彫刻師小林平衛門[注釈 1]による精緻な彫刻が施された豪華な物である。完成は1889年(明治22年)頃。支払った金額は23円。
古い方を下座に、新しい方を太夫座として使用した[11]。
- フスマと襖箱
フスマは12枚1組のものが11組、収納用の木製の襖箱11基と共に伝えられている。1枚は縦150センチメートル×横60センチメートルの襖状で表裏に異なった絵が描かれている。よって22通りの背景を出すことができるものである。フスマの絵は辰ノ口村(現、常陸大宮市)生まれの明治の絵師、野沢白華によるものと伝えられている[11]。フスマの所有数は村の自慢になったようで、西塩子地区の古老は、フスマを“ブデェ”と称し、舞台そのもののように呼んでいた[14]。
- 幕類

暖簾状の物2点、引幕1点、水引幕7点、下げ幕2点の計12点が伝えられている。『仲磨諸道貢控帳』の記載との符合から、12点中5点が文政年間から、また2点が1874年(明治7年)から伝わる品であることが判明している。
引幕(大幕とも呼ぶ)は縦333センチメートル、横1146センチメートルで、黒い鳥が飛び交う海原を帆掛け船が水平線上の太陽に向かって走る様子が描かれている。帆掛け船に帆には「西若」の文字が書かれ船上には芝居に使う楽器や道具が置かれている。綿布を18反使用して造ったものである。地区の古老は、この綿布は西塩子の人々が綿の栽培から糸繰り、機織りまでして造ったものだと語っている。幕の左下には落款風に”文政三辰菊月"と染め抜かれた文字がある。『仲磨諸道貢控帳』の文政六年記載の「大幕」と符合する幕であり、”西塩子の回り舞台”として伝わる品々の中で製作年代が判る最も古い品である[11]。
左下にはさらに、“下小瀬邑紺屋長兵衛細工人寺田村倉太郎”という製作者名も染め抜かれている。紺屋長兵衛は隣村の下小瀬村(旧、緒川村。現、常陸大宮市)の者で幕の染めを行った[14]。
古文書類
舞台に関する古文書類が46点伝わっている。年代別では文政期1点、慶応期1点、明治期34点、大正期1点、昭和期4点、不明5点で、古いものは1823年(文政6年)、新しいものは1933年(昭和8年)のものである。種類としては羽黒鹿島神社の遷宮時の芝居に関するもの、若衆金の記録、道具控帳、寄附控帳などである[15][16]。これらは1991年の調査中に地区の住人が自宅の倉に保存していたものを持ってきたものである。ネズミや虫による食害でかなり傷んでいるが、この古文書類で道具の年代特定や、舞台の歴史を知ることができた[17]。
草創・興隆期の舞台運営
要約
視点
舞台が成立した時期については確たる史料や伝承が伝わっておらず不明である。ただし、“文政三辰菊月”と染め抜かれた引幕の存在や、文政6年時の記録を含む古文書『仲磨諸道貢控帳』の存在から、1991年調査を行った大宮町歴史民俗資料館(現・常陸大宮市歴史民俗資料館)は、文政期には仮設的な舞台が存在していた可能性を推測している[18]。文化文政時代(1800年代初め)は日本全国の農村に人形浄瑠璃や歌舞伎が浸透していった時代であった。常陸大宮市域では文化期に先だつ1751年(宝暦元年)、1769年(明和6年)には芝居が村々で行われた記録が残っている[19][20]。
1894年(明治27年)生まれの地区の古老は舞台の歴史について以下のように語っている。
はじめは人形芝居をやっていた。明治30年かそこらまでしか、やらなかったのではないか。もっとやったのかもしれないが、自分は明治27年生まれだからわからない。
<中略>
人形芝居の着物は払い下げになって、村の人々が集まって買ったようだ。子供が着られるくらいのものは売ってしまって、人形芝居はやめて役者を買ってやるようになった。
<中略>
人形芝居は村の好きな人たちが集まってやったようだ。一座の名前はわからない。そのうちに、人形芝居よりはホンシバイをやったらよかろうということになって、役者を買ってやるようになった。
<中略>
役者は安い役者を買うことが多かった。茂木の飯野の役者は安かった。遷宮のオオシバヤの時はいい役者を買ったんだろうが、青年だなんだ少しくらいの催しをやるには安いので充分だから。喜連川の役者も買ったことがある。青年芝居は3年に1回はやったな。
