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オフコース

日本のフォークロックバンド (1969-1989) ウィキペディアから

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オフコース英語: OFF COURSE)は、1967年から1989年2月26日まで活動した日本バンド1970年デビュー。「さよなら」や「Yes-No」などのヒットソングで知られ、1982年には日本武道館での連続10日間コンサートを成功させた。

概要 オフコース, 別名 ...
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概略

グループの始まりは神奈川県横浜市聖光学院高校に在学中だった小田和正鈴木康博地主道夫らが結成したフォーク・グループから端を発する[3]1970年にシングル『群衆の中で』でデビュー、当初はアコースティック・ギターを中心としたフォークソング的な曲を歌っていたが、1975年の『眠れぬ夜』がスマッシュヒットとなった以外は長年ヒット曲に恵まれなかった。

1972年から小田と鈴木のデュオで活動していたが、デビュー7年目の1976年ギター松尾一彦ベース清水仁ドラムス大間ジローがレコーディングに参加し(正式加入は1979年8月1日)、キーボードシンセサイザーを含めたバンドサウンドとなる。デビュー10年目の「さよなら」の大ヒットで人気を獲得、それ以降も多くのヒット曲を生み出し、ビッグ・グループになった。しかし、音楽番組全盛の時代にあって、テレビ出演で人気を高めていった他のグループとは一線を画し、テレビ番組にはほとんど出演せず、レコード制作とコンサートに力を注ぐという独自の姿勢を頑なに貫いた。

1982年、鈴木の脱退により一時活動を休止した後、4人での活動再開以降もヒット曲を連発し、変わらぬ人気を博する。その後5年近く4人で活動を続け、デビューから19年目の1989年に解散。その後、小田と鈴木はソロとして、松尾、清水、大間は各々のソロ活動の傍ら1999年3月にユニットAcoustic Beatles Clubを結成した[† 1]

