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一条天皇
日本の第66代天皇 ウィキペディアから
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一条天皇(いちじょう てんのう、旧字体:一條天皇、980年7月15日〈天元3年6月1日〉- 1011年7月25日〈寛弘8年6月22日〉[2])は、日本の第66代天皇(在位:986年8月1日〈寛和2年6月23日〉- 1011年7月16日〈寛弘8年6月13日〉)。諱は懐仁(やすひと)[注釈 1]。
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略歴
要約
視点
永観2年(984年)8月27日、花山天皇が皇位を継いだ時、皇嗣に立てられる。寛和2年(986年)6月23日(8月1日)、藤原兼家が孫の懐仁を即位させるため、子息の道兼に花山天皇を出家に誘導させ、道隆と道綱に清涼殿から神璽・宝剣を天皇の許可なく東宮の元に移動させ、それを見届けてから兼家は花山天皇の出家を関白藤原頼忠に報告、花山天皇を退位に追い込んだ(寛和の変)[5]。皇太子には従兄にあたる居貞親王(三条天皇)を立て、摂政に兼家が就任した(後に関白)。ただし、兼家の謀り事により一条天皇に皇位が継承されたため、通常は譲位時に行われる摂政の手続きが出来ず、『円太暦』によれば「先帝の花山がその場にいるかのような儀式を行った」とあり、異例の摂政就任となった[6]。
7月22日、大極殿において即位の義が行われた。この時に大極殿北廂東幔内に摂政が伺候することが確立したとされ、それは天皇と摂関との新たな関係を示すものであった[7]。『大鏡』によると、一条天皇の即位式の日に大極殿の高御座に髪の毛が付いた生首が転がっていた「髪つきたるものの、頭の、血うちつきたる」が置かれていたという説話が見える[8]。実際にこのようなことがあったとは思えないが、一条の即位を快く思わない勢力があったことを窺わせる逸話である[8]。
史上初の四后
永祚2年(990年)正月、太政大臣となった兼家の加冠により11歳で元服が行われるが、程なく兼家は病死する。兼家の死後は長男の藤原道隆が引き続き外戚として関白を務める。同月25日、道隆の長女定子が「添臥(初夜の形式的に行う女性)」を兼ねて入内[9]。同年5月26日に道隆は摂政に転じるが、同じ天皇につき関白から摂政となるのは異例で初めての事だった[10]。
同年10月5日、道隆は定子の立后を強行する[11]。この時、三后は(太皇太后昌子内親王、皇太后藤原詮子、皇后藤原遵子)で空きはなかったが、道隆は時機を待たず皇后の別称で用いられていた「中宮」を独立させ、三后を四后並立とし定子を強引に立后させた、これが四后の初例である[11]。また、立后の儀は道隆が兼家の喪中に行ったことで、藤原実資の日記『小右記』では「驚奇少なからず」、四后に対して「皇后四人の例、往古聞かざる事也」と非難されている[12]。道隆の弟道長は中宮大夫だったが、道隆の自分勝手なやり方についていけず中宮定子のもとに参らず「気丈なことである」と世間から賞賛を受けた{Sfn|山中|2008|p=11}}。正暦2年(991年)7月23日、道隆が内大臣を辞し[13][要ページ番号]、摂政のみとなった理由は、父兼家にならって太政大臣にならず摂政に権力の掌握を求めたからである[11]。
一条朝の宮廷文化
一条天皇の時代は道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権勢が最盛に達し、皇后・定子に仕える清少納言、中宮・彰子に仕える紫式部・和泉式部らによって平安女流文学が花開いた。天皇自身、文芸に深い関心を示し、『本朝文粋』などに詩文を残している。音楽にも堪能で、笛を能くしたという。また、寒い夜にはわざと御直垂を推し脱いでいた。彰子がそのわけを聞くと、一条は「日本国の人民の寒かるらむに、吾、かくて暖かにてたのしく寝たるが不憫なれば」と答えたとされる[14]。いかにも気配りの効く一条らしい説話だが、実はこの話は中国の孝子伝に原拠を持つものである[15]。正暦4年正月、元日朝賀が行われたがこれを最後に廃絶した[16]。
長徳の変