この“人形芝居”すなわち人形浄瑠璃を上演していたという証言は、『仲磨諸道貢控帳』の文政6年の記録に、「梶原頭」「団七頭」「立役手」といった人形部位、また「しろじばん」「ちりめん下帯」といった衣装に関する保有記録が見られることから、ある程度裏付けられる。また、阿波人形浄瑠璃の文化を今に伝えている徳島県名西郡神山町に現存する江戸時代から伝わる人形浄瑠璃のフスマと西塩子のフスマには大きさや図柄に共通点が認められ、この一致も古老の証言をさらに補強する要素となっている[注釈 2]。しかし一方で、西塩子の“文政三辰菊月”と染め抜かれた引幕は、人形浄瑠璃用としてはやや大きすぎるとの指摘もある。このことから西塩子の回り舞台は人形浄瑠璃と歌舞伎のどちらにも対応可能な舞台として設計された舞台ではないか、との推論が建てられている[21][1]。人形浄瑠璃の道具類は1901年(明治34年)に売却されたため伝わっていない[22]。
舞台は大がかりなものとしては地区の氏社である羽黒鹿島神社の遷宮時の余興として2晩かけて開催し、青年たちが主体となって行った祭礼では1晩限りで開催された。1901年(明治34年)の遷宮芝居の会計は収入600円12銭、支出604円28銭であった。600円余りは現在の価格に換算すると800万円ほどとなる。この祭礼では少なくとも1000人以上の観客が、地元西塩子近辺からはもとより、水戸市の渡里町・上市・下市、常陸太田市の棚谷・下利員、城里町の那珂西・春園、那珂市の菅谷などからも訪れている。舞台の開催は金、物、人の流れを刺激し地域経済を活発化させていたのである[16][23][22]。
また、幕やフスマといった道具類が他の土地での公演時に貸し出されていることが古文書『若衆金貸付帳』の記述から判った。同史料には1908年(明治41年)の旧暦9月から1924年(大正13年)の旧正月の間に他地区への貸出が31回記録されている。最も遠方は芳野村(現在の那珂市)鴻巣で近いところでは隣地区の北塩子に貸し出している。また道具だけでなく、地区内の舞台操作熟練者(”ブデエマワシ”と呼ぶ)が道具操作要員として貸出地に赴いた場合もあった。
貸出の際には謝礼金が相手から支払われている。1回の謝礼金額は1円から50円で、平均すると10円16銭になる。この謝礼金は興行費、道具の修繕費などに使った他、西塩子ではこの金を資金に、村人に貸付けを行う村内金融を若衆が行っていたことが前述の『若衆金貸付帳』の他いくつかの古文書から判明した。『若衆金貸付帳』には1908年(明治41年)の旧暦9月から1916年(大正5年)1月までの間に31件の貸出が記録されている[22][24]。
戦後の娯楽の多様化と普及に伴い、農村における歌舞伎上演は次第に衰退の傾向をたどる。西塩子においても、1946年(昭和21年)に塩田小学校校庭において行われた興行を最後に、組立てられることは無く羽黒鹿島神社の倉庫に保管され、以後、長期にわたって休眠状態に入る[25]。
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復活
道具類は日干しする為に年に1回は外に出されていたが、それも昭和50年代(1975年~1984年)くらい迄でいつしか倉に仕舞われたままになった[1]。
1991年(平成3年)12月29日大宮町歴史民俗資料館による調査が開始された。倉にあった道具類は大宮町立塩田小学校の体育館に運び出された。その量は2トントラック3台、軽トラック2台分に及んだ。体育館で実測・撮影等が行われると共に、仮組み立てなども行われた。調査中、地区の住民より自宅に保存されていた舞台に関する史料が届けられた。調査の様子がマスコミで報道された効果で多くの見学者が調査会場を訪れた。調査は1992年(平成4年)1月13日まで、計11日間行われた。この調査と古文書類の解読から受け継いできた舞台道具類が歴史的・文化的価値のある物であることが西塩子地区内で認識されることとなった[26]。