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メンバー

解散時のメンバー

解散前に脱退したメンバー

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来歴

要約
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1964年
12月、高校2年のクリスマス・パーティーでバンドの生演奏をしたことがきっかけとなり、翌年の文化祭(聖光祭)のステージに立つことを目指しメンバーの中から小田和正、鈴木康博、地主道夫、須藤尊史の4人でグループが結成される[4]
1965年
11月3日、聖光学院文化祭に出演。高校卒業後、鈴木康博は東京工業大学制御工学科に、小田和正は東北大学建築科にそれぞれ進学[† 3]、離ればなれになる。しかし、休日に鈴木が車に機材を積み込んで仙台まで行って練習は続けられた。
1966年
8月17日、「第1回 FOLK SONGの…」開催(横浜勤労会館)。
1967年
3月27日、「第2回 FOLK SONGの…」開催(横浜勤労会館)。コンサートの後、彼らは名前のなかったこのグループに“THE OFF? COURSE”と命名する。彼らの音楽活動を支援し、コンサートのためにいつも中心となって動く聖光野球部OB会“オフコース(OF COURSE)”に敬意を表してその名をもらった[4][6]。大学時代、自主コンサートを毎年開催するほか、聖光学院時代の友達から頼まれて演奏したり、他の大学の文化祭に呼ばれるなど、3人は活発な演奏活動を続けた。
1968年
4月4日、「第3回 FOLK SONGの…」開催(神奈川県立青少年センター)。大学三年になった彼らにとって、解散コンサートのつもりで開催された[7]
1969年
7月20日、第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト(LMC)仙台地区予選(仙台西花苑[† 4])にフォーク部門から出場、第2位。8月31日、宮城県予選(宮城県民会館)に出場、第1位を獲得。9月、東北地区本選大会(仙台電力ホール)に出場、第1位を獲得し、全国大会へ進出。11月2日、LMC全国グランプリ大会(新宿厚生年金会館大ホール)第2位[† 5][† 6]
1970年
4月5日、シングル群衆の中で ⁄ 陽はまた昇る』でデビュー。10月、小田・鈴木の聖光学院の後輩だった小林和行がベーシストとして加入。11月14日、赤い鳥と「8人の音楽会」開催(大手町サンケイホール)。
1971年
2月、地主が建築の道へ進むためにグループを脱退。5月、パシフィック・エンタープライズに所属、ボン・ミュージックと音楽出版契約。10月5日にシングル『夜明けを告げに ⁄ 美しい世界』を発売。
1972年
4月25日、シングル『おさらば ⁄ 悲しきあこがれ』発売。グループ名を「オフ・コース」とする。5月13日に「第1回東京音楽祭」に出場(日本武道館)、「おさらば」を歌う。当時のオフコースのマネージャーだった吉田浩二がコーラスとして加入。5月19日、メンバーが小田・鈴木の二人となる。6月9日、ラジオ関東『ヤングヤングミュージック・イン・テクニクス』初出演。のちに『オフコースの小さな部屋』のテーマソング「小さな部屋」が生まれた。9月13日、第1回リサイタル“オフコース・コンサート・イン・横浜”開催(横浜市教育会館)。
1973年
2月1日、杉田二郎と「サブミュージック・パブリッシャーズ・オフィス」を設立[† 7]。5月1日、“ラブ・ジェネレーション・コンサート”を全国12か所で開催(5月25日まで)[† 8]。6月5日、ファースト・アルバム『オフ・コース1 ⁄ 僕の贈りもの』発売。9月9日、第2回オフコース・リサイタル“グリーン・ラブ”開催(日仏会館)。11月26日、アルバム・レコーディング開始(1974年3月10日まで)。11月30日、ラジオ関東“ヤングヤングミュージック・イン・テクニクス”にレギュラー出演。
1974年
1月10日、札幌・道新ホールにてコンサート。観客は僅か13人で、それがいつまでもエピソードとして何回も出ることになる[10]。3月14日、渋谷ジァン・ジァンにてコンサート。3月28日、東京で「オフコース・ファミリー・コンサート」開催(岩波ホール)。4月5日、シングル『もう歌は作れない ⁄ はたちの頃』発売。5月5日、アルバム『この道をゆけば ⁄ オフ・コース・ラウンド2』発売。5月7日、第3回オフコース・リサイタル“明日への歩み”開催(日本青年館大ホール)。10月20日、シングル『忘れ雪 ⁄ 水いらずの午後』発売。10月26日、第4回オフコース・リサイタル“秋ゆく街で”開催(中野サンプラザホール[† 9]。12月20日、アルバム『秋ゆく街で ⁄ オフ・コース・ライヴ・イン・コンサート』発売。10月26日に行われたコンサートの模様を収録したライブ・アルバム
