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日本の作家、元外交官 (1960-) ウィキペディアから
佐藤 優(さとう まさる、1960年[1]〈昭和35年〉1月18日 - )は、日本の作家、元外交官。同志社大学神学部客員教授、静岡文化芸術大学招聘客員教授。学位は神学修士(同志社大学・1985年)。
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在ロシア日本国大使館三等書記官[2]、外務省国際情報局分析第一課主任分析官[1]、外務省大臣官房総務課課長補佐を歴任。その経験を生かして、インテリジェンスや国際関係[3]、世界史、宗教などについて著作活動を行なっている。
東京都渋谷区生まれ、埼玉県大宮市(現:さいたま市)育ち。大宮市立大砂土小学校、大宮市立植竹中学校卒業。幼少時は日本キリスト教会大宮東伝道所に通っていた。
1975年、埼玉県立浦和高等学校入学。高校時代は夏に中欧・東欧(ハンガリー、チェコスロバキア、東ドイツ、ポーランド)とソ連(現在のロシア連邦とウクライナ、ウズベキスタン)を一人旅する。予備校での1年間の浪人生活を経て、同志社大学神学部に進学[注釈 1]。学部1回生で正式に洗礼を受け、クリスチャン(プロテスタントのカルヴァン派)になった。卒業論文のタイトルは「ヨセフ・ルクル・フロマートカ研究『破壊と復活』『一九四五年』を中心に」であった。
高校2年生から大学2回生まで日本社会主義青年同盟(社青同)の同盟員であった。なお、佐藤が社青同の同盟員時代に同団体委員長を務めた山崎耕一郎が2017年11月24日に死去し、翌2018年2月18日に開会された「山崎耕一郎さんを偲ぶ会」に佐藤は追悼文を寄せ、「社青同時代の活動、学習は、人生の基盤を作りました。そのことは、外交官時代も、職業作家になった現在も、いつも感じています」と記している。
その後、同大学大学院神学研究科博士前期課程を修了し、神学修士号を取得した。研究のテーマは「チェコスロバキアの社会主義政権とプロテスタント神学の関係について」であった。特に学部2回生の頃から、チェコの神学者ヨセフ・ルクル・フロマートカに強い興味を持ち、チェコに留学する目的として、外務省の専門職員採用試験を受験する。大学院修士論文は「ヨセフ・ルクル・フロマートカの共産主義観 現代東ヨーロッパにおけるプロテスタント神学の展開についての一考察」。
大学院修了後はチェコスロバキアの首都プラハにあるカレル大学に留学して本格的にフロマートカに関する研究をするという希望を持っていたが、フロマートカは反ソ主義的な神学者であり、フロマートカの研究を、冷戦下で「科学的無神論」を国是とするチェコスロバキアで行うことは事実上不可能であったため一度は断念した。しかし、外務省職員(専門職)になればチェコ語研修を名目にチェコスロバキアに行けると考え、1985年4月にノンキャリアの専門職員として外務省に入省(2度目の外務省専門職試験受験で合格した)。しかし、外務省から指定された研修言語は希望していたチェコ語ではなくロシア語であり、5月に欧亜局(2001年1月に欧州局とアジア大洋州局へ分割・改組)ソビエト連邦課に配属された。なお、当時のソ連課長は野村一成、首席事務官は宮本雄二(後の駐中華人民共和国大使)であった。