1994年(平成6年)4月10日、西塩子地区内の全世帯が会員となる「西塩子の回り舞台保存会」が設立された[27]。保存会の設立目的は舞台の「保存・管理」と「復元」であった。保存会の設立自体はスムーズに成されたが、2つ目の目的である「復元」について、いざ実現に動こうとすると異論が相次いだ。異論の内容は経費、労働の負担の問題、組み立てノウハウの欠如で実現性への不安などであった。中には今更舞台を復元することの必要性すら疑問視する声もあがった。そんな否定的な空気の中、とりあえず前調べのため、西塩子同様に組み立て舞台を保存しそれを組立てている東京都あきるの市の「管生の組立舞台」の見学や、全国の農村歌舞伎関係者が集まる全国地芝居サミット[注釈 3]への参加を行った。すると、この全国の同じ境遇にある人々からの交流から西塩子の者たちの意識が「復元」に向けて前向きになっていった。そして保存会設立から3年後の1997年(平成9年)10月25日、ついに西塩子の回り舞台の復元がなされた。この復元から舞台は数年おきに組立てられ地芝居の上演などがされるようになった[28][29][30]。
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舞台道具類の新調
要約
視点
保存されていた西塩子の回り舞台の舞台装置や道具類の中には、劣化が著しいものもあった。また、現代人の体格に合わず、演技上不都合なものも見受けられた。このため保存会では、公演に際して新たに舞台各部や道具類を以下のように新調し、それらを用いて上演を行っている。
- 回り舞台部の新調
1997年(平成9年)の半世紀ぶりの復元公演では保存していた回り舞台部を使った。だが、この回転部材は動きが安定せず、また釘が飛び出ている所があるなど危険な状態であった。よって地元の者が新しい回り舞台部を作り、翌年の復活公演からはそれを使用している。新しい回り舞台部は奈落内に突き出る木製の心棒が回転床の下部についている構造で、舞台を回す時は奈落に入った4人程度の者が心棒に十字の形でついた横木を押して回す仕組みである。また回転床の大きさも従来のが直径8尺であったのを、2間(約3.6メートル)に拡大された[31][32]。
- フスマの新調
保存会は2001年(平成13年)から2003年(平成15年)の間、文化庁の「ふるさと文化再興事業」による資金的な支援を受けた。この資金を使ってフスマの新調が行われた[1][28]。
保存されていたフスマは1枚が高さ150センチメートル×幅60センチメートルであり現代人の体格ではフスマから体がはみ出て芝居にならない、という状況であった。新調したフスマは、1枚の高さを180センチメートル、幅を90センチメートルに大きくしたもので、2003年(平成15年)の第2回定期公演から使われた。製作は歌舞伎の大道具製作の専門家が行ったが、フスマ絵(=背景画)を描く過程では茨城県立大宮高等学校や同県立佐和高等学校の美術部員がボランティアとして、専門家の指導のもと描画に参加している。高校生ボランティアによるフスマ絵を描く作業は2003年以後も続き、2008年(平成20年)の国文祭公演の前には同県立水戸第二高等学校の美術部員が参加している[1][33][34]。
- 「平成の大幕」の製作
180年近い月日を経て傷みが目立つ「文政の大幕」に代る大幕が2002年(平成14年)から2006年(平成18年)の5年の期間を経て製作された。この大幕は「平成の大幕」と呼ばれ2006年の第3回定期公演で初披露された。
古老の話によれば「文政の大幕」は地区の者が綿の栽培から、紡績、布織りまでを行ってできた幕、とのことである。「平成の大幕」を制作するにあたってはこの伝承に基づいて、地区の多くの者が参加して作り上げることが理念として掲げられた。結果200人以上の者が製作に携わっている。
大幕の新調は大宮町文化再興プロジェクト事業としてであり、その製作の中心となったのは「大幕を織る会」(以後”織る会”)という市民グループである。この会の母体となったのは「綿の会」という大宮町歴史民俗資料館で保存している機織り機を使って機織りの技術を伝承する、という活動を1992年(平成4年)より行っていた市民グループで、町の大幕製作協力の呼びかけに同会メンバー有志が応じ、これに土浦市立博物館での機織り教室の指導者であった者を招いて2002年(平成14年)3月、織る会が発足した。
綿の栽培に関しては多くの町民に栽培に関わってもらいたい、との思いから栽培ボランティアが募集された。結果、大宮小学校、大場小学校、塩田小学校や青年団、一般家庭から参加があった。彼らが畑の他、庭先やプランターで栽培した綿の他、織る会メンバーが栽培した綿を加え100キログラム以上の綿が1年で集まった。