1975年
3月22日、“オフコースの小さな部屋 Vol.1”-なぜ音楽活動を続けるか- 開催(日本青年館大ホール ゲスト:山本コウタロー南高節斉藤哲夫イルカ[† 10]。4月、武藤敏史がオフコースの担当ディレクターとなる。4月27日、“オフコースの小さな部屋 Vol.2”–お帰りなさいジローちゃん– 開催(神田共立講堂 ゲスト:杉田二郎)。6月8日、“オフコースの小さな部屋 Vol.3”–みつはしちかこさんを迎えて– 開催(日本青年館大ホール ゲスト:みつはしちかこ、イルカ)。7月2日、シングル、アルバム・レコーディング開始(11月6日まで)。8月17日、“オフコースの小さな部屋 Vol.4”–フォーク史をたどる– 開催(日本青年館大ホール ゲスト:石川鷹彦新田和長)。8月20日、文化放送“ハロー・パーティー”出演。8月26日、“オフコース・ファミリー・コンサート”開催(新宿安田生命ホール)。10月4日、第5回オフコース・リサイタル“秋ゆく街でII”開催(中野サンプラザホール)。11月2日、聖光祭に出演。11月24日、“オフコースの小さな部屋 Vol.5”-コーラスの世界- 開催(日本青年館大ホール)。12月8日、文化放送“歌そして仲間”出演(1976年1月25日オンエア)。12月20日、シングル『眠れぬ夜 ⁄ 昨日への手紙』とアルバム『ワインの匂い』を同時発売。新宿ルイードでのチャリティーコンサートに出演。12月23日、信越放送“クリーン・フォーク”出演。
1976年
1月18日、「オフ・コースとイルカの年賀状コンサート」開催(日本青年館 ゲスト:なぎら健壱)。2月、小田、早稲田大学大学院を卒業。2月16日、新宿ルイード(共演:イルカ)。2月19日、文化放送“花のフォークタウン”出演(渋谷公会堂)。2月26日、シングル『ひとりで生きてゆければ』レコーディング開始(2月29日まで)。プロデューサー武藤敏史が以前ディレクターとして担当していた「ザ・ジャネット」の元メンバーの大間ジローをレコーディングに参加させる。5月5日、シングル『ひとりで生きてゆければ ⁄ あいつの残したものは』発売。同日より、大間ジロー参加。5月23日、“オフコースの小さな部屋 Vol.6”-音楽の多様性その1:音楽はいかに映像を助けるか、また映像はいかに音楽を助けるか- 開催(日本青年館大ホール ゲスト:加藤和彦)。清水仁が初参加[† 11]。8月1日、それまで所属していたサブミュージック・パブリッシャーズ・オフィスから独立、マネージメント会社「オフコース・カンパニー」を設立。8月15日、アルバム・レコーディング開始(9月15日まで)。9月5日、“オフコース・ファミリー・コンサート”開催(全電通ホール)。10月5日、シングル『めぐる季節 ⁄ ランナウェイ』発売。10月23日、第6回オフコース・リサイタル“秋ゆく街でIII”開催(中野サンプラザホール)。大間と清水に加え松尾一彦が参加、大間・清水・松尾を観客に紹介。10月24日、学園祭ライブ回り(11月23日まで)。オフコース史上最高の10校。11月5日、アルバム『SONG IS LOVE』発売。清水は「ザ・バッド・ボーイズ」としての契約がまだ残っていたためレコーディングでは演奏には不参加だが、この頃から実質的に5人のバンドとなった。11月10日、シングル・レコーディング開始(12月7日まで)。11月21日、白百合女子大学園祭公演。
1977年
2月5日、シングル『こころは気紛れ ⁄ あなたがいれば』発売。両曲とも清水仁が参加、このシングルで後の正式メンバー5人が全員揃う。4月8日、初の全国ツアー、「春のコンサート・ツアー」開始(9月28日まで:全国37か所)。4月25日、“オフコースの小さな部屋 Vol.7”–音楽の多様性その2:弦カル・トマトを迎えて。ひとつの音がいくつか集まるとどのような音楽において、どんな風に音の広がりが出てくるか– 開催(九段会館)。5月9日、シングル、アルバム・レコーディング開始(7月22日まで)。8月5日、シングル『秋の気配 ⁄ 恋人よそのままで』発売。このシングルからアーティスト表記が「オフ・コース」から「オフコース」となる。8月18日、ツアー・リハーサル開始(9月14日まで)。9月5日、アルバム『JUNKTION』発売。10月9日、「秋のコンサート・ツアー」開始(1978年2月27日まで:全国39か所)。10月23日、第7回オフコース・リサイタル“秋ゆく街でIV”開催(中野サンプラザホール、昼夜2回公演)。11月20日、シングル『ロンド ⁄ 思い出を盗んで』発売。「ロンド」は日本テレビ系ドラマ「ひまわりの家」主題歌となる。12月14日、FM東京“スカイ・ホリデー”録音(1978年1月1日オンエア)。冬、プロモート・ディスク『ANTHOLOGY』配布。