同年4月、道隆が摂政からまた関白に転じた、長徳元年になると病になるが糖尿病だといわれている。3月に道隆は子息の伊周の出世を謀り、関白職を譲ろうとするが一条天皇は許さず、関白道隆が病の間のみ伊周を内覧させるという宣旨が下ったが、伊周はこれを不服とし「病の間」を削除させようとした[17]。道隆の存命時は後宮に定子しかいなかったが、7年ほど子が出来ず皇子を得られないまま道隆が長徳元年(995年)4月10日に没し、同年4月27日、道隆の後に弟の道兼が関白となったが流行病で5月8日に没し 「七日関白」となった[18]。5月11日、権大納言の道長に内覧の宣旨が下る[19]。道隆が没してからの伊周・隆家兄弟は荒れており、道長と口論になったり道長の随身が隆家の従者に殺害される事件など起こっていたが、長徳2年(996年)正月16日の夜、伊周と隆家が花山法皇に矢を射るという常識では考えられない事件」(長徳の変)を起こす[19]、また伊周が一条天皇の母后東三条院詮子を呪詛したこと、天皇のみに許されている太元帥法を行わせているが明らかになり、一条天皇は伊周を太宰府へ、隆家を出雲へ左遷とした[20]。
内覧に留まった藤原道長・祖父の村上天皇のような親政を志したとされる。道長と天皇は協調し、これにより後に大江匡房が藤原実資や藤原行成等の有能な人材を輩出したと称えた[21][要ページ番号]ほど有為な政治体制が確立した。特に、長保元年7月27日(999年9月9日)に発布された「長保元年令」は、後の新制の基本として公家社会に重んじられ、中世公家法に対しても強い影響を与えていた。
藤原行成の日記『権記』には、晩年に定子が生んだ敦康親王を次期東宮に望んでいたが、行成が道長の意向を尊重し、敦成親王を東宮にするよう天皇に進言したことが記述されている[22][要ページ番号]。1220年頃に成立した『愚管抄』には天皇崩御後、道長・彰子は天皇の遺品の整理中に一通の手紙を発見し、その中には「三光明ならんと欲し、重雲を覆ひて大精暗し」と書かれていて[23][要ページ番号]、これを「道長一族の専横によって国は乱れている」という意味に解した道長はその文を焼き捨てたという一件があるが、同時代の史料では確認できない[注釈 2]。『御堂関白記』や『権記』など同時代の一級史料を熟読すれば、道長が一条天皇を不服に思ったことはなくきちんと後見し、一条天皇も道長や中宮彰子を尊重し良好な関係を築いていた様子が伺える[25]。
かねてより譲位の意向を道長に伝えていたが、慰留されるうちに寛弘8年(1011年)5月末頃には病が重くなり[26]、同年6月13日に居貞親王に譲位し太上天皇となり、出家した6月19日の3日後、6月22日に崩御する[27][29][30][31][32]。宝算32。生前、定子と同じく土葬を望んでいたが、道長がこれを失念したため、7月8日夜に火葬されたという[27][34]。
『御堂関白記』寛弘八年六月二十一日[35]による辞世の歌を示す。
「露の身の 草の宿りに 君をおきて 塵を出でぬる ことをこそ思へ」—「寛弘八年六月二十一日」『御堂関白記』
。
ただし初二句は『新古今集』巻第八哀傷歌収録では「秋風の 露の宿りに」となっていて、結びは『権記』では「事ぞ悲しき」である[要出典]。
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在位中の重臣一覧
要約
視点
在位中の重臣一覧
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人物
長徳・寛弘年間に日記をつけていたことが判っている[注釈 3]。『長徳御記』は平安末期にはすでに失われ[37]、『寛弘御記』は応永の頃まで伝存が知られる[38]。その後、中世の戦乱にまぎれて散失したと見なされ、{{要出典範囲|『北山抄』[39]・『柱史抄』[40]・『建武年中行事』[41]・『體源抄』[42]などに逸文[注釈 4]が残るのみである。
大変な愛猫家であり、内裏で生まれた猫のために儀式を執り行い、人間の乳母(上女房の長命婦)[43]をつけたという話[44][45]が『小右記』に記述されている[46]。この猫は「命婦のおとど(おもと)」と名付けられ、叙爵されていた事が『枕草子』に記述されている[51]。
系譜
要約
視点
系図
60 醍醐天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
61 朱雀天皇 | 62 村上天皇 | 兼明親王 | 源高明 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
広平親王 | 63 冷泉天皇 | 致平親王 | 為平親王 | 64 円融天皇 | 昭平親王 | 具平親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