糸繰りや布織りの作業は、綿の栽培と並行して織る会のメンバーによって行われた。幕の製作には、長さ約4メートル、反物幅の白生地が36枚必要であった。更に染色の際にムラが出ないよう、36枚全てが均一な太さの糸で均一な織り目で織られていなければならなかった。そのため、誰がいつ織っても同じ品質の布が織れるよう、織る会のメンバー全員が織り方を統一する必要があった。メンバーは約1年間の特訓を経てこの高度な技術を習得し、ついに36枚の布を織り上げたのである。 綿の栽培から織り上がりまで3年がかかっていた。
染色を担当する職人は、公募によって選出された。公募は、染織関係の専門雑誌『月刊染織α』(発行:染織と生活社)の2004年(平成16年)11月号に織る会の名で掲載された。掲載された公募要項は次のとおり。
- 応募資格:染色業者又は作家、染色を専攻する学生。
- 引幕の仕様:高さ3メートル60センチメートル、幅11メートル70センチメートル。幕に使用する手織り布は発注者が提供する。
- 提供する布:経糸を16番単糸、緯糸を地綿の手紡ぎ糸で織った35センチメートル幅の布を36枚継ぎ合わせ大幕の寸法とする。
- 染色材料:昔の大幕(文政の大幕)にならい、なるべく天然の染料と顔料を使用する。
- デザイン:歌舞伎舞台の引幕にふさわしい大胆な柄であること。発注者と話し合いの上決定すること。
- 製作費用:デザイン・染色材料・手数料の全てを含む費用は5百万円とする。
- 納入期限:2006年(平成18年)9月。
この公募に対し全国から7名の染色家が名乗りを上げた。応募者から提出させた原画案などからの審査の結果、2005年(平成17年)3月、兵庫県美嚢郡吉川町(現、三木市)在住の浅井一甲[注釈 4]に染色を依頼することとなった。染色に係る費用は東日本鉄道文化財団の地方文化事業支援による助成金で賄われた。
幕の図案は浅井と織る会とで検討し決定した。浅井は原寸大の下絵を造り全体のバランス等を見ながら修正を重ねてから、白生地への描画等を行った。そして2006年(平成18年)9月に染め上がった大幕が届けられた。織る会によって縫い合わせが行われ「平成の大幕」は完成し、2006年の第3回定期公演の大トリの上演前に初披露された[35][36][37][38][39]。
「平成の大幕」では梅の花が舞う中を七福神が遊んでいる。弁財天の前の糸車はこの幕の布を織った「大幕を織る会」を表している。寿老人が広げる巻き物の中に押された100近い落款は幕造りに携わった者たちの名前である。浅井は「大幕には人物が広げる巻物のモチーフがある」と述べている[1][37][38]。
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地元演者の発足
舞台の復活に伴い地元の者での芝居集団の立ち上げや、次の世代への伝統文化継承活動が発足した。
- 西若座
「西若座」は地元有志による地芝居一座である。1998年(平成10年)の復活公演で初舞台を踏み、以後定期公演で上演を続けている。レパートリーは『寿曾我対面』、『絵本太功記』「十段目」、『菅原伝授手習鑑』など。茨城県内には指導者がいないため、栃木県や埼玉県から指導者を招いている[32][40]。2005年(平成17年)9月には東京駅丸の内北口ドームで行われた「まるきた伝統空間(主催:東日本鉄道文化財団)」の2025年度秋公演に登場し『絵本太功記』より「十段目」を演じた[28][41]。
- 塩田小、大宮北小児童による「子ども歌舞伎」
西塩子の回り舞台の公演の中でも特に人気の「子ども歌舞伎」は2001年(平成13年)の公演から塩田小学校[注釈 5]の児童による子ども歌舞伎の上演から始まった。これは保存会が次の世代に郷土の文化を伝えたいとの思いを学校側に申し出て実現したものである。塩田小の児童は代々全校生徒をあげて「総合的な学習の時間」で歌舞伎の練習を重ね2001年以降の舞台に毎回立っている。塩田小学校閉校後を受け継いだ大宮北小学校でも「総合的な学習の時間」での歌舞伎の学習を継承して、定期公演の舞台に立つと共に、毎年11月の学内行事の「北小祭」で3,4年生が演技を披露している。更に児童の歌舞伎は西塩子を飛び出し市内外の伝統芸能関係のイベントで上演をするまでに成長している[40][28][43]。
- 常磐津伝承教室