1978年
1月18日、シングル・レコーディング開始(2月22日まで)。3月10日、「春のコンサート・ツアー」開始(7月24日まで:全国41か所)。4月5日、“オフコースの小さな部屋 Vol.8”–78年度オフコース大賞– 開催(渋谷公会堂 ゲスト:財津和夫)。4月5日、シングル『やさしさにさようなら ⁄ 通りすぎた夜』発売。4月19日、アルバム・レコーディング開始(8月8日まで)。4月27日、FM東京“ニュー・ミュージック’78”出演。5月5日、ベスト・アルバムSELECTION 1973-78』発売。7月8日、“オフコース・ファミリー・コンサート”開催(神奈川県民会館小ホール)。7月20日、シングル『あなたのすべて ⁄ 海を見つめて』発売。8月22日、ツアー・リハーサル開始(8月31日まで)。9月1日、軽井沢にて、ツアー・リハーサル合宿(9月10日まで)。9月13日、全国ツアー用リハーサル(江東公会堂)。9月20日、「秋のコンサート・ツアー」開始(1979年1月31日まで:全国60か所)。この年初めて、それまで東京のみで行われてきたリサイタル“秋ゆく街で”を、リサイタル・ツアーとして全国57か所で公演する。まだ地方によっては半分も人の埋まらない会場もあった[14]。10月5日、アルバム『FAIRWAY』発売。10月20日、TBSラジオ“ニュー・ミュージック・ワールド”出演(11月28日オンエア)。10月21日、シングル・レコーディング開始(11月7日まで)。11月20日、島根県浜田市での公演後、大間が腹痛を訴え、翌日入院。次の二公演を延期し、大間が回復するまでの代役として向山テツを入れる。しかし大間はこのツアーに復帰することができなかったため、向山が13ステージ、残りの18ステージを、城間正博が受け持った[14]
1979年
1月20日、シングル『愛を止めないで ⁄ 美しい思い出に』発売。ジャケットにメンバー5人のライブ写真を使用。3月1日、河口湖サニーデ・スタジオにて、ツアー・リハーサル合宿(3月12日まで)。3月14日、シングル・レコーディング開始(4月2日まで)。3月22日、「春のコンサート・ツアー」開始(8月5日まで:全国61か所62回公演)。5月16日、アルバム・レコーディング開始(8月28日まで)。6月5日、シングル『風に吹かれて ⁄ 恋を抱きしめよう』発売。8月1日、松尾・清水・大間が、正式にバンドメンバーとなる。8月4日、「オフコース田園コロシアム」開催(8月5日まで)[† 12]。8月31日、アルバム・ジャケット撮影のため沖縄へ移動。9月3日、沖縄から羽田空港へ到着。9月13日、河口湖サニーデ・スタジオにて、ツアー・リハーサル合宿(9月22日まで)。9月24日、シングル・レコーディング開始(10月8日まで)。9月27日、河口湖サニーデ・スタジオにて、ツアー・リハーサル合宿(10月4日まで)。10月16日、「OFF COURSE CONCERT “Three and Two”」開始(1980年2月25日まで:全国51か所63回公演)。10月20日、アルバム『Three and Two』発売。ジャケットは表に新加入の清水・大間・松尾の3人、裏に小田と鈴木が、それぞれ写った。11月3日、ラジオ関東“ニュー・ミュージック一直線”出演。12月1日、シングル『さよなら ⁄ 汐風のなかで』発売。同作はオリコンシングルチャートで第2位を記録し、同年の年間ランキングで9位を記録した[16]。12月11日、FM東京“歌謡バラエティ”出演。
1980年
3月3日、シングル・レコーディング開始(4月21日まで)。3月5日、シングル『生まれ来る子供たちのために ⁄ この海に誓って』発売。4月2日、FM東京“ニューミュージック共和国”録音(4月12日オンエア)。NHK-FM“マイ・ラブリー・ポップス”録音(4月20・26日オンエア)。4月14日、ツアー・リハーサル合宿(4月19日まで)。5月1日、「OFF COURSE CONCERT LØVE」開始(6月28日まで:オフコース初の日本武道館公演を含む全国15か所21回公演)。5月5日、アルバム『LIVE』発売。5月11日、NHK教育テレビドキュメンタリー番組『若い広場』「牛尾治朗と若者たち」に小田が出演。6月21日、シングル『Yes-No ⁄ 愛の終わる時』発売。6月29日、木田高介阿部晴彦追悼コンサートに出演(日比谷野外音楽堂)。8月6日、アルバム・レコーディング開始(9月25日まで)。9月28日、トラックダウンのため、渡米。ハワイ経由で10月15日に帰国。10月21日、伊豆市別荘地「伊豆エメラルドタウン」にて、ツアー・リハーサル合宿(10月26日まで)。11月4日、ラン・スルー・リハーサル(朝霞市民会館)。11月10日、「OFF COURSE CONCERT “We are”」開始(1981年3月28日まで:日本武道館4日間公演を含む全国47か所58回公演)11月21日、アルバム『We are』発売。初めてオリコンチャートで1位を獲得する。11月25日、小田和正サウンドプロデュースシングル『夜明けのグッドバイ』(イルカ)発売(SIDE Aのみ)。11月27日、“オフコースの小さな部屋”札幌・道新ホールにて開催。1974年 (1974)の観客13人を吹っ切るために企画された公演[4][† 13]。12月1日、シングル『時に愛は ⁄ 僕等の時代』発売。12月21日、小田和正サウンド・プロデュース・アルバム『我が心の友へ』(イルカ)発売(11曲中6曲)。年末、鈴木が「オフコースを抜けて違う音楽をやってみたい」との意思を小田に伝える。
