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インドネシアの女性タレント、インドネシア大統領・スカルノ第3夫人 (1940-) ウィキペディアから
デヴィ・スカルノ(Dewi Sukarno、1940年〈昭和15年〉2月6日 - )は、日本生まれでインドネシア国籍のタレント。インドネシアのスカルノ元大統領の第3夫人[2]。NPO法人アースエイドソサエティ総裁。株式会社デヴィーナ・ソサエティ代表取締役。2019年7月からはYouTuberとしても活動している。本名及びインドネシア名はラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ(Ratna Sari Dewi Sukarno)。旧名及び日本名は根本 七保子(ねもと なおこ)[2]。通称はデヴィ夫人。
スカルノ大統領との間に生まれた一人娘のカリナは、2005年(平成17年)11月26日にオランダで米系大手金融機関シティバンクの欧州・中近東・アフリカ地区CEOフレデリック・シーガスと結婚している[3]。
東京府東京市麻布区霞町(現在の東京都港区西麻布)に父・兵七郎と母・政子(福島県双葉郡浪江町出身)の間に生まれる。父は麻布区霞町界隈の大工の棟梁であり、弟が1人いた(八曾男)。太平洋戦争中は、母・弟の3人で浪江に疎開していた[4]。家庭は裕福ではなかった[5]。
1955年(昭和30年)、15歳の時、新東宝制作の映画『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』(白黒映画)にエキストラ出演[要出典]。
地元の高陵中学校卒業後[6]、東京都立三田高等学校定時制課程に進学すると同時に、150倍の難関を突破して千代田生命保険(現・ジブラルタ生命保険)に入社したが、昼休みや休日にも貧しい家計を維持するため、喫茶店などでのアルバイトを掛け持ちする日々を送った[7]。
1956年に父が亡くなった事に伴い高校を中退した後、赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」で働く[8]。
1959年(昭和34年)、19歳のとき、人口2億6400万人の大国であり世界最大イスラム教国家でもあるインドネシアへの開発援助に伴い、東日貿易の秘書という名目で、インドネシア建国の父であるスカルノ初代大統領のもとに送り込まれた[2]。この件に当時「昭和のフィクサー」と呼ばれた児玉誉士夫が関わっていたという説がある[9]。
独立後間もない上に、東西冷戦下にあったインドネシアにおいて、当時スカルノ大統領は日本外交や資金援助の取り付け等を非常に重要視していた。インドネシアに渡って数年は愛人の1人であったが、1962年(昭和37年)にスカルノと正式に結婚、4人の夫人のうちの第3夫人になる[10]。
しかし、同時期にマスコミの執拗な取材により体調を崩していた母が亡くなった。更にその2日後、セールスマンに全財産を騙し取られたうえ、母の死に目に逢えなかった実弟の八曾男が自宅アパートでガス自殺し[11]、それを伝え聞いた彼女は「何時までも心を離れない悲しいトラウマになっている」と告白し、後にスハルト大統領から贈られた5.6ヘクタールの家に実弟の名から「Wisma Yasoo」と命名した。この家はのちに接収され、サトリアマンダラ博物館になっている[12][要出典]。
3年後の1965年(昭和40年)9月30日に起きた軍事クーデター、いわゆる9月30日事件でスカルノが失脚、代わってスハルトが大統領となった。スカルノは軟禁状態におかれ[13]、デヴィはインドネシアの日本大使館に亡命を希望したが、国際的立場上の理由で断念。スカルノの第2夫人を除く夫人は皆、大統領のもとを離れ逃げ切った[要出典]。
1967年(昭和42年)3月11日、都内病院にて娘のカリナを出産する。正式名は「Kartika Sari Dewi Soekarno. Kartika Sari」。スカルノ大統領の8番目の子供であった。デヴィは政治的に亡命者に寛容なフランスを亡命先に選ぶ[14]。スカルノ元大統領存命中にもかかわらず数回の婚約発表が取りざたされたが、結局再婚はしなかった[要出典]。1969年には、日本の俳優・津川雅彦との不倫騒動がマスコミを賑わせた。
