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赤い鳥 (フォークグループ)
日本のフォークグループ ウィキペディアから
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赤い鳥(あかいとり)は、日本のフォークグループ。1969年に結成、1970年代を中心に活動し、1974年に解散した[1]。解散後は元メンバーが紙ふうせん、ハイ・ファイ・セット、ハミング・バードを結成した。
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解散時のメンバー
解散前に離脱したメンバー
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経歴
要約
視点
グループ名は鈴木三重吉主宰の児童雑誌『赤い鳥』からとった[1]。
各人がボーカルを担当することができ、美しいハーモニーが魅力的なグループであった。各地の子守唄・伝承歌などを美しいコーラスワークで聴かせる傍ら、トニー・マコーレイ (en:Tony Macaulay) などの曲提供によりアルバムを発表するなどソフトロック的な音楽性も兼ね備えていた。そのため関西地区で結成されたグループであるが、いわゆる関西フォークとは一線を画していた。
結成当時は後藤と平山の二人が日本民謡を独自のやり方で取り上げたデュエットだった[2]。山本と新居潤子は、谷村新司らと結成したコーラスグループ「ヒルビリー・シンガーズ」のメンバーであったが[2]、アマチュアコンサートで一緒になったとき後藤に音楽性を買われて赤い鳥に加入した。いったん加入した松田が脱退したのち大川が参加し、ここに五人編成の「赤い鳥」が再編された[2]。後期にはウッドストックの影響で、ロック色の強い音作りをしたが[2]、基本的には赤い鳥は民謡とフィフス・ディメンションのようなコーラスものの両方をレパートリーにした[2]。
1969年4月に兵庫県尼崎市武庫之荘にある公民館(通称「赤い屋根の家」)でコンサートを開催した。1969年11月、第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストに関西・四国地区代表として出場[1]。「竹田の子守唄」と「COME AND GO WITH ME」を歌い、フォーク・ミュージック部門の第1位を獲得、他部門の優勝グループを抑えてグランプリを獲得した[1]。このコンテストにはオフコース(当時は「ジ・オフ・コース」)、チューリップ(当時は「ザ・フォー・シンガーズ」)も出場しており、財津和夫はオフコースに、小田和正は赤い鳥にそれぞれ「負けた」と思ったという。
村井邦彦(アルファミュージック)のプロデュースにより、1970年4月に渡欧しロンドンでレコーディングを行う。同年6月に日本コロムビアからシングル『人生/赤い花白い花』」、アルバム『FLY WITH THE RED BIRDS』でメジャーデビュー。同年9月、東芝EMIレコード/Liberty レーベルに移籍。同年10月に「合歓ポピュラーフェスティバル'70」に出場し「翼をください」で新人奨励賞を受賞。
1971年1月から1972年6月まで、竹田一彦カルテットがバックバンドとして協力。1971年2月発売のシングル『竹田の子守唄/翼をください』が発売3年で100万枚を突破するヒットになった。1972年7月、渡米しレコーディング。
メンバー内の音楽上の路線対立から1974年9月に解散[1]。後藤・平山夫妻は「紙ふうせん」、山本夫妻と大川は「ハイ・ファイ・セット」、渡辺は「ハミング・バード」を結成した[1]。
解散後
紙ふうせんはフォークのあり方を追求し、ハイ・ファイ・セットは荒井由実やジャズを取り上げるなど、ポップな演奏を繰り拡げた。ハミング・バードは赤い鳥の後期を継承するような音楽性を展開したが、アルバム1枚とシングル数枚で解散した。
その後、渡辺俊幸はグレープのサポートメンバーを経て、メンバーのさだまさしの専属音楽プロデューサー、編曲家を務める[3]他、テレビドラマやアニメの劇伴も多く担当している。
1983年には、大阪府の万博球場で再結成コンサートが行われた[要出典]。
1991年、後藤・平山夫妻は新ユニット「TSU-BA-SA」を結成した。2人のメンバーを新たに加えた4人編成で、1990年代中頃まで活動を行っていた。赤い鳥の再結成と見られることもあったが、あくまでも後藤夫妻のプロジェクトである。
大川は1995年、横浜市青葉区の食料品店の事務所荒らしを起こし逮捕。音楽活動には戻っていない。[要出典]以後、ハイ・ファイ・セットは実質的に活動休止となり、山本潤子はソロ歌手及び松任谷由実のコーラスとしての活動が主体となる。山本俊彦は音楽プロデューサーとして活動していたが、2014年に死去。
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代表曲
- 「翼をください」
- 1971年「竹田の子守唄」のB面曲として発売。合唱曲として有名となり、既に1970年代後半から学校教育の場でもよく採り上げられるようになっていた。
- 「翼を下さい」と表記されることもあるが、厳密には「翼を下さい」と漢字表記した場合は、後年制作され、赤い鳥としてもシングル発売した英語バージョンを指す。
- 同名のテレビドラマも制作・放映された(翼をください (曖昧さ回避)を参照。: 1991年に川村かおりがカバーしてリバイバルヒットした。山本潤子は赤い鳥解散後、ハイ・ファイ・セット時代やソロ前期は、この唄に限らず赤い鳥時代の歌を封印していた。しかしこの歌が合唱曲となり、我が子までもが知っていたことがきっかけでまた歌うようになった。1998年、サッカーワールドカップの際には、サッカー日本代表チームの応援歌として山本潤子が歌いヒットした。
- 「竹田の子守唄」
- 民謡の伝承曲を原曲としてうたごえ運動とともに[要出典]広まった楽曲のカバー。1969年「お父帰れや」のB面曲としてURCから会員に発売。1971年メジャー発売されて大ヒットした[1]。一般的にはどこかの民謡としか捉えられておらず、政治的要素よりも美しさでヒットした。ところがその後、被差別部落地区に伝わる子守唄を元にしているという理由で自粛され、長い間テレビ・ラジオから姿を消すことになり幻の曲となっていた。結局赤い鳥の被差別部落由来の曲はこの曲だけであった。
- 1995年発売の『これぞ決定盤! フォーク・ソング伝説』で初CD化。その他CDでは1998年発売の『URCシングルズ2』、1999年発売の『赤い鳥シングルズ』、2003年発売の12枚組ボックス・セット『赤い鳥 コンプリート・コレクション 1969-1974』および藤田正の著書『竹田の子守唄―名曲に隠された真実』(2003年2月、解放出版社、ISBN 4759200231)の付録CDに収録された。その後は『ゴールデン☆ベスト』シリーズ等のベストアルバムに代表曲として収録され、オリジナルアルバム『竹田の子守唄』自体も2013年にCD化されている。
→自主規制の事情については「竹田の子守唄」を参照
ディスコグラフィー
シングル
アルバム
オリジナル・アルバム
ライブ・アルバム
ベスト・アルバム
CD-BOX
参加楽曲
タイアップ
NHK『みんなのうた』使用曲
CMソング
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脚注
関連項目
外部リンク
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