1981年
2月7-10日、日本武道館公演。最終日の10日に本格的にライブ撮影、その映像は後にフェアで使用。4月、シングル・レコーディング開始。5月25日、小田和正サウンド・プロデュース・シングル『Follow Me』(イルカ)発売(SIDE A のみ)。6月5日、鈴木康博プロデュース・シングル『君が好き』(あんべ光俊)発売。6月21日、シングル『I LOVE YOU ⁄ 夜はふたりで』発売。6月29日、伊豆合宿(7月1日まで)。7月19日、小田、文化放送“ハッピー・フォーク”出演。8月16日、アルバム制作開始。ロサンゼルスにてトラックダウン(10月30日まで)。9月1日、ベスト・アルバム『SELECTION 1978-81』発売。11月15日、アルバム制作開始(1982年6月6日まで)。11月23日、NHK教育テレビ『若い広場』に出演。12月31日、『We are』が「第23回日本レコード大賞」“ベスト・アルバム賞”を受賞[18][† 14]
1982年
1月3日、アルバム『over』の制作過程を追ったドキュメンタリーが、NHK教育テレビ『若い広場』で「オフコースの世界」と題して放送された。1月21日、 フジテレビ系『笑ってる場合ですよ!』「明石家さんまの減点マネージャー」に清水・大間・松尾と、マネージャーの富樫要が出演。1月22日、「Off course Concert 1982 “over”」開始(6月30日まで:全国28か所69回公演)。観客動員数約25万人。2月1日、シングル「言葉にできない ⁄ 君におくる歌」発売。6月10日、シングル『YES-YES-YES ⁄ メインストリートをつっ走れ』発売。6月15日、日本武道館連続10日間公演実施(6月30日まで)。コンサートへのチケット抽選応募葉書は約53万通にも及んだ[19]。その後約3年間、ライブ活動を休止する。7月1日、アルバム『I LOVE YOU』発売。7月、オフコース初のTVスペシャル『NEXT』の制作開始。9月21日、アルバム『NEXT SOUND TRACK』発売。9月29日、TBS系特別企画オフコース・スペシャル『NEXT』放映[† 15]。9月29日、フィルム・コンサート「Off Course Concert 1982.6.30」開始(1983年1月31日まで:全国240か所393回上映)。
1983年
3月、海外用デモテープ・レコーディング。8月29日、栃木県のジュンクラシックカントリークラブ(ゴルフ場)にて行われた合宿でメンバー、スタッフを含むミーティング実施。4人での再出発を決める(9月1日まで)。8月31日、鈴木、正式脱退。10月21日、アルバム用プリプロダクション開始(1984年5月4日まで)。11月3日、ベスト・アルバム『YES-YES-YES』発売。12月8日、清水の友人、リッキー&リボルバーの誘いで急遽、渋谷エッグマンで行われたジョン・レノン追悼コンサートに飛び入り出演。「Long Tall Sally」など3曲を演奏[20]、4人での最初の演奏[4]
1984年
1月7日、アルバム『The Best Year of My Life』レコーディング開始。2月14日、 フジテレビ系『笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」に明石家さんまからの紹介で小田が出演、翌15日のお友達に星野仙一を紹介する[4][† 16]。4月21日、シングル『君が、嘘を、ついた ⁄ 愛よりも』発売。これも同じくオリコンシングルチャートで第2位。このシングルより、小田・松尾・清水・大間の4人となる。6月23日に放送のフジテレビ系『オレたちひょうきん族』の「ひょうきんベストテン」に第1位で出演、「君が、嘘を、ついた」のプロモーションビデオ・プレミアム鑑賞会を行う。7月6日、「夏の日」プロモーション・フィルム制作(7月20日まで)。7月18日、シングル『夏の日 ⁄ 君の倖せを祈れない』発売。8月30日、「緑の日々」プロモーション・フィルム制作(9月24日まで)。9月21日、シングル『緑の日々 ⁄ CITY NIGHTS』発売。11月21日、シングル・レコーディング開始(1985年1月14日まで)。