1986年夏にイギリスの首都ロンドン郊外ベーコンズフィールドの英国陸軍語学学校(Defence School of Languages)で同期の武藤顕(キャリア、2014年から欧州局大使[4])とともに英語やロシア語を学んだ後、1987年8月末にモスクワ国立大学言語学部にロシア語を学ぶため留学した。その中で哲学部科学的無神論学科の講義にも参加するようになった。当時のソ連では「科学的無神論」という国是からキリスト教や各宗教に関する研究を行っていた。例として「キリスト教終末論の諸類型とその階級的特質」「啓蒙主義思想に対するプロテスタント神学者の批判とその問題点についての検討」「ニコラウス・クザーヌスの全一性概念に対する批判的検討」「ブルトマンによる聖書の脱神話化仮説の学説史的意義とその批判」「解放の神学とカトリック教会の教権制度の矛盾」など、同志社大学で学んだキリスト教を社会主義の立場から批判、検討するような内容が多かった。ちょうど1988年のロシア正教導入1000年紀にもあたっていたこともあり、ソ連では宗教への理解が進んでいた時期でもあった。またロンドンでは、亡命チェコ人の古本屋店主夫妻とも親しくなり、当時チェコスロバキアなど東欧諸国では一般での発売や閲覧が禁止されていた神学や宗教関係の書物を手に入れることもできた。当時チェコスロバキアなどの東欧社会主義国は外貨節約のため、国内では流通させたくない神学関係や反共的な書物を、西側諸国の最新の科学技術の書物や辞書・辞典と物々交換していた。その亡命チェコ人古本店主は、その物々交換の窓口であったとされる。そのチェコ人店主は、元々はBBCのチェコ語アナウンサーだったが、引退後は社会主義国から救い出した書籍をアメリカ議会図書館やイギリスの大英博物館(大英図書館)、オックスフォード大学やケンブリッジ大学などに納品することで生計を立てていた。妻はケンブリッジ大学でチェコ語の教師をしていた。
1988年から1995年まで、ソビエト連邦の崩壊を挟んで在ソ連・在ロシア日本国大使館に勤務し、1991年の8月クーデターの際、ミハイル・ゴルバチョフ大統領の生存情報について独自の人脈を駆使し、東京の外務本省に連絡する[5]。アメリカ合衆国よりも情報が早く、当時のアメリカ合衆国大統領であるジョージ・H・W・ブッシュに「アメイジング!」と言わしめた。佐藤のロシア人脈は政財界から文化芸術界、マフィアにまで及び、その情報収集能力はアメリカの中央情報局(CIA)からも一目置かれていた[6]。また、参議院議員としてロシアを訪れていた猪木寛至(アントニオ猪木)に便宜を供与したこともあり、その後も親交は続いた。
この時期、佐藤はソ連科学アカデミー(現・ロシア科学アカデミー)民族学人類学研究所にも「学位論文提出権有資格者」と認められ、研究員として正式に出入りすることを許されており、市中には出回っていないソ連の民族問題に関する書籍も図書館で自由に読めた。
日本帰任後の1998年には、国際情報局分析第一課主任分析官となる。内閣総理大臣橋本龍太郎とロシア連邦大統領ボリス・エリツィンのクラスノヤルスク会談に基づく2000年までの日露平和条約締結に向けて交渉する。また「チェルノムイルジン首相更迭」や「エリツィン大統領辞任と後継者プーチン」等の情報を正式発表前にいち早くつかみ、日本外交政策に貢献した[7]。
外務省勤務のかたわら、モスクワ大学哲学部に新設された宗教史宗教哲学科の客員講師(弁証法神学)や東京大学教養学部非常勤講師(ユーラシア地域変動論)を務めた。また、雑誌『世界』(岩波書店)の「世界論壇月評」担当など論壇への寄稿に加え、フロマートカの自伝の翻訳出版(1997年)、『福音と世界』『基督教研究』といった雑誌に執筆するなど、神学方面の学問的活動も行っていた。
1991年9月、日本が独立を承認したバルト三国に政府特使として派遣されてきた鈴木宗男の通訳や車の手配などを佐藤が務めたことを機に、鈴木と関係を築く。主任分析官となった背景にも鈴木の威光があったとされる。このとき、鈴木とともに仕事をし、鈴木から「外務省のラスプーチン」というあだ名を付けられたという[1]。「日本のシンドラー」と呼ばれた、リトアニアのカウナス元総領事としてナチス・ドイツの迫害から逃れようとするユダヤ人の日本通過を手配した杉原千畝の名誉回復においても、外務政務次官であった鈴木と共に尽力した。しかしこのことが外務省幹部の怒りを買ったという説もある。一般には外務省としては、杉原は訓令違反で退職した元職員であり、名誉回復をさせることは外務省の非を公に認めることにつながるからであるとされる。