保存会はまた2002年(平成14年)から大宮町内全域の児童を対象とする伝統芸能の教室「常磐津伝承教室」を、常陸大宮市発足後は市全域に拡大し開催している。この教室で歌舞伎を学んだ児童らも舞台で『常磐津 将門』などを演じている[40]。
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復活後の公演記録
要約
視点
1997年の復元公演を含め2019年までに以下の9回の組立て公演が行われている。組立て場所は全て塩田地区センター(旧名:塩田公民館)グラウンドで行われている。2025年10月25日には第8回定期公演の開催が行われることが告知されている[44]。
- 復元公演
1997年(平成9年)10月25日、復元公演実施。開演時間は午後4時から7時まで。栃木県烏山町の烏山山あげ祭保存会のメンバーによる常磐津の『子宝三番叟』や『蛇姫様』などが上演された。保存会としては今回の復元・上演は今までの調査・研究の一環としてお披露目的なもの、との位置づけであった[45][46]。
- 復活記念公演
1998年(平成10年)11月7日、前年の経験を踏まえ、”復活”と冠した公演を実施した。この公演のために招いた埼玉県の郷土芸能団体・秩父歌舞伎正和会が寿三番叟を上演。初披露の地元の地芝居一座「西若座」は『白浪五人男』を上演。3000人の観客が集まった[47]。この日を含め翌日、11月8日の2日間は全国の地芝居関係者、文化財行政担当者が集まる「第9回全国地芝居サミット イン ひたちおおみや」の開催期間であり、西塩子の回り舞台もサミット会場のひとつとなっている[48]。
- 第1回定期公演
2001年(平成13年)10月27日、第1回定期公演開催。塩田小学校の児童による子供歌舞伎がこの公演から始まった。来場者は約3500人。翌日には同舞台で和太鼓、津軽三味線、ロックなどのコンサートも開催された[49]。
- 第2回定期公演
2003年(平成15年)10月25日、第2回定期公演開催。約3000人が来場した[50]。
- 第3回定期公演
2006年(平成18年)10月28日~10月29日の2日間にかけて第3回定期公演開催。初日は塩田小の子供歌舞伎の他、西若座の『菅原伝授手習鑑・寺子屋の段』や観世流能楽師九世橋岡久太郎の「舟弁慶」などが上演される。また、平成の大幕が初披露された。翌、10月29日は桜川市の真壁白井座による人形浄瑠璃や郷土芸能が上演された[51][52]。
- 第23回国民文化祭・いばらき2008(第4回公演)
2008年(平成20年)11月1日から11月9日にかけて「第23回国民文化祭・いばらき2008」が開催された。その11月1日の開会式では、組み立てられた西塩子の回り舞台がサテライト会場となり、西塩子で上演中の子供歌舞伎がメイン会場の茨城県民文化センターへ生中継される、などの演出がされた。11月8日~9日には西塩子の回り舞台を会場にして西若座の歌舞伎、塩田小の子供歌舞伎の他、県内外の地芝居などが上演された[53]。
- 第5回定期公演
2013年(平成25年)10月19日に第5回定期公演を開催。常ならば2011年(平成23年)が公演年であったが、東日本大震災の影響で開催が見送られ、国文祭から5年ぶりの公演となった。この回では復興を願い招待した福島県の郡山市と南会津町の地芝居団体も舞台に上がっている。約6000人が来場した[54]。26日には「茨城県郷土民俗芸能の集い」が開催された[55]。
- 第6回定期公演
2016年(平成28年)10月15日に第6回定期公演を開催。この回は舞台復活20周年記念として、秩父市の秩父歌舞伎をゲストに招いた。大トリの西若座は「吉例曾我対面・工藤館対面の場」を演じた。幕間には常陸大宮市内の日本語学校に通う外国人たちによる祭り囃子の演技や「白浪五人男」を模した自己紹介などの催しが行われた[56]。
- 第7回定期公演
2019年(令和元年)10月20日に第7回定期公演を開催。当初は10月19日に開催する予定であったが開催日直前に来襲し、茨城県北地域に大きな被害をもたらした台風19号のため、翌日に順延しての開催である。台風襲来前に組立てた舞台は崩れはしなかったが、舞台の屋根に載せられた“菰(こも)”が強風でほぼ全て飛ばされ、空が完全に露出した異例の状態での公演となった[57][58]。
