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米田慶三郎
日本のプロ野球選手 (1943-) ウィキペディアから
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米田 慶三郎(よねだ けいざぶろう、1943年1月13日 - )は、大阪府大阪市阿倍野区出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。
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来歴・人物
桃山学院高卒業後の1962年からPL教団でプレーし、土井垣武コーチの指導を受ける。当時のチームメイトには野田征稔がいたが、同年の都市対抗近畿予選敗退の後にチームが休部。1964年には電気化学工業へ移籍し、久保山誠監督の指導を受け、1967年の都市対抗野球に出場。
1967年のドラフト3位で大洋ホエールズに入団。1年目の1968年は二軍で藤井勇監督の指導を受け、イースタン・リーグで本塁打王と打点王の二冠を獲得。開幕早々から長打力に一目置かれ、開幕後は不動の4番打者となり、3月30日の開幕戦の東京戦で西三雄から放った左翼席への第1号を皮切りに、4月1日にも西から9回二死後に初球を左中間へ豪快なサヨナラ本塁打にした。さらに同14日の巨人戦でも好調の菅原勝矢から左翼席へ3号目を奪うハイペースであった。
2年目の1969年には一軍に定着し、松岡功祐と併用されるが、3年目の1970年には自己最多の7本塁打を放つ。松岡と激しいポジション争いを繰り広げ、1972年にはレギュラーの座を獲得し85試合に先発出場。
1974年まで定位置を守るが、同年に打撃を売りに鳴り物入りで入団した山下大輔の成長と共に、米田の出場機会も減少。広い守備範囲、抜群の強肩のほか、得意の流し打ちで繋ぎ役に徹したが、1979年限りで現役を引退。
引退後は大洋→横浜で二軍守備コーチ(1980年 - 1982年, 1984年)、二軍守備・走塁コーチ(1983年, 1985年 - 1989年)、一軍守備・走塁コーチ(1990年 - 1992年)、二軍監督(1993年 - 1996年)、フロント(1997年 - 2000年)を歴任。
フロント時代から横浜市青葉区の少年野球チーム「青葉緑東リトルシニア」でコーチを務め、高井雄平を指導[1]。
退団後はシニアの指導に専念し、現役時代のチームメイトでコーチとしても同僚であった辻恭彦と共に少年野球教室をやったこともあった[2]。
2005年2月からはSOLA沖縄専門学校監督[3]、2008年から2010年には東北楽天ゴールデンイーグルス二軍育成コーチ(野手担当)を務め、現在は「青葉緑東リトルシニア」コーチに復帰[4] [5]。
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エピソード
詳細情報
年度別打撃成績
背番号
- 34 (1968年 - 1979年)
- 74 (1980年 - 1996年、2008年 - 2010年)
脚注
関連項目
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