1985年
1月、アメリカでのアーティスト契約への足がかりとして自身の曲を全て英訳したアルバムのレコーディングを開始(3月8日まで)。2月3日、シングル・レコーディング開始(3月8日まで)。2月21日、シングル『call ⁄ 2度目の夏』発売。3月11日、ツアー・リハーサル開始(4月24日まで)。4月、ファンクラブ向けビデオ『RUNNING THROUGH '84』発売。4月26日、「OFF COURSE CONCERT '85 “The Best Year of My Life”」開始(10月17日まで:全国42か所56回公演)。約26万人動員。5月22日、シングル『たそがれ ⁄ LAST NIGHT』発売。6月1日、松任谷由実・小田和正・財津和夫共作のシングル『今だから』発売。6月15日、国立競技場で行なわれた国際青年年記念イベント“ALL TOGETHER NOW”に出演。吉田拓郎のバックバンドを担当したほか[† 17]、小田は同イベントのテーマソング「今だから」を松任谷由実、財津和夫と共に歌った(演奏はSadistic Yuming Band)。7月13日、LIVE AID出演。「ENDLESS NIGHTS」を歌う。7月31日、シングル・レコーディング開始(8月8日まで)。8月1日、同年初頭にレコーディングされた英語詞の楽曲をまとめたアルバム『Back Streets of Tokyo』発売。9月21日、シングル『夏から夏まで ⁄ ぜんまいじかけの嘘』発売。10月15日、国立代々木競技場・第一体育館にて追加公演(17日まで)。11月30日、シングル『ENDLESS NIGHTS ⁄ EYES IN THE BACK OF MY HEART』発売。
1987年
3月4日、シングル『IT'S ALL RIGHT (ANYTHING FOR YOU) ⁄ IT'S QUITE ALL RIGHT (INSTRUMENTAL)』発売。3月5日、ツアー・リハーサル開始(4月16日まで)。月28日、アルバム『as close as possible』発売。4月17日、「OFF COURSE TOUR 1987 “as close as possible”」開始(9月6日まで:全国50か所69回公演)。前回同様、約26万人動員。5月25日、シングル『もっと近くに (as close as possible) ⁄ Tiny Pretty Girl』発売。7月5日、ベスト・アルバム『IT'S ALL RIGHT OFF COURSE SELECTION Ⅲ 1984-1987』発売(CDも初めて同時発売)。7月15日、シングル・レコーディング開始(7月17日まで)。11月5日、清水仁ソロ・プロジェクト“Project ONE”シングル『二人だけの海 ⁄ 二人だけの海 (Instrumental Version)』発売。11月25日、Project ONE アルバム『ONE NIGHT』発売。11月25日、ビデオ『OFF COURSE TOUR 1987 -as close as possible-』発売。
1988年
1月25日、シングル『君住む街へ ⁄ 君住む街へ -INSTRUMENTAL VERSION-』発売。2月16日、「君住む街へ」プロモーション・ビデオ撮影。3月5日、小田和正ソロ・シングル『僕の贈りもの ⁄ After Forever』発売。3月5日、小田和正ソロ・アルバム『BETWEEN THE WORD & THE HEART』発売。3月30日、アルバム『Still a long way to go』レコーディング開始(5月2日まで)。5月9日、ツアー・リハーサル開始(5月31日まで)。6月9日、アルバム『Still a long way to go』発売。6月9日、「OFF COURSE TOUR 1988-'89 “STILL a long way to go”」開始(1989年2月3日まで:全国83か所102回公演)。7月25日、シングル『she's so wonderful ⁄ 陽射しの中で』発売。8月5-6日、「広島ピースコンサート」出演。8月7日、「SOUND SPARK'88」(愛媛県津島町南レクグラウンド)出演。10月25日、解散前最後のシングル『夏の別れ ⁄ 逢いたい』発売。11月、ファンクラブ会員に「To Our Friends」と題して解散を告知[4]
1989年
2月1日、アルバム『君住む街へ 1984→1988』発売。2月3日、日本武道館での「STILL a long way to go」ツアー最終日、小田がステージから飛び降りる。2月26日、東京ドームにてスタッフが企画し、実現にこぎつけたスペシャル・ライブ、“The Night with Us”開催[† 18][† 19][† 20]。このラストライブをもって解散[4]した。