2002年(平成14年)に、鈴木宗男に絡む疑惑が浮上したことに連座する形で、2月22日に外務省大臣官房総務課外交史料館担当課長補佐へ異動[8]。4月に外務省を混乱させたとして、給与20%・1カ月分の懲戒減給を受ける。
同年5月14日に、鈴木宗男事件に絡む背任容疑で逮捕される。同年7月3日、偽計業務妨害容疑で再逮捕。512日に及ぶ東京拘置所での勾留後、2003年(平成15年)10月に保釈された[9]。東京拘置所収監時、死刑囚坂口弘の隣の独房に入ったことがある[10]。
この2回の費用を、外務省の支援委員会から違法に引き出して支払った疑いである。この疑いに対し佐藤は、支援委員会から支払をすることは、通常手続きである外務事務次官決裁を受けており正当なものだった、と主張している。また、佐藤の上司だった外務省欧亜局長東郷和彦は、「外務省が組織として実行しており、佐藤被告が罪に問われることはあり得ない」と証言している。
そして東郷は、佐藤が逮捕された時は海外にいたが、事務次官野上義二と電話で「こんなことが犯罪になるはずがない。何も問題はない」と話し、しかも、野上はこのことを記者会見で述べるとまで語ったと、佐藤の著書には書かれている[11]。
2000年3月に行われた、国後島におけるディーゼル発電機供用事業の入札で、鈴木の意向を受け、三井物産が落札するように違法な便宜を図ったり、支援委員会の業務を妨害したりしたとの疑いである。この疑いに対し佐藤は、北方領土の事情に通じた三井物産の選定は妥当であり、鈴木の「三井に受注されればいい」との発言を三井側に伝えただけだ、と主張している。
もしこれらの便宜を図っていたら、佐藤の国家公務員生命を脅かすような事態で、非常にリスクが高いが、三井物産から佐藤へは金品の授受は一切なかった。そのことは検察官も認めており「動機なき犯罪」になる。
2005年2月に東京地方裁判所(安井久治裁判長)で執行猶予付き有罪判決(懲役2年6か月、執行猶予4年)を受け控訴していたが、2007年1月31日、二審の東京高等裁判所(高橋省吾裁判長)は一審の地裁判決を支持し、控訴を棄却。最高裁判所第三小法廷(那須弘平裁判長)は2009年6月30日付で上告を棄却し、期限の7月6日までに異議申し立てをしなかったため、判決が確定した[12]。国家公務員法76条では「禁錮以上の刑に処せられ、その執行を終わるまで又は執行を受けることがなくなるまでの者」は失職すると定められており、これにより外務省職員として失職した。懲戒免職や諭旨免職ではなく「失職」となるケースは、逮捕された公務員の退職理由としては異例である。
一審判決で執行猶予がついたことを機に、捜査の内幕や背景などをつづった著書『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』を2005年に出版すると大きな反響を呼んだ。同書などにおいて、佐藤本人は自身にかけられた一連の容疑・判決を「国策捜査」であると主張。この著書は第59回毎日出版文化賞特別賞を受賞し、以後、新聞・雑誌などに外交評論や文化論を執筆している。
2006年より、魚住昭、宮崎学らとメディア勉強会「フォーラム神保町」を運営。2009年に失職するまで「起訴休職外務事務官」と自称していた。2010年から、外務省時代の体験を元にした漫画『憂国のラスプーチン』の原作を手がける(伊藤潤二作画、長崎尚志脚本)。また、静岡文化芸術大学では招聘客員教授に就任した[13]。2013年6月に猶予期間満了[14]。
