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飯塚佳寛
日本のプロ野球選手、コーチ (1945-) ウィキペディアから
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飯塚 佳寛(いいづか よしひろ、1945年1月26日 - )は、栃木県宇都宮市[1]出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。
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来歴・人物
宇都宮学園では2年次の1962年、夏の甲子園栃木大会で準決勝に進出するが、同年に本大会春夏連覇を成し遂げる作新学院に大敗。卒業後は1964年に鷺宮製作所へ入社し、1968年の都市対抗に電電東京の補強選手として出場。2回戦で河合楽器に延長10回サヨナラ負けを喫するが、適時打を放つなど活躍[2]。
同年のドラフト14位で東京オリオンズに入団し、1年目の1969年から控え遊撃手として一軍で起用される。1971年には別当薫監督に誘われ、池田重喜・淵上澄雄との交換トレードで平岡一郎と共に大洋ホエールズへ移籍。同年は米田慶三郎・松岡功祐と遊撃手の定位置を争い、新人の野口善男との「フレッシュ三遊間」で話題を集める。6月24日の巨人戦(後楽園)では6回裏に代走で二塁走者に入り、次打者の中前打で三塁を回り本塁に生還するが、三塁手の長嶋茂雄が「飯塚がサードベースを踏んでいない」とアピール。これが認められたためアウトとなったが、翌25日の一部新聞紙上では、この長嶋のアピールプレーを「さすが経験者」と褒め称えた[3]。1972年は非力が祟って二軍暮らしを余儀なくされたが、25盗塁を記録してイースタン・リーグ盗塁王を獲得[1]。同年オフに広島東洋カープへ無償トレードで移籍するが、1973年の開幕直前に横山小次郎との交換トレードでロッテに復帰[1]。当時のロッテは遊撃手が固定されていなかったため、復帰後は千田啓介・甲斐和雄らと併用されるが、1974年にはレギュラーに定着。4年ぶりのリーグ優勝に貢献[1]し、同年の中日との日本シリーズでも全6戦に出場して3試合には2番打者として起用されるが、10打数1安打と真価を発揮できなかった。1977年には規定打席未到達ながら340打数で打率.306という成績も残した[1]が、1979年には水上善雄に遊撃手のポジションを譲って二塁手に回り、1980年限りで現役を引退。
引退後はロッテで二軍守備・走塁コーチ(1981年 - 1986年)→スカウト[1](1987年 - 1994年, 1997年 - 2004年)を歴任。1994年、地元の有望選手である日産自動車の北川哲也投手の逆指名での獲得を目指し、ほぼ入団が決定していたが、北川は急遽ヤクルトスワローズを逆指名し、そのことが当時GMを務めていた広岡達朗の逆鱗に触れ、まもなく解雇される。当時のマスコミには広岡流のチーム改革の例として取り上げられたが、広岡GM退任後に復帰、里崎智也・成瀬善久・内竜也らを発掘した。
2005年に東北楽天ゴールデンイーグルスが発足すると同球団スカウトとして迎えられ、2006年シーズン終了後に退団。
現在は、古巣・ロッテにおいて小学生向けの「バッティング塾」の講師。
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詳細情報
年度別打撃成績
記録
- 1000試合出場:1979年10月12日 ※史上213人目
背番号
- 28 (1969年 - 1970年、1972年)
- 4 (1971年)
- 32 (1973年 - 同年途中)
- 13 (1973年途中 - 1980年)
- 80 (1981年 - 1986年)
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関連項目
脚注
外部リンク
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