65 花山天皇 | 67 三条天皇 | 66 一条天皇 | 源師房 〔村上源氏へ〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
敦明親王 (小一条院) | 禎子内親王 (陽明門院) | 68 後一条天皇 | 69 後朱雀天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
70 後冷泉天皇 | 71 後三条天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
母である藤原詮子は、橘氏を介して弘文天皇とその妻で飛鳥時代の天武天皇の皇女十市皇女の11世孫にあたる。天武天皇の男系皇統は途切れてしまうものの、女系の血は一条天皇を介して徳仁たる令和の皇室及び旧皇族に伝わっている。また、皇后の定子、中宮の彰子、女御の尊子も弘文・十市夫妻の後裔である[52][53]。一条天皇の乳母で長女脩子内親王の裳着において髪上げ役を務めたのも橘氏の徳子(受領藤原有国の妻)である[要出典]。
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后妃・皇子女
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追号・異名
在位中の里内裏の名称により「一条院」と追号された。崩御後しばらくは「大宮院」とも呼ばれていた[54]。明治以後「〜院」の追号は廃止され「一条天皇」となる。
在位中の元号
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区竜安寺朱山 の龍安寺内にある圓融寺北陵(円融寺北陵:えんゆうじのきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。
天皇は生前、父・円融院の隣に土葬されることを望み、近臣の熟知するところであったが、道長は故院を荼毘に付してからそのことを思い出し、遺骨は東山の円成寺に安置された。希望どおり円融陵(北山の朱山にある火葬塚か)の側に葬られたのは、9年も経った寛仁4年(1020年)6月16日のことであった。
なお、一条天皇の大喪儀における葬法の誤りについて論じた論文があり、それによれば淳和天皇以降、在位中の天皇の葬儀は土葬、太上天皇の葬儀は火葬という慣例があったが、退位直後に次代の天皇から太上天皇としての称号奉上を受けずに崩御した醍醐天皇は天皇の例として土葬が行われた。一条天皇の場合は天皇の意思だけでなく醍醐天皇の先例に倣えば土葬で行われるべきであるが、道長以下の廷臣は太上天皇の例に倣って火葬を行ったことになる。この誤りが本当に勘違いによるものか意図的なものかは不明であるが、次に在位中に崩御した息子の後一条天皇の際には崩御の事実を隠して譲位の儀式を行った上で太上天皇として火葬にされ、それ以後在位中の天皇の崩御そのものが隠される慣例が確立されていることから、一条天皇の大喪儀における誤りは天皇の大喪儀における観念の変化(在位中の天皇の崩御ならびにそれを前提とした土葬の否定)の過渡期で発生した出来事とする評価がされている{{refnest|谷川「平安時代における天皇・太上天皇の喪葬儀礼」[55]
- 名和修 著、田島公 編『近衞家名宝からたどる宮廷文化史 : 陽明文庫が伝える千年のみやび』笠間書院、2016年3月。ISBN 978-4-305-70802-1。国立国会図書館書誌ID:027205639。
- 山本 淳子『源氏物語の時代:一条天皇と后たちのものがたり』〈朝日選書〉2007年。ISBN 978-4-02-259920-9。
- 米田 雄介『歴代天皇の記録』八木書店、1992年。ISBN 4-7971-048-48。
- 山中裕 編『御堂関白記全註釈 寛弘8年』思文閣出版、2007年6月。ISBN 978-4-7842-1350-4。NDLJP:1108802537、国立国会図書館書誌ID:000008604609。
- 本文「弘8年5月23日条」、p92。
- 読み下し文、p95。
- 註釈、p106。
- 山中裕『藤原道長』日本歴史学会 編集(シリーズ)(新装版)、吉川弘文館〈人物叢書〉、2008年1月。ISBN 978-4-642-05243-6。国立国会図書館書誌ID:000009225504。
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脚注
外部リンク
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