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ジャン=ピエール・ジャリエ

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ジャン=ピエール・ジャリエ
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ジャン=ピエール・ジャック・ポール・ジャリエJean-Pierre Jacques Paul Jarier, 1946年7月10日 - )は、フランス人の元レーシング・ドライバー。1973年のヨーロッパF2選手権チャンピオン。その名をもじった「ジャンパー(Jumper)・ジャリエ」の異名で呼ばれた[1]F1世界選手権におけるリーダーラップ:79周・PP:3回は、それぞれ未勝利ドライバーにおける3位・2位タイの数値である。

概要 ジャン=ピエール・ジャリエ, 基本情報 ...
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経歴

要約
視点

パリ郊外シャラントン出身。ホテル経営者の息子として生まれる[2]。小型のオートバイに乗ってレースを始めたが、その後四輪に転向。家族を説得し、レースに出るためにルノー・ゴルディーニを買ってもらうことに成功する。

フォーミュラ・ルノーに出るとすぐに結果を出し、シェル石油から注目されサポートドライバーとなる。1970年にフランスF3にステップアップ、ランク3位となった。翌1971年よりヨーロッパF2選手権に参戦、3年目の1973年に7勝を挙げチャンピオンを獲得した。

F1

1971年、シェルがF2で好結果を残したジャリエのために第9戦イタリアGPでマーチからスポット参戦させる準備を整え、F1デビューを果たす。ブレーキに問題を抱えたマーチで十分な走りが出来ず、周回不足でリタイヤ扱いのデビューとなった。1973年より本格参戦するが、参戦した10戦中リタイヤ8回・周回不足2回の完走なしに終わった。

シャドウ時代

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1975年レース・オブ・チャンピオンズでのジャリエ

1974年よりシャドウに移籍。序盤は予選で下位に沈んだが、第6戦モナコGPでは予選6位を獲得し、決勝でも3位表彰台を記録(初完走)。続く第7戦スウェーデンGPでも予選8位から5位入賞を果たした。その後は予選で上位に食い込むことも多くなっていったが、この年の入賞は上記の2回のみに終わり、完走も半数以下の7回だった。

1975年には、開幕戦アルゼンチンGP・第2戦ブラジルGPでPPを獲得。上位とは言い難いマシンでの連続PPにより注目を集めたが、アルゼンチンGPでは決勝前のトラブルによりスタート出来なかった。ブラジルGPでもリタイヤに終わり(ただし、初FLを記録)、その後は予選では上位に食い込むことがあったものの、入賞は第4戦スペインGPでの4位のみだった(完走は3回)。

1976年も残留し、開幕戦ブラジルGPでは予選3位からFLを獲得(結果はリタイヤ)。しかしその後も結果を残せず、予選でもこれまでの2年は上回ったトム・プライスに4勝12敗に終わった。

シャドウ後

1977年1978年も、良いとは言い難いマシンで時折好走を見せるも、結果には結びつかないケースが続いていた。そんな中1978年の終盤2戦には、事故死したロニー・ピーターソンの代役として、この年圧倒的な強さを見せていたロータスから参戦。第15戦アメリカ東GPではFL、最終戦カナダGPではPPを獲得し、才能の片鱗を再びうかがわせた。特にカナダGPではスタートから終始トップを走行したが、残り20周余りでトラブルによりリタイヤに終わった。

1979年1980年は低迷期のティレルから参戦するも、1979年は3位表彰台2回を含め入賞6回。1980年は入賞3回と、低迷期なりには実績を残した。また1981年は後半よりオゼッラで参戦、下位チーム故チームメイトや前任が予選落ちを繰り返す中、ジャリエは全戦で予選を通過。1982年も予選落ちは2度のみだった。しかし結果は出せず、出走が14台のみだった第4戦サンマリノGPでの4位が、オゼッラでの唯一の入賞となった。

1983年は1981年序盤にも在籍したリジェから参戦するが、低迷期で入賞は記録できなかった。次第に速さの陰りも囁かれるようになり、この年をもってF1からは去っていった。

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スポーツカーに参戦するジャリエ(写真は1974年)

スポーツカーレース

元々1974年には世界メーカー選手権ジャン=ピエール・ベルトワーズジャッキー・イクスマトラで組み5勝を記録するなど、スポーツカーレースでも成績を残している。1977年にはル・マン24時間レースにて、バーン・シュパンとのコンビで2位を獲得した。

F1離脱後は本格的にスポーツカーレースに転向し、1993年にはウーヴェ・アルツェンクリスチャン・フィッティパルディスパ24時間レースを制した。フランスGT選手権英語版では、1998年・1999年の2年連続でチャンピオンに輝いている。

パワーボート

1987年から1988年にかけてはクラス1オフショアパワーボート世界選手権にも出場。その際彼が所属していたチーム「リーダー・ミディアル・エルフ」、そして彼の乗るランボルギーニ製V12エンジンが二基搭載されたモーターボート「コリブリ」はジャリエのかつての同僚及び同郷の友人である、1987年のニードルズ・トロフィーで事故死したディディエ・ピローニから引き継がれたものであった。

引退後

ジャリエは事業で各地を回る多忙な身となっていたが、1995年に移動のため乗っていたヘリコプターが墜落する事故に遭った。事故に気付いた墜落現場近くの住民が恐る恐るヘリの残骸に近づくと、スーツケースを両手に持ったジャリエが煙の中から現れ「頭が痛いので病院に連れて行ってほしい」と言うので、その住民が持っていたスクールバスにジャリエを乗せて病院に向かった。ジャリエを救出したその人物は「元F1レーサー」だとは全く知らずに病院へと急いで運転したが、ジャリエは「もっとスピードを出してくれ」と言ったという。病院ではジャリエは頭を何針か縫う傷を負っていたが、「急いでいるんだ」とそのまま空港へ向かい、別の飛行機に乗って目的地へと去って行った。マルマンドの地元新聞がこの墜落事故を記事にしたので「助けた男」が元F1レーサーだと知ったスクールバスの運転手は「彼がレーサーだと知っていたら、このバスではF1カーのようなスピードは出せないんだよと言ってやっただろう (笑)」と取材記者に話した[1]

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レース戦績

ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権

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F1

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ル・マン24時間レース

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脚注

関連項目

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