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バレエ・リュス
セルゲイ・ディアギレフが主宰したバレエ団 ウィキペディアから
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バレエ・リュス(仏: Ballets russes)は、ロシア出身の芸術プロデューサー、セルゲイ・ディアギレフ(1872年 - 1929年)が主宰したバレエ団である。

レオン・バクスト:バレエ『火の鳥』(1910)のコスチューム

レオン・バクスト:バレエ『火の鳥』(1910) のコスチューム2
「ロシア・バレエ団」とも呼ばれ、1909年にパリのシャトレ座で旗揚げをしてから、ディアギレフ死去後の1929年に解散するまでの間、パリを中心として活動し、今日のモダンバレエにおける基礎を築き[1][2]、「総合芸術としてのバレエ」という、これまでになかった芸術スタイルを確立させた[3]。集まった芸術家たちの気持ちは、ディアギレフを含め、必ずしも一枚岩ではなかったとしても、バレエ・リュスは多くの芸術を遺した。20世紀前半の舞踊・音楽・美術が、バレエ・リュスに結実した、と言うこともできよう。
歴史
要約
視点
セルゲイ・ディアギレフは1906年にパリのサロン・ドートンヌでロシア芸術展を開催して成功した[4]。翌年からは毎年パリでロシア音楽を紹介するコンサートを開催し、1908年には『ボリス・ゴドゥノフ』をガルニエ宮で上演した[5]。1909年のシーズンでもオペラを中心としたイベントを開く予定だったが、主要なパトロンであったウラジーミル大公の死によって計画が狂ったディアギレフは、リムスキー=コルサコフのオペラ『プスコフの娘』(『イヴァン雷帝』の題で上演)のみを完全な形で上演、残りのオペラは抜粋上演し、そのかわりにバレエを中心とした「セゾン・リュス」のプログラムを組んだ[6]。これが実質的なバレエ・リュスの旗揚げとなる。翌1910年のシーズンに主要なオペラ歌手であるフョードル・シャリアピンが参加できないことがわかったこともあり、ディアギレフはオペラをやめてバレエの公演を行うことにした[7]。
ディアギレフは一流のダンサーと振付師、および劇を専門としない画家・音楽家を起用することによって、バレエを時代の最先端をいく芸術ジャンルとした[8]。音楽家としてはクロード・ドビュッシー、モーリス・ラヴェル、レイナルド・アーン、エリック・サティ、フランシス・プーランク、ダリウス・ミヨー、アンリ・ソーゲらを採用したが、中でもイーゴリ・ストラヴィンスキーはバレエ・リュスのために書いた作品によって世界的名声を得た[9]。
第一次世界大戦が勃発するとヨーロッパでの大規模な公演は困難になった。バレエ・リュスは一時的に解散し、またトップ・ダンサーのヴァーツラフ・ニジンスキーはハンガリーに抑留された。1915年にバレエ・リュスは活動を再開し、ジュネーヴとパリで赤十字のための慈善演奏会を開いて成功、翌年には渡米してメトロポリタン歌劇場で公演を行い、ヨーロッパに戻ると5月に中立国であるスペインのテアトロ・レアルで公演を行った。同年秋には2回めの渡米を果たした。1917年には南米公演を行ったが、ニジンスキーが大きく調子をくずし、帰国後はほぼ引退状態になった。ヨーロッパに戻った後にスペインとポルトガルでツアーを行ったが、ロシア革命とそれに続くブレスト=リトフスク条約でロシアが単独講和を結んだため、ロシア人は連合国から好ましからざる人物と見られ、その結果バレエ・リュスはスペインの外に出られなくなった。1918年9月にようやくスペインを離れてロンドンのコロシアム劇場 (London Coliseum) で公演を行うことができた。
バレエ・リュスは時代の最先端を行っていたために、しばしばスキャンダルを起こした。『牧神の午後』(1912)につけられたニジンスキーの性的な振り付けは物議をかもし、『春の祭典』の初演(1913)は有名な大騒ぎを引き起こした。『パラード』の初演(1917)は別の意味で大騒ぎになった。
バレエ・リュスの成功に影響され、各地にライバルとなる団体が創設された。アンナ・パヴロワはバレエ・リュスを去って1911年に自分のバレエ・カンパニーを創設した。1920年にはロルフ・デ・マレがバレエ・スエドワ(スウェーデン・バレエ団)をパリで創設した[10]。1928年にはイダ・ルビンシュタインがバレエ・リュスの主要なメンバーを引き抜いて舞踊団を発足した。
1929年のディアギレフの死とともにバレエ・リュスは解散したが、何度か復活が試みられた。1931年には後継団体となるバレエ・リュス・ド・モンテカルロが設立された。セルジュ・リファールはパリ・オペラ座に移り、ルーセルの『バッカスとアリアーヌ』などの振り付けを行った[11]。ジョージ・バランシンおよびイーゴリ・ストラヴィンスキーは後にアメリカ合衆国に移って協力しあった[12]。