スカルノ大統領はクーデターを予期し、以前よりインドネシアからスイスへ巨額の資金を確保していたとささやかれるものの、1970年(昭和45年)のスカルノ死去時にスカルノ家、ならびにインドネシア政府から財産の相続の権利や子供のスカルノ一族としての地位などを喪失し、第3夫人としての資産は与えられなかったとも、実際には死去時に遺産が与えられたとも言われている。いずれにしてもその後のインドネシア政府の方針により、第3夫人としての遺産分与が行われた[要出典]。
スペイン人のフランシスコ・パエサとつきあうが別れる[15]。そしてフランスの貴族、エルゼアル・ド・サブラン=ポントヴェス(サブラン公爵)[注釈 1]と婚約したが破局した[16]。
世界的セレブの一人として、日本で芸能人(タレント)としても活躍した。芸能活動は1970年代から開始した。1974年、小学館の1970年代・1980年代の日本を代表する人気グラビア系男性向け芸能情報雑誌『GORO』の創刊記念号で、写真家・デイヴィッド・ハミルトンの撮影によるヌード写真を披露した。
「社交界の華」とも呼ばれたその容姿で多くの要人らと関係をもった。1980年(昭和55年)にはインドネシアへ戻り、石油関連事業を興した[要出典]。しかし、実際にはスカルノ体制崩壊とその後のスハルト政権成立により、元大統領夫人としての外交的立場を失っていたとのこと。また、日本政府や日本の企業財閥側も、クーデターで失脚したスカルノ夫人を擁護することはなかったとされる[要出典]。
1991年(平成3年)、アメリカのニューヨークへ移住した。以後インドネシアでの第一線から退き、その後のインドネシアでの政変や第1夫人・第2夫人を中心とした政治の動乱には巻き込まれることなく、日本に帰国し現在に至っている。
世界的社交界の花として各国のセレブ達と交際していた1992年(平成4年)1月2日、アメリカ合衆国のスキー・リゾート地、コロラド州アスペンで、セルヒオ・オスメニャ第4代フィリピン大統領の孫娘であるミニー・オスメニャ(Minnie Osmena)らと会話をしていた際、自分がミニーに侮辱されたと思って激怒したデヴィは、手に持っていたシャンパンが注がれていたシャンパングラスでミニーの顔面を殴打し、ミニーの“顔に37針を縫う大ケガ”を負わせ、傷害罪で逮捕され、禁固60日・罰金700ドルの実刑判決が出て、34日間刑務所に収監された[2]。犯行の動機は、数ヶ月前スペインのイビサ島で開催されたVIPパーティで、ミニーが「フィリピンの副大統領になる意志がある」と発表し、それを聞いたデヴィが吹き出して嘲笑したことで2人の関係が悪化したことだった。のちにデヴィは「刑務所での生活は学生寮のようで楽しかった」と語った[2]。
デヴィは元夫スカルノを通じて北朝鮮と親交があった。2009年4月5日に北朝鮮の金正日がミサイルの発射実験を行い、日本のマスコミが北朝鮮のミサイル発射実験を連日大々的に報じた際、デヴィがテレビのワイドショーにてインタビューを受け「人工衛星なのに日本は騒ぎ過ぎている」と一言コメントした。ところが、これを見た右翼団体が激怒して、4月19日の夜9時半に都内港区の高級住宅地にあるデヴィの自宅前まで街宣車で乗り付けて、大音響スピーカーによる抗議行動を行った。これに激怒したデヴィは自宅2階のベランダから植え木鉢2つを街宣車に投げつけ、右翼団体側によると街宣車のミラーが壊れた。その直後にデヴィは1階まで降りて自宅の外にいる右翼団体の男達の所へ駆けつけ、激しい口論となった。このとき、デヴィの自宅近くにある麻生太郎の自宅の常駐警備をしていた警察官が警察車両で現場に駆けつける騒ぎとなった。結局右翼団体の街宣車は引き下がり、その後デヴィへの被害届けを警察に提出したり裁判所への訴訟を起こすこともなかった。翌4月20日、デヴィは自宅前で記者会見を行い、「投げた植え木鉢は2つです。大音響で恐怖のあまり投げつけたもので、街宣車には当たっていません。右翼の男性と話をしようとしたら私の方が逆に警官にねじ伏せられた」と警察への不満を示した。
自身の思想については、その多くが自身のウェブサイト内「デヴィ スカルノの独り言」に記されている[17]。
