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1976年のF1世界選手権
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1976年のF1世界選手権(1976ねんのエフワンせかいせんしゅけん)は、FIAフォーミュラ1世界選手権の第27回大会である。1976年1月25日にブラジルで開幕し、10月24日に日本で開催される最終戦まで、全16戦で争われた。
1976年のFIAフォーミュラ1 世界選手権 |
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前年: | 1975 | 翌年: | 1977 |
一覧: 開催国 | 開催レース |

概要

1975年に自身初のワールドチャンピオンに輝いたニキ・ラウダ(フェラーリ)は2連覇を目指して新車312T2と共に選手権ランキングトップを確保していた。しかし、ドイツGPでの大クラッシュと大やけどにより、シーズン欠場を強いられた。この状況で一躍タイトル争いに迫ったのはマクラーレンのジェームス・ハントであった。ラウダも2戦欠場の後に復帰。しかし、完全に怪我が治癒しておらず、最終戦のF1世界選手権イン・ジャパン(日本GP)でハントに逆転され、タイトルを奪われた。
この年の最終戦に組み込まれていた「F1世界選手権イン・ジャパン」は初開催で富士スピードウェイで行われた。この最終戦でロータスは、マリオ・アンドレッティの手によって1974年以来3年ぶりの勝利を手にした。
ティレルからはF1で実戦に登場した唯一の6輪車であるティレル・P34がデビュー。スウェーデンGPで1-2フィニッシュをかざり、チームのコンストラクターズランキング3位獲得に貢献。
また、レギュレーション面では、大型化の道を進んでいたインダクションポッドの高さに制限が加えられた。これはヨーロッパラウンドの開幕である第4戦スペインGPから施行されたので、このレースを境にマシンの全体が大きく変わっている。この規定変更のときに新型マシンを投入する(フェラーリ、ティレルなど)チームもあった。このほかにもリヤタイヤ幅に制限が加えられた。
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開催地及び勝者
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エントリーリスト
エントラント名変更
- マーチのNo.10は、第2戦以降「マーチ・エンジニアリング」。
- シャドウは、第10戦以降は「シャドウ・レーシング・ウィズ・タバティップ」。
- ブラバムのNo.33は、第9戦は「RAMレーシング・ウィズ・ラヴァッツァ」。
ドライバー変更
- ロータスのNo.5は、第2,3戦はエバンスが、第4,5戦と第7戦以降はアンドレッティがドライブ。第6戦は欠場。
- ロータスのNo.6は、第2戦以降はニルソンがドライブ。
- ブラバムのNo.7は、第13戦はシュトメレンが、第14戦以降はパーキンスがドライブ。
- マーチのNo.10は、第2戦以降はピーターソンがドライブ。
- サーティースのNo.18は、第16戦は高原がドライブ。
- ウィリアムズのNo.20は、第7戦は欠場で、第10戦以降はメルツァリオがドライブ。
- ウィリアムズのNo.21は、第2-8戦はルクレールが、第9-13戦は欠場で、第14戦はエイモンが、第15戦はブラウンが、第16戦は桑島とビンダーがドライブ。
- ブラバムのNo.33は、第8戦はマギーが、第9,10戦はロンバルディがドライブ
エンジン変更
- なし
タイヤ変更
- ティレルのNo.52は、ブリヂストンを装着。No.3,4はグッドイヤーの継続。
スポット参戦
- ティレルのNo.15は、第3戦のみ出走。
- パーネリのNo.27は、第2,3戦のみ出走。
- コパスカーのNo.31は、第1,2戦のみ出走。
- ブラバムのNo.32,33は、第4,5,6,7,9,10戦のみ出走。
- マーチのNo.35は、第1-9戦まで出走。
- フェラーリのNo.35は、第13戦のみ出走。
- ティレルのNo.39は、第13-15戦のみ出走。
- ティレルのNo.40は、第10-13戦のみ出走。
- コジマのNo.51は、第16戦のみ出走。
- ティレルのNo.52は、第16戦のみ出走。
- マキのNo.54は、第16戦のみ出走。
- ブラバムのNo.77は、第10戦のみ出走。
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1976年のドライバーズランキング
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1976年のコンストラクターズランキング
- 太字はカウントされたポイント
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ノンタイトル戦結果
注
外部リンク
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