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活躍し、協力した芸術家たち
バレエ・リュスで活躍し、或いは協力した芸術家たちを列記する。 氏名の右の、たとえば(1872露 - 1971仏)は、1872年にロシアに生まれ、1971年にフランスで没した、という意味である。
舞踊家兼振付家

レオン・バクスト:『牧神の午後』(1912)のニジンスキー
- ミハイル・フォーキン、(1880露 - 1942米)
- ヴァーツラフ・ニジンスキー、(1890ウクライナ - 1950英)
- レオニード・マシーン、(1896露 - 1979独)
- ブロニスラヴァ・ニジンスカ、(1891露 - 1972米)
- ジョージ・バランシン、(1904露 - 1983米)
舞踊家
- エンリコ・チェケッティ、(1850年伊 - 1928 )
- マチルダ・クシェシンスカヤ、(1872露 - 1971仏)
- アンナ・パヴロワ、(1881露 - 1931蘭)
- アドルフ・ボルム(Adolph Bolm、1884露 - 1951米)
- イダ・ルビンシュタイン、(1885ウクライナ - 1960仏)
- タマーラ・カルサヴィナ、(1885露 - 1978英)
- リュドミラ・ショラール、(1888露 - 1978米)
- リディア・ロポコワ、(1892露 - 1981英)
- アレクサンドラ・ダニロワ、(1903露 - 1997米)
- アントン・ドーリン 、(1904英 - 1983仏)
- セルジュ・リファール、(1905ウクライナ - 1986仏)
- マリー(ミリアム)・ランベール、(1888ポーランド - 1982) 『春の祭典』でニジンスキーの助手を務める。
作曲家(編曲含む)
- アナトーリ・リャードフ、(1855露 - 1914露)
- クロード・ドビュッシー、(1862仏 - 1918仏)
- リヒャルト・シュトラウス、(1864独 - 1949独)
- アレクサンドル・グラズノフ、(1865露 - 1936仏)
- エリック・サティ、(1866仏 - 1925仏)
- フローラン・シュミット、(1870仏 - 1958仏)
- ニコライ・チェレプニン、(1873露 - 1945仏)
- モーリス・ラヴェル、(1875仏 - 1937仏)
- レイナルド・アーン、(1875ヴェネズエラ - 1947仏)
- マヌエル・デ・ファリャ、(1876西 - 1946アルゼンチン)
- オットリーノ・レスピーギ、(1879伊 - 1936伊)
- トーマス・ビーチャム、(1879英 - 1961英)
- イーゴリ・ストラヴィンスキー、(1882露 - 1971米)
- マクシミリアン・シテインベルク、(1883露 - 1946仏)
- ロード・バーナーズ、(1883 英 - 1950英)
- セルゲイ・プロコフィエフ、(1891ウクライナ - 1953露)
- ダリウス・ミヨー、(1892仏 - 1974スイス)
- フランシス・プーランク、(1899仏 - 1963仏)
- ジョルジュ・オーリック、(1899仏 - 1983仏)
- アンリ・ソーゲ、(1901仏 - 1959仏)
- コンスタント・ランバート、(1905英 - 1951英)
指揮者
- ガブリエル・ピエルネ、(1863仏 - 1937仏)
- ピエール・モントゥー、(1875仏 - 1964米)
- デジレ=エミール・アンゲルブレシュト、(1880仏 - 1965仏)
- エルネスト・アンセルメ、(1883スイス - 1969スイス)
- ロジェ・デゾルミエール、(1898仏 - 1963仏)
画家・装飾家
- コンスタティン・コロヴィン(Konstantin Korovin)、(1861露 - 1969仏)
- アレクサンドル・ゴロヴィン(Alexander Golovin)、(1863露 - 1930露)
- レオン・バクスト、(1866ベラルーシ - 1924仏)
- アンリ・マティス、(1869仏 - 1954仏)
- アレクサンドル・ブノワ、(1870露 - 1960仏)
- ジョルジュ・ルオー、(1871仏 - 1958仏)
- アンドレ・ボーシャン、(1873仏 – 1958仏)
- ニコライ・レーリッヒ、(1874露 - 1947印)
- エカテリーナ・ゲルツァー(Yekaterina Geltzer)、(1876露 - 1962露)
- アンドレ・ドラン、(1880仏 - 1954仏)
- ナタリア・ゴンチャロワ、(1881露 - 1962仏)
- ミハイル・ラリオーノフ、(1881ウクライナ - 1964仏)
- パブロ・ピカソ、(1881西 - 1973仏)
- セルゲイ・スデイキン、(1882露 - 1946米)