太平洋戦争(大東亜戦争)を肯定する立場ではないが、当時の世情として資源の乏しい日本が対外進出を行うのは当然であり、A級戦犯についても私利私欲で戦争を行ったのではない、としている[要出典]。日本人は一度の敗戦で精神が打ちのめされ、戦争の罪悪感から抜けきれず、日本人としての尊厳を失っていることが残念であるとしている[要出典]。戦争そのものはキリストの降誕以前から2009年(平成21年)を迎えようとしている現在においても繰り返され、人類の歴史そのものであるから、たった一度の敗戦で精神を失うことはない、としている[要出典]。
靖国神社問題における戦死者・戦没者慰霊の問題については、夫のスカルノ大統領も靖国神社に参拝しており、祖国と家族のために亡くなった人を慰霊するのは当然であるとしている[要出典]。A級戦犯の問題についても、A級戦犯は東京裁判で処刑され、罪があるとしてもそれを既に償っているとして、慰霊に賛成の立場を取っている[要出典]。日本の全学生は、一度は遊就館に訪れ、自身が日本人であることを自覚し、世界の中で日本がどうあるべきか認識してほしい、と述べている[要出典]。また、小泉純一郎については、不戦の誓いのもとに靖国神社参拝を行っており、戦後最も傑出した政治家であるとしている[要出典]。
憲法改正論議については、憲法は時代ごとの必要性で改正すべきであるとしている[要出典]。毎年4兆円をアメリカ合衆国の軍事基地維持費として支払うよりも、アメリカ軍からノウハウを受け継ぎ、日本も防衛軍を作って自国を守るべきであるとしている[要出典]。
インドネシアの大統領だったスカルノの第3夫人にあたる。インドネシア語(マレー語)・仏語・英語に堪能である。
「デヴィ夫人」の芸名で、日本のワイドショーやバラエティ番組に出演している。
口内ケアが完璧で2022年で82歳だが虫歯が全くなく全て自分の歯である[19]。
甘い物は苦手であるが、ウエハースは好きだという[20]。
サザエさんの漫画内にデヴィの名前を取り上げられた事があり、その原稿を自宅に飾っている[21]。
六本木で展開していたディスコ店「マハラジャ」の命名者でもある[22]。
日本国外においても自身が会長を務めるイブラ音楽財団などを通じて社交活動を行う。
芸能活動以外では、ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ名義でNPO法人アース エイド ソサエティ(EARTH AID SOCIETY)を2005年に設立し、毎年秋に「ザ グランド インペリアル チャリティ バンケット」を開催、その収益金で寄付や寄贈を行っている。NPO設立以前からパーティを催すことがライフワークで、「ビザンチン皇室慈善舞踏晩餐会」には芸能人や在京の各国大使などが出席する。2005年(平成17年)には小池百合子環境大臣が主賓として招かれた[23]。
NPO公式サイト[24]によると、自身の手で現地に運んで寄贈したものは
寄付は
が列挙されている。
北朝鮮とは夫のスカルノを通して親交があり、スカルノが新種の蘭をボゴールにある世界最大の熱帯植物園で金日成花と名付けた関係で、デヴィは金日成花・金正日花普及後援会の名誉会長をしている[25]。命名式にはスカルノと共に北朝鮮で行われた式典に同席している。この事もあり[要出典]北朝鮮擁護の立場を取っている。朝鮮総連主催の式典にも出席を重ねている[26][27]。北朝鮮による日本人拉致事件[28]や人工衛星のテスト問題[要出典]で北朝鮮を擁護する立場からの発言をおこなっているほか、日本と北朝鮮の国交正常化実現を訴えており[27]、朝鮮総連の中央機関紙である「朝鮮新報」から、同国に対するその姿勢を高く評価されている[要出典]。
2005年10月31日には、民間の海外支援団体「グローバルレインボーシップ(GRS)」が北朝鮮に対して支援した120トンの米のうち60トンを提供した[29]。2013年3月31日に開催された、朝鮮学校への高校無償化の適用と自治体による補助金支給を要求する集会「朝鮮学校はずしにNO! すべての子どもたちに学ぶ権利を! 3.31全国集会&パレード」では、在日朝鮮人への無償化適用は当然のことであるとし、在日朝鮮人に対する安倍政権の弾圧や排外主義に対して疑問と義憤の念で溢れていると述べた[30]。
自身のブログでは、「拉致」は許されないことであり、肯定したことは無いと述べている[28]。またブログには北朝鮮とデヴィに関する悪口雑言なコメントが寄せられているが、そういったコメントをする人達はブログをきちんと読んでおらず、心外だとも述べた[31]。一方、その後2012年には、日本は過去に罪を犯したのだから拉致事件に何か言える立場ではないと主張している[32]。