この日のプログラムは以下のとおり[59]。
- 第8回定期公演
2025年(令和7年)10月25日に第8回定期公演を開催することが告知されている。前回から6年ぶりの公演となる[43]。
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顕彰
埋もれていた地区の文化を地区の住民の手で現代に復活させ地域活性化のイベントとしたこと、また伝統継承のための取り組みを行っていることなどが評価され以下の賞を受賞している。
- むらの伝統文化顕彰
保存会として第6回(平成18年度)「むらの伝統文化顕彰」の最高賞である農林水産大臣賞を受賞。この賞は農林水産省、都市と農山漁村の共生対流推進会議(オーライ!ニッポン会議)、財団法人 都市農山漁村交流活性化機構(まちむら交流きこう)が主催する農村漁村における伝統文化の維持継続活用に取り組んでいる団体等を継承する事業[60]。
- ふるさとイベント大賞
2004年(平成16年)「第8回ふるさとイベント大賞」の最高賞である大賞を受賞。この賞は地域活性化に貢献のあったイベントを表彰するもので地域活性化センターと国内の58の新聞社が主催している。第8回は164のイベントが推薦され、その頂点となった。4月12日表彰式が行われた[61]。
- 茨城県表彰
保存会として2004年(平成16年度)の「茨城県表彰」の功績団体として表彰された[62]。
- いばらきイメージアップ大賞
保存会として2006年(平成18年)「第1回いばらきイメージアップ大賞」の奨励賞を受賞。この賞は茨城県のイメージアップにつながる取り組みを表彰するもので奨励賞は大賞に次ぐ賞。10月19日に表彰式が行われた[63]。
- サントリー地域文化賞
保存会として2006年(平成18年)「第28回サントリー地域文化賞」を受賞。この賞は地域文化の振興に貢献のあった個人・団体を表彰するもの。8月2日に贈呈式が行われた[64][4]。
- ティファニー財団賞
保存会として2008年(平成20年)「第1回ティファニー財団賞」の伝統文化振興賞を受賞。この賞はティファニー財団と日本国際交流センターによる日本の伝統文化の振興と地域社会の活性化に貢献のあった団体への共同での顕彰事業で、伝統文化振興賞は大賞に次ぐもの。6月26日に授賞式が行われティファニー製のトロフィーと賞金200万円が送られた[65][66]。
- 常陸大宮大賞
保存会として平成28年度常陸大宮大賞の大賞を受賞。この賞は常陸大宮市の知名度・イメージを向上させた個人・団体等に送るもので、平成28年度に創設された。平成28年度は常陸大宮市が誕生した2004年(平成16年)10月から2016年12月までの功績者(団体)に対し送られている[67]。
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継続への課題と改革
要約
視点
西塩子地区は住民の減少と高齢化が進んでいる。
舞台の復元公演が行われた1997年(平成9年)の2年前の1995年(平成7年)に行われた国勢調査では地区の住民数は287人であった[68]。それから25年後の2020年(令和2年)国勢調査では住民数は145人と、142人(49.5パーセント)減少した[8]。その一方、高齢化率(65歳以上割合)は31.7パーセント(1995年)から52.4パーセント(2020年)と20.7ポイントも上昇している。
0~14歳(赤) | 15~64歳(黄) | 65歳以上(緑) | 不詳(灰色) |
高齢者が多く、かつ人口減少が進む西塩子地区にとって舞台の組み立てを継続するに当たって労力面と経費面の負担は深刻な課題である。
労力面への対策としては、2001年(平成13年)の第1回定期公演からボランティアの活用が試みられている。2005年(平成17年)には、茨城大学人文学部と常陸大宮市が地域連携協定を締結し、学生による協力が進展した。さらに、茨城大学は2008年にこの連携を全学へと拡大し、その成果として、保存会のホームページが工学部の学生によって新たに作成されるなどの取り組みが見られる[69][70]。2013年(平成25年)の第5回定期公演では水戸市の文化デザイナー学院生も参加、地元産品を使った土産物開発や公演PRポスターの製作などに取り組んだ。このように学生達は組立て時の労力参加だけでなく西塩子の回り舞台の活性化のための企画立案・実行にまで参画している[71]。これら大学生・専門学校生の参加の他、「舞台道具類の新調」章で前述したように高校生のフスマ絵作成や「平成の大幕」作りにおける綿の栽培において多数の地元住民が協力など、幅広い協力がされている。