- ジョルジュ・ブラック、(1882仏 - 1963仏)
- モーリス・ユトリロ、(1883仏 - 1955仏)
- マリー・ローランサン、(1883仏 - 1956仏)
- ココ・シャネル、(1883仏 - 1971仏)
- ジョルジョ・デ・キリコ、(1888ギリシャ - 1978伊)
- マックス・エルンスト、(1891独 - 1976仏)
- ジョアン・ミロ、(1893西 - 1983西)
文人
- フーゴ・フォン・ホーフマンスタール、(1874墺 - 1929墺) --『ヨゼフ物語』の台本
- ジャン・コクトー、(1889仏 - 1963仏) --『青神』『パラード』『青列車』の台本
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公演会場

初演に関係する劇場を国別にまとめる。
フランス
- パリ、シャトレ座
- パリ、オペラ座
- パリ、シャンゼリゼ劇場
- パリ、ゲテ・リリック劇場(Théâtre gaieté lyrique)、(休場)
- パリ、サラ・ベルナール劇場(現、パリ市立劇場)(Théâtre de la Ville)
イギリス
- ロンドン、ロイヤル・オペラ・ハウス
- ロンドン、アルハンブラ劇場(Alhambra Theatre)
- ロンドン、コロシアム劇場(Coliseum Theatre)
- ロンドン、リセウム劇場(Lyceum Theatre, London)
- ロンドン、ヒズ・マジェスティ劇場(His Majesty's Theatre)
モナコ
- モンテカルロ、モンテカルロ歌劇場
イタリア
スペイン
- スペイン、サン・セバスティアン、エウフェニア・ヴィクトリア劇場(Teatro Victoria Eugenia)
ドイツ
- ベルリン、ヴェステン劇場(Theater des Westens)
オーストリア
スイス
- ジュネーヴ、ジュネーヴ大劇場(Grand Théâtre (Genève))
アメリカ合衆国
- ニューヨーク、マンハッタン歌劇場(Manhattan Opera House)
活動と初演の記録
要約
視点
ここでいう『初演』とは、バレエ・リュスにとっての初演である。たとえば、『白鳥の湖』はロシアで、19世紀に世界初演されている。『火の鳥』はバレエ・リュスが繰り返し再演したが、再演は以下で記さない。
バレエ・リュスの公演の舞台監督は、ほとんどセルゲイ・グリゴリーエフが務めた。
バレエ・リュスはバレエ以外にオペラなども手掛けたが、表中、バレエ以外の作品については網掛けを施した。
1909年
- マリインスキー劇場やボリショイ劇場のシーズンオフに、座員らがセルゲイ・ディアギレフに率いられ、『セゾン・リュス(ロシアのシーズン)』と称して、パリで公演した。
1910年
- 10月、ニジンスキーが『牧神の午後』の振付を開始。
1911年
1912年
- ベルリン → ドレスデン → ウィーン → ブダペスト → モンテカルロ → パリ → ロンドン → ドイツ各地 → ブダペストを巡演。
- 2月にペテルブルク公演が予定されていたが、会場に予定していた「人民会館」が1月24日に焼失したために中止となる。結果的に、バレエ・リュスは解散まで1度もロシアで公演することはなかった[26]。
- 6月、フォーキンがバレエ団を去る。
1913年
- ウィーン → プラハ → ロンドン → モンテカルロ → パリ → ロンドン → ブエノスアイレス → モンテヴィデオ → リオデジャネイロを巡演。ディアギレフは南米公演には不参加。
- パリで5月に行われたシャンゼリゼ劇場の杮落とし公演では『春の祭典』が一大スキャンダルとなる。
- 南米ツアーの途中、ニジンスキーがロモラ・デ・プルスキと電撃結婚し、ディアギレフから解雇される。
- 12月、一時的にフォーキンが復帰。
1914年
1915年
1916年
1917年
1918年
1919年
1920年
1921年
- ジュネーヴ → リヨン → パリ → ローマを巡演。
- 2月、マシーンが解雇される。
- 2月末、コフノがディアギレフの秘書となる。
- 12月、『眠りの森の美女』が興行として大失敗し財政危機となる。これに懲りたディアギレフは古い作品には手を触れないことになる。
1922年
1923年
1924年
- 8月、バランシンが入団する。
1925年
1926年
1927年
1928年
1929年
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脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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