2020年代初頭、慢性腎臓病に伴う人工透析、がん治療のための前立腺全摘出、冠動脈へのステント挿入のほか菌血症での入院と「病気のデパート」のような状態であると自ら公表しており、「人生の残り時間を意識」して「作家としての仕事に優先順位をつけ」て執筆活動を行なっている[3]。2023年6月に東京女子医大にて、妻から提供された生体腎移植の手術に成功した[15]。
主要な日本の新聞では『朝日新聞』から『産経新聞』まで、左右を問わず多くの媒体に寄稿している。
左派系雑誌『週刊金曜日』には特に多く寄稿しており、同誌は佐藤の特設ページを設けている。左翼の一部からは、「国家主義者であり、ファシズムに親和的な佐藤を起用してよいのか」とする批判が『週刊金曜日』『世界』の読者から、佐藤を重用する左派誌に寄せられているという(『週刊金曜日』2009年5月29日号)。
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に対しては、金正日体制を非常に激しく批判している。
中東戦争再発を懸念し、アメリカ合衆国大統領ドナルド・トランプによる在イスラエルアメリカ合衆国大使館のエルサレム移転には、強く反対している。一方でイスラエルによる2006年のレバノン侵攻やガザ侵攻は、ヒズボラやハマスのイスラエル人拉致というテロに対する行動であったと主張した。これは、北朝鮮による日本人拉致問題について、日本に北朝鮮政府への厳しい対応を促した意味もある。
2009年のガザ侵攻では、「停戦協定を破ったハマスの先制攻撃が原因でありイラン、ヒズボラ、アルカイダと通じてイスラエル国家を破壊しようとしている」と持論を展開。
佐藤は自らや鈴木宗男の逮捕の背景の一つに、イスラエルとのインテリジェンス協力を邪魔する外務省の親アラブ派・反ユダヤ主義的グループの策謀があったと主張している[16]。
アゼルバイジャンとアルメニアの紛争に関して、日本がアゼルバイジャンとアルメニアとの和平活動に働きかければ、ロシア政府からの信頼やロシアの国民感情にプラスに働き、北方領土問題解決に前進するかもしれないと主張している。
2022年ロシアのウクライナ侵攻に関して、朝日新聞デジタルの「コメントプラス」にて「今回の事態に至るにはウクライナのゼレンスキー大統領にも大きな責任があります」[17]とロシア側の主張に沿う議論を展開した。
尊皇家でありながら、左翼的な雑誌に寄稿するあり方や、南朝正統論に立つ佐藤に対し、小谷野敦は現在の天皇は北朝ではないのかと批判している。
本郷和人との対談で、三種の神器によって即位したのが正統な天皇だと佐藤が言うのに対し、本郷は、しかし三種の神器は複数あったはずだと問うたが、北畠親房が正しいとした三種の神器が、本物の神器だと佐藤は答えた[18]。
日本基督教団に属するクリスチャンであるが、創価学会に関して、客観性を強調する宗教学者とは異なり、自身は宗教人として、キリスト教エキュメニズムの立場から、内在的論理(創価学会員に寄り添う、あるいは自分が創価学会員だったらどう考えるかという立場)で読み解くとしている[19]。その上で、「創価学会のファン」であると公言しており、『潮』の連載では、池田大作同会名誉会長をイエス・キリストになぞらえて「創価学会の真理の体現である」と評価している。
また、「キリスト教徒にとってイエス・キリストという名はきわめて重要である。それと同じように創価学会員にとって池田大作氏の名が決定的に重要なのである。それは池田大作氏という名に創価学会の真理が体現されているからと筆者は考える」「筆者は中間団体である創価学会が民主主義の砦であると確信している。それと同時に創価学会の思想を、池田大作氏という傑出した宗教人から虚心坦懐に学びたい」「筆者は創価学会のファンであることを隠さない。それは創価学会が対話を重視する宗教団体だからだ。創価学会について勉強し、創価学会員と対話を重ねれば重ねるほど、筆者自身のキリスト教信仰を深めることができる。このように他宗教の信者を惹きつける魅力を池田大作氏は持っている」などと論述している(『潮』2011年7月号)。