また、「金日成・金正日主義研究」という雑誌によく寄稿している[33]。
2011年12月16日、内柴事件に関連して、自身のブログで「18、19歳は立派な大人であり、女子部員は、酒を飲まされていたとしても自分で断れたはず」「断らなかったのは、内柴容疑者に気があったとみるのが普通であり、内柴容疑者も、その気にさせるふりなどから、この部員に気があるかどうかは分かっていたはず」だと主張した。また「内柴容疑者は、英雄、有名人で男前」でもあり、「女生徒は強い男性にあこがれを持つもの」なので「女子部員は、そんな男性に目をかけられて心地よい思いをしていたはずだとし、後でそっけない態度をされ、ふられた腹いせに被害を訴えた可能性も考えられる」と指摘した[35]。この記事に対しては特に目立った非難や抗議はなかった為、記事は削除も訂正もされず現存している。
2012年7月10日、大津いじめ自殺事件に関連して、加害者及びその関係者と思わしき人物らの実名や顔写真とともに女性の写真を公開した上で自身のブログで強く批判した。しかし後に人違いと判明。翌日この写真などは削除されたが、デヴィが謝罪の態度を示さなかったことから、女性はデヴィを相手に1100万円の損害賠償などを求める訴訟を神戸地方裁判所に起こした。2014年2月17日、神戸地方裁判所はデヴィの行為を「非常に軽率な行為」とし、165万円の支払いを命じた[36]。デヴィは判決に対して、不当判決であり最高裁まで争うとしていた[37]が、その後大阪高裁で和解が成立した。和解内容は非公表[38]。
2014年1月、TBSのバラエティー番組の収録中に一般の女性出演者を平手打ちしたとしてトラブルとなった。この女性は事前に番組スタッフから番組を盛り上げるように言われたためデヴィ夫人を挑発したところ、デヴィ夫人に顔を3回平手打ちされた。その後、この女性の被害届提出を受けた警視庁が暴行容疑で捜査をした[39]。
2014年東京都知事選挙では、元航空幕僚長の田母神俊雄を応援して、共に街頭で演説するなどの活動を行った。選挙期間中には、同年2月7日付の自身のメールマガジンで、登録者に向けて「『田母神 俊雄』と書いて、必ず投票所に行ってください」と投票を呼びかけたため、警視庁から公職選挙法違反の疑いで警告を受けた[40]。2014年3月13日の映画『大統領の執事の涙』の公開直前イベントで「SNSが解禁になったということで、ブログに書いていいのかなあと思ったら、メルマガは違うということで(警視庁が)ちょっと教えてくださったので、あっそうですかって。私、外国人なので全然知らなかったの」と語った[41]。
2018年4月25日、山口達也が、同年2月12日に自身が司会を務めていた番組で共演した女子高生に対して、飲酒させた上にわいせつな行為をしたとして、強制わいせつ容疑で書類送検された[42]。これに対しデヴィは同年4月26日にブログで、「たかがキス位で無期限謹慎なんて厳しすぎ、 騒ぎすぎ」「TOKIOの仲間の方達は、『許されない行為』と言っているけれど、本当にそうでしょうか」「この女の子達は山口達也氏の所だから行ったんでしょう」「Kissされたら、トイレに行ってうがいして『ちょっと失礼』と言って2人で帰ってくれば良かったわけじゃないですか」と被害者を批判した[43]。同年5月12日のツイッターで「強制わいせつ罪の嫌疑がかけられていたTOKIOの山口容疑者が、単にキスをせまっただけではないことが判明しましたので、私のブログを削除致しました」とツイートし、前述の記事を削除した[43]。
2018年に杉田水脈の「LGBTの人に生産性がない」という発言を取り上げた番組において、デヴィは「子どもを作れないのだからたしかに生産性がない」と発言した[44]。番組中でほかの出演者が、即座にデヴィに反論した。
詳細は「愛知県知事リコール署名偽造事件」を参照。
2020年9月25日、「愛知100万人リコールの会」はKKRホテル名古屋で記者会見を開催。代表の高須克弥のほか、河村たかし、百田尚樹、デヴィが出席。会見後、高須、百田、デヴィは名古屋駅前に移動し、大村のリコールを訴えた[45][46]。
街頭演説では、「もし大村知事がリコールされなかったら、私はもう名古屋に来ません」と訴えた百田に続いて、デヴィは「私も来ません」と発言した[47]。