解散後

※以下、メンバー同士の関わりがあった事例のみを記載。

1999年
  • 3月、清水、松尾、大間が「A.B.C.」を結成。
2000年
  • 11月2日、A.B.C.『ABC VOL.1』発売。
2001年
  • 9月26日、DVD『Off Course 1969-1989Digital dictionary』発売。
2002年
2003年
  • 12月22日、A.B.C.『ABC VOL.2』発売。
2006年
  • 12月6日、ベスト・アルバム『i(ai)』発売。グループ解散後初の、全メンバー公認のオール・タイム・ベスト・アルバムであり、32bitリマスターで音質が向上した。オリコンアルバムチャート第5位を記録[25]。同チャートに5週連続でトップ10入りし、累計売上は20万枚を突破[26]
2010年
  • 10月1日、松尾一彦『せつなくて』発売。オフコース時代の楽曲「せつなくて」(Piano:小田[† 21])と「哀しき街」(Cho:清水)を収録したミニ・アルバム。
2015年
  • 12月16日、ベスト・アルバム『ever』発売。「オフコース ベストアルバム エントリー&エピソード募集」でファンが選んだ「私の一番好きな曲」「私の一番心に残る曲」を収録した、初の「ファンが選ぶベスト・アルバム」[27][28]
2016年
  • 5月11日、1979年の発売曲「愛を止めないで」が、4月からスタートしたフジテレビ系ドラマ『OUR HOUSE』の主題歌となったことを受け、カップリング曲、ジャケットデザインとも当時と同様に、紙ジャケット仕様のCDシングル盤として限定発売[29]
2019年
  • 5月29日、松尾一彦『君を待つ渚』発売。表題曲はライブ・アルバムLIVE』にのみ収録で、スタジオ録音のアルバムには未収録だったオリジナル楽曲。40年を経て初のスタジオ録音として収録したミニ・アルバム。鈴木がギターで参加[30]
2020年
  • 6月3日、『コンプリート・シングル・コレクションCD BOX』発売。デビュー50周年記念アイテムとして、東芝EMIからリリースされたシングル24作品とFUN HOUSEから発表された12作品の全36シングルを12cmの紙ジャケットにて復刻[31]
  • 10月28日、『コンプリート・アルバム・コレクションCD BOX』発売。デビュー50周年を記念してオリジナルアルバム、ライブ盤、ベスト盤、サウンドトラックなど、東芝EMI時代に発表した15タイトル、FUN HOUSE時代にリリースした5タイトルの計20作品を紙ジャケット仕様で収めたもの[32]
2022年
2025年 (2025)
  • 4月5日、『コンプリート・シングル・コレクション』発売。DISC 1からDISC 3までは東芝EMI時代の24シングル48曲、DISC4とDISC 5にはFUN HOUSEから発売された12シングル25曲を収録。DISC 5には、1988年2月 (1988-02)に発売され現在では入手困難となっている「君住む街へ (Another Version)」も収録(2020年 (2020)にリリースされた『コンプリート・シングル・コレクションCD BOX』未収録)。さらに、DISC 3のボーナス・トラックとして、1969年11月2日 (1969-11-02)に東京・東京厚生年金会館で開催された『第3回全日本ライトミュージック・コンテスト グランプリ1969』で実況録音された「Jane Jane」「One Boy」の2曲を収録。本作は、1970年4月5日 (1970-04-05)のデビュー日からちょうど55年目のリリースとなる[34]
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ディスコグラフィ

要約
視点

シングル

1st〜2ndは「ジ・オフ・コース」、3rd〜10thは「オフ・コース」名義。

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アルバム

1st〜5thアルバムは「オフ・コース」名義。

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非公認ベスト・アルバム

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映像作品

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その他のアルバム

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非監修ライブ・アルバム

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BOXセット

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関連作品

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コンサート

要約
視点

ツアー

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解散公演

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書籍

  • FAIRWAY フォト&楽譜集(ペップ出版 1978年10月15日発行)
  • OFF COURSE Three and Two(八曜社 1979年10月30日発行 )

写真集

関連書籍

  • 『Off Course—Now The Time』GB-SPECIAL CBS・ソニー出版 (1982年7月15日発行 雑誌62935-16)
  • 『スナップ・ショット—オフコースその夏まで』 藤沢映子 著 CBS・ソニー出版 (1982年7月25日発行 ISBN 4-7897-0046-1
  • 『Give up オフコース・ストーリー』 山際淳司飛鳥新社 (1982年8月1日発行 全国書誌番号:83035915
  • 『オフコースの道 はじめの一歩』 オフコース・ファミリー 著 サンリオ (1983年8月15日発行 全国書誌番号:84007237
  • 『Give up オフコース・ストーリー(文庫版)』 山際淳司 著 角川文庫 (1983年6月25日発行 ISBN 4-04-154001-1
  • 『INNER DOCUMENT OFF COURSE』 藤沢映子 著 旺文社 (1984年4月14日 ISBN 4-01-009811-2
  • 『Maybe The Best Year of My Life』 オフコース詩集 新潮文庫 (1985年12月20日 ISBN 4-10-143901-X
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楽曲提供