ウィキペディア(日本語版を含む)に対して、百科事典が本来果たすべき「歴史をある時点で切断し、その時点での体系知の構造を提示する」という目的・機能をウィキペディアは果たすことができないとしている[20]。また、ウィキペディアへの批判として、それが『世界大百科事典』といった従来の事典と比較して「信憑性が根本的に異なる」としている[20]。
2021年5月13日の『毎日新聞』への寄稿文「沖縄と日本」では、佐藤自身のアイデンティティーについて、外交官、キリスト教徒、沖縄人の三つがあるとし、「筆者は沖縄に住んだことはない。しかし、筆者の中には沖縄人であるとの確固たるアイデンティティーがある。しかもそのアイデンティティーが過去20年で変容した。かつては沖縄にルーツを持つ沖縄系日本人という意識だった。それが今では、日本にもルーツを持つ沖縄人だという意識に変わった」「筆者が自らを日本系沖縄人と記すのは、沖縄と日本の間で死活的な利害相反があったとき、筆者は沖縄の立場を取るという意思を示したいからだ」と述べている[21]。
佐藤は大田昌秀との対談(『徹底討論沖縄の未来』2010年)で、沖縄戦での渡嘉敷島集団自決裁判については、大江健三郎が正しいと発言しており、山崎行太郎とともに「集団自決は日本軍にも責任がある」とする立場をとっている。
『ゴーマニズム宣言』において、小林よしのりが沖縄県の現状に対して連載したところ[22]、佐藤からマスメディアを通じた批判が「一方的に行われた」として、小林が3ページに及ぶ佐藤への反駁を行ない、両者の間で論争が続いている。小林によれば、佐藤は『琉球新報』の連載で「沖縄は全体主義の島だ」と主張する一論客を非難。小林が編集長を務める雑誌『わしズム』の2007年秋号のタイトルにも『全体主義の島「沖縄」』とあったため、これが小林が一方的に自身への批判と捉えた理由とも考えられる。
佐藤は『SPA!』に「佐藤優のインテリジェンス職業相談」を寄稿し、「ラスプーチン」と「大林わるのり」という架空の相談者を登場させ、フィクションとしての体裁を整えた上で、反撃を行った。
離婚と再婚を経験しており、現妻は外務省時代の後輩で、子供は前妻、現妻の双方の間にいない(『自壊する帝国』あとがき)。
母親は1930年(昭和5年)生まれの沖縄県久米島出身で、第二次世界大戦でアメリカ軍との沖縄戦を体験。終戦後は沖縄本島の看護学校に通っていたが、佐藤の父親にあたる後の夫と出会い、看護学校を中退して本土に渡った。沖縄戦での「生き地獄」の経験から、「人間の生死は、人間の知恵や努力を超えた大きな力によって動かされる」という信念を持つようになり、看護学校に通っている頃に教会で洗礼を受け、キリスト教徒(クリスチャン)となった。また、兄に日本社会党所属だった元兵庫県議会議員がいる関係で、日本社会党の熱烈な支持者だったとのこと。2006年没。
兄弟姉妹に国際結婚をした妹が1人いる。
『AERA』2007年4月23日号の「佐藤優という『罠』」という記事では、「外務省のある人物」という匿名コメントで「(鈴木宗男の質問主意書は)佐藤が仕掛けている」「(佐藤は)都合のいいことしか書いてない」「佐藤はものすごい陰謀家で、外務省に復讐しようとしている」などと言及された。これについて、佐藤が「事実誤認」として内容証明郵便で『AERA』編集長に抗議すると、翌週発売の『AERA』2007年4月30日号で訂正記事が掲載される。佐藤はまた、『週刊金曜日』誌上で、記事中の「私が書かない『都合のよくないこと』が具体的でないコメントを載せるのは公平でない」と、執筆者の大鹿靖明個人に公開質問状を出す(『週刊金曜日』2007年5月11日号)。大鹿は、マスコミ主催の勉強会の席上で佐藤に謝罪した[28][29]。
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