しかしそれでも組立て作業は困難かつ危険であるため、高所作業など一部作業を建設業者に委託することを2019年(令和元年)の組立て時から始めている。このことで労力の軽減は図られたが、運営経費が増加するという新たな課題も出てきた[72]。
西塩子の回り舞台の定期公演は自治体からの補助金の他、寄付金や協賛金、観客からのご祝儀などが運営予算となっているが、上述のように運営経費の増加で更なる財源の確保が必要となっていた。そこで保存会は2019年の定期公演からクラウドファンディング(以下"CF")による組立て費用の一部調達を行った。2025年(令和7年)のCFでは目標額は200万円で、内訳は重機レンタル代60万円、とび職の高所作業手間賃120万円、材料費20万円である。募集形式はALL-in方式(目標金額に満たない場合も、計画を実行し、リターンを届ける)。2025年5月30日にCFサイトの"For Good"にて告知された。返礼品は地元産コメ、舞台の桟敷席券、オリジナル手拭い、本公演以外の日での舞台使用権など。7月31日のCF終了時点で83人から総額174万2000円の支援があった[43][72][73][74]。
このように舞台継続への工夫がなされているが、舞台運営の中核となる保存会においては舞台復活当初の熱が冷め、公演時期が来る毎にメンバー間に疲弊感が漂い始めていた[29]。2019年(令和元年)公演の次に予定していた2022年(令和4年)公演がコロナ禍で中止になると[75]、それは顕著になった。この危機に舞台を支援する外部の者らが、ボランティアでの支援から更に一歩踏み込んで保存会をサポートする動きをみせた。「西塩子の回り舞台第8回定期公演運営委員会」の設立がそれである。この委員会は2025年(令和7年)舞台公演において、ボランティア募集や広報といった事前準備から公演当日の運営等を担うもので、前述のCFによる資金調達もこの委員会の仕事で為されたものである。保存会の労力軽減も計り、かつ従来の舞台公演に新たな企画も取り入れるこの運営委員会導入は、今後の舞台継続の鍵とも言える[43][76]。
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西塩子周辺の組立舞台-常陸大宮組立舞台群ー
1991年(平成3年)の調査を契機に西塩子以外にも常陸大宮市内に組立舞台が6つ存在している(いた)ことが判明した。「常陸大宮組立舞台群」ともいえるこれら7つの舞台は以下のとおり。
- 西塩子:本記事の舞台。旧大宮町内。
- 下小瀬(しもおせ):旧緒川村内。江戸時代の道具がある。常陸大宮市有形民俗文化財指定(2001年(平成13年)1月31日)[注釈 6][77]。
- 門井(かどい):旧御前山村内。江戸時代の道具がある。常陸大宮市有形民俗文化財指定(2009年(平成21年)11月25日)[注釈 7][77]。廻り舞台が付いていないこと以外は西塩子の舞台と構造が全く同じになっている[78]。
- 国長(くにおさ):旧緒川村内。
- 長田(おさだ):旧山方町内。これのみ廃棄されてしまっている。
- 小舟(こぶね):旧緒川村内。
- 下檜沢(しもひざわ):旧美和村内[注釈 8]。
このように常陸大宮市の旧町村の全てに組立舞台があった。地理的に見ると西塩子、下小瀬、門井の3つがそれぞれ隣接しており、残り4つはその周辺に散らばっている。そして西塩子、下小瀬、門井には江戸時代の道具があることから、常陸大宮組立舞台群は江戸時代に創始と考えられる西塩子、下小瀬、門井の一群と明治創始と考えられる他4つの一群に大別される。これらの地域には紙、絹、漆、煙草といった特産物があり河野[注釈 9]は、これらの特産物が村の財源を潤し組立舞台の導入する財源になったと考えられる、と述べている[22][79]。
脚注
外部リンク
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