  • アーティスト名は50音順、曲名は発売順に列記。作品はグループ在籍期間に限定。松尾一彦は松尾一彦#楽曲提供を参照。

小田和正

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鈴木康博

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参加作品

要約
視点

発売順に列記。作品はグループ在籍期間に限定。

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CMソング

CMのために制作された作品のみ列記。

エピソード

  • “オフコース (OFF COURSE)”という名前はコンサートのためにいつも中心となって動く聖光野球部OBが作った草野球チームの名前が“勝ってof course”、“of course 勝つ”という意味で“OF COURSE”だったことから。コンサートを始めてなにか名前をつけるということで“調子っ外れ”とひっかけて“OFF COURSE (THE OFF? COURSE)”にしたという[7]
  • さよなら」、「Yes-No」、「YES-YES-YES」、「君が、嘘を、ついた」などのヒットで当時、TBSの人気番組『ザ・ベストテン』に何度となくランクインしたが、この番組を含むすべての音楽番組には出演しなかったためが、「YES-YES-YES」では一度、レコーディング・スタジオから中継で小田が単独でコメントを出したことがある。
  • オリコンシングルチャートでは『さよなら』、『君が、嘘を、ついた』が最高2位止まり、アルバムチャートでは『We are』と『over』が1位になっている。なお、小田が作った曲のシングルチャート1位は、ソロのシンガーソングライターとしてデビュー後、『ラブ・ストーリーは突然に』で達成した。
  • 八曜社刊『Three and Two』でのインタビュー[要文献特定詳細情報]で小田は「去年初めて『銀河鉄道999』の(映画)音楽をやらないかって話があってね、さんざん考えた末、やろうっていう気になったら映画会社とかレコード会社の問題とか、いろいろいきさつがあって、結局ゴダイゴということになっちゃって」と、実現しなかったいきさつを語っている。
  • ’80年11月に開催されたコンサート・ツアー“We are”は、日本武道館での4日間公演も含め、メンバーとスタッフが一丸となって力を発揮した。最終地である仙台公演のラスト、「愛を止めないで」のエンディングにさしかかった瞬間、舞台の袖から沢山のカーネーションがスタッフの手によって演奏中のメンバーに向かって投げられた。後に小田は「僕たちの制作するものの中で特に、レコーディングとステージに関しては何がどうなっているか知らぬ部分はない。だから、僕らの想像を超えて何かが創造されるということは全く考えたことがなかった。しかしそれは起こった。他人が聞けば他愛のないシャレに過ぎないかも知れないが、それが僕にとっては今度のアルバム・レコーディング、そしてこのコンサート・ツアーのすべてが覆されるほどの衝撃だった。だから僕は『ヤラレタ…』と思ったのだった。そして、あんなことが起こったのが心から嬉しかった」[37] と語っている。ベスト・アルバムSELECTION 1978-81』の中袋に掲載されている下段の写真は、その時の様子を捉えたもの。
  • I LOVE YOU」のエンディングのコーラスは当初、少年合唱団によるテイクを予定していたが、結果的にはレコーディングスタジオ近くの公園にいた子供たちやその親を迎え、さらにそこにメンバーやスタッフも加わってレコーディングしたテイクに変更された。また、この曲はアルバムI LOVE YOU』収録の際、ビル・シュネーの友人がジョン・レノン死亡の新聞記事をニュース調に読み上げたナレーションが間奏部に挿入された[38]
  • YES-YES-YES」に女性の声(ねぇ、私のこと好き?)が入っていると、テレビのオカルト番組で取り上げられることがあるが、この声の主はレコーディングのとき、同じ録音スタジオを使っていた“レモン・トリー”という男女デュオの女性である合沢尚子で、意図的に収録されていることが当時の音楽雑誌『ギターブックGB』(ソニー・マガジンズ)の記事[要文献特定詳細情報]に掲載されている。
  • 1982年の日本武道館10日間公演中の6月23日、ツアーの追加公演という形で横浜スタジアムでのコンサートが8月に計画されたが、7月5日に鈴木からの「区切りをつけたい」との申し入れにより中止となった。横浜スタジアム公演は後に小田がソロとして1992年8月29日、 30日の“MY HOME TOWN”で実現させている。
  • 僕等の時代」は1987年から1991年まで、名古屋テレビオープニングBGMとして使われた。
  • シングルのA面はほとんどが小田の曲だが、最初から小田の作品がA面と決められていたわけではなく、メンバー(ほとんどは小田か鈴木)が曲を持ち寄り、コンペティションを行った結果だった。このことは小田が『たしかなこと』[39] で、鈴木が自身のホームページ[要文献特定詳細情報]でのファンからの質問への回答で、それぞれ異口同音に語っている。結果として小田の曲が多くA面に採用されたことについて、小田は「ヤス(鈴木)に対して申し訳ないと思っていた」、鈴木は「そういう結果だから仕方ないと思っていた」と語っている。
  • 全米デビューへの足がかりの一環として『Back Streets of Tokyo』が制作された1985年以前に、全米デビューを打診されていたことがある。松尾によれば、『We are』と『over』を聴いてオフコースを気に入ったBS&Tの元メンバーで当時キャピトル・レコードのプロデューサーだったBobby Colombyから「きかせて」と「せつなくて」で是非アメリカ・デビューを、との話をもらったという。すぐに英詞の仮歌によるデモテープが制作されたものの、直後に鈴木の離籍とグループの解散問題が浮上したため、それきりになったという[40]
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脚注

関連項目

外部リンク

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