不正署名が発覚し、リコール活動団体事務局長が逮捕された後、デヴィは「コメントを控える」と述べた[48]。
関西テレビで2020年10月24日に放送されたバラエティ番組「胸いっぱいサミット!」で、「皆さんね、知らないけれど、不妊になるのはあの堕胎が原因です。掻爬といって子宮の中をかくわけですよ。だから先生によっては、もう傷をつけちゃう、子宮内に。そうすると絶対に着床しない。私は絶対正しいです」「前に付き合っていた男の人とそういうことにあって、堕胎しましたということを言えないじゃないですか、女性は。隠してますよ。全員が」「ほとんどの原因、9割9分は堕胎です」と、医学的事実とは異なる独自の見解を述べた[52][53]。番組アナが「先ほどのことなんですけれども、では、私から申し上げます。先ほど不妊治療の保険適応拡大の話題について、事実と異なる発言がございました。不快に思わせた方々にお詫び申し上げます。申し訳ありませんでした」と謝罪をしても、デヴィ・スカルノは「事実とは異ならないです」と強く反論した。番組の放送後には、不妊症の患者とみられる人たちから、デヴィの発言にツイッター上などで非難が相次ぎ、医師からも、不妊の一番の理由は中絶だとする主張は事実と違うと指摘が出た。2020年10月27日のツイートでも、「私の知る限り不妊の多くは堕胎の経験者」「結婚後、昔お付き合いしていた人の子を医者や夫に中絶したと正直に言える女性は皆無でしょう」と不妊の患者に対する中傷を繰り返した[54]。デヴィは同年10月28日、ブログで「私の発言によって、不妊治療に当たっている方々、中絶せざるをえなかった方々等を心ならずも傷つけてしまったり、不快な思いをさせてしまったことは残念であり大変申し訳なく思っております」「言葉と表現が足りず、一方的な発言が先行した結果こうした事態を招いたこととなり、深く反省しております」とつづった[53]。
2020年12月31日、新型コロナウイルス感染者が急増する中、デヴィは都内ホテルで約90人が参加する年越しパーティーを開いたことをインスタグラムに投稿した[55]。SNS上では「マスクをしている人がほとんどいない」などの批判も上がっていた[55]。
デヴィは2021年1月10日に放送されたサンデージャポンで、「私はこういう時期だからこそ、勇気を持って開催した」「開催によってホテルの人も飲食の業者も助かる。オーケストラ20名やオペラ歌手も助かっている」「こういうパーティーに来ることでパワー、元気をもらえる」「私たちのような人間がこうしてお金を使わないと、経済が破綻する。自粛自粛ですべてを止めてしまったら経済が破綻してしまう」と述べた[55]。
これに対し杉村太蔵が「かえってこういうパーティーをやることによって、感染拡大がいつまでも止まらなくて…」と反論しようとすると、デヴィは「10日前にやったが誰も感染していない。これまでチャリティーを5回やったが誰も感染していない」と断言し、杉村が「誰も感染してない、じゃあ結果的にいいじゃないかという議論は今成り立たないんじゃないでしょうか」と指摘すると、デヴィは「感染する人たちは若い方たちが多い。(パーティー参加者とは)層が違うと思う」と述べた[56]。また、杉村が「意識してステイホームしようとしている人から見ると、ああいうパーティーはイラッとくる」と語ると、デヴィは「あなた、私に対してのジェラシーですね」と述べた[56]。
2023年10月27日、デヴィは自身のブログやインスタグラムに「アメリカではクマを麻酔銃で捕獲し、沢山の果物などの食べ物を付けて山に帰してあげます。日本では銃殺してしまう。可哀想です。日本もアメリカに習うべきではないでしょうか。」と投稿した[57][58]。2023年度には、この日までに18の道府県で少なくとも172人がクマに襲われてケガをしており、59人の被害者を出した秋田県の佐竹敬久知事は10月23日、「人命最優先」の熊対策を行うと表明していた[59]。デヴィのコメントには賛同する声も少なくないが、実際に被害に遭っている地域ではまさに死活問題になっているだけにコメント欄には反論が相次ぎ、一部ネット民からも「キレイ事をいうな!」と非難が殺到した[59]。
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