厳原町
日本の長崎県下県郡にあった町 ウィキペディアから
日本の長崎県下県郡にあった町 ウィキペディアから
厳原町(いづはらまち)は、九州の北沖に当たる長崎県の対馬の南部にあった町。対馬振興局(旧対馬支庁、旧対馬地方局)の所在地であった。2004年3月1日に、平成の大合併で対馬市となり自治体としては消滅した。
厳原町は対馬の南端に位置する。東部から南部はリアス式海岸が発達しているが、西部はほぼ一直線に断崖絶壁の海岸線が続く。内陸部は300m〜650m級の急峻な山が連なる。平地は西部の佐須川流域を除き、大規模なものはほとんど無い。このため集落は僅かな平地のある河口部などに点在し、集落間の道路はほとんどが曲がりくねった山道である。
最大市街地は東部の厳原地区で、同地区は昭和35年調査から平成12年調査まで離島では珍しい人口集中地区を形成していた。同地区は対馬の政治・経済の中心でもあり、県や国の出先機関も多数所在する。
町役場付近は対馬国の国府が置かれた地と考えられているが、いまだその遺構は見つかっていない。文永の役では町西部の小茂田浜に元・高麗軍が襲来し、大きな被害を受けた。
鎌倉時代に、対馬を治める宗氏が対馬中部の峰町佐賀地区から厳原地区に移館して城下町となり、以来対馬の中心地となっている。この城下町にあたる地域は初め与良と呼ばれ、時代毎に国府、府中または府内と呼称が変遷している[3]。府中は中世における「対馬八郡」のうちの与良郡、および近世における「対馬八郷」のうちの与良郷[注 4]に所在したが、郡郷域に含めないとする見方もある[4][5]。府中は明治維新後の明治2年に「厳原(いづがはる)」に改称したが、後に読みを「いづはら」と改めた[6]。また、与良郷など対馬八郷は明治5年までに廃止された[5]。
大字を行政区域とする。
豆酘村時代、大字は設置されていなかった。厳原町編入時に大字豆酘が発足し、1958年、遅れて豆酘の一部が独立する形で浅藻が発足。
(2004年3月時点)
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.