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日本の漫画家 ウィキペディアから
山本 夜羽音(やまもと よはね、1966年7月11日 - 2022年3月14日)は、日本の漫画家。
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本名は山本 洋一郎[注 1]。北海道出身。主に成人向け漫画を描く。別に、山本夜羽と玄田生のペンネームがある[3]。代表作に『マルクスガール』(雑誌『ヤングチャンピオン』連載、山本夜羽名義)など[3]。自称、啓蒙エロマンガ家[4]。1990年代後半に「社会派エロマンガ家」[5]「極左エロマンガ家」として注目されたが[6]、後年は漫画家を自称し新作の構想を周囲に語りながら10年以上にわたり作品の発表が見られなかったため「描く描く詐欺」と言われた[7][6]。新作「マルクスガール・オルタネイティヴ」の第2話制作中にコロナ禍の中で体調を崩し55歳で死去。
1980年代後半、昭和の終わりから平成の始まりにかけての青年期に管理教育への反対運動に加わり、さらに反権力・反天皇制・反原発等を掲げるノンセクト・ラジカル系統の政治運動に参加して活動。漫画家となったのちも「有害社会環境の規制を問いただす青年会議」[8]や「連絡網AMI」の設立[9]など創作表現の自由に関わる運動や、「メンズリブ東京」[10]、東日本大震災被災地を支援する「おたぱっくQB(救援便)」「相馬野馬追応援 武者絵展」[11]、民族差別・人種差別デモに抗議する「レイシズムへの抗議行動・知らせ隊」[12]など様々な社会運動に関わった[6]。
1966年7月11日、北海道浜益郡浜益村(現・石狩市浜益区)で[13]、小学校教員(北教組)でカトリック信者の父と同じく敬虔なカトリック信者の母の次子(長男)として生まれる[4][14]。本人も幼児洗礼を受けた[15](後年、堅信の秘跡を受けている[16])。札幌市立屯田中央中学校に通学、生徒会機関紙の編集局長として活動し、生徒会誌『開拓』創刊号の表紙画を描いている[注 2]。高校入学の直前に父親がクモ膜下出血で倒れ、死別した[20][4]。
北海道札幌北高等学校に入学すると新聞局に入部し[注 3]、マンガ・アニメーション研究会にも関わった[注 4]。1980年代初頭の全共闘回顧ブームの影響を受けつつ高校新聞で「反・管理教育」を訴える記事等を書くほか、1983年の北海道知事選挙では社会党系の横路孝弘を推す勝手連(横路孝弘と勝手に連帯する若者連合)で選挙運動に参加した[20]。一時期は「MPD・平和と民主運動(日本学生戦線)」に参加し札幌の地区高校生キャップ(リーダー)を務めた[24][25][注 5]。また、1983年、高校2年生の時に初めてコミックマーケットに参加した[注 6]。高校時代の恩師として作家・川辺為三[注 7]の名前を挙げている[42][43]。
高校卒業後、1985年4月に群馬県の高崎経済大学経済学部へ進学[注 8]。半年ほどして東京へ移り[4]、管理教育を批判する保坂展人が主宰していた「青生舎」[注 9]に参加[4][注 10]、政治活動を展開[20]。1985年8月の奥付を持つ青生舎 編『元気印大作戦 : 学校解放文庫』(角川文庫)[注 11]に文章と24ページのマンガを寄稿しており[注 12]、おそらくこれが商業流通した山本の最初の漫画作品である。1988年、北海道初の原子力発電所である泊原発1号機の試運転開始阻止運動に参加し[注 13]、北海道庁前で初めて逮捕される[4][20][注 14]。札幌滞在中に同じく東京から参加していた鹿島拾市(加藤直樹)と知り合い意気投合、帰京後はともに「反天皇制全国個人共闘・秋の嵐」周辺の活動に参加する[56][59]。大学は1988年に中退[44]。
1989年(平成元年)、「秋の嵐」の活動が停滞していた時期に鹿島拾市、林哲生、幸渕史らとグループ「馬の骨」を結成し[11][60][61]、反原発・反管理教育・反天皇制などを訴えるライブやデモを主催、六四天安門事件に抗議する中国人留学生たちのデモへの参加[注 15]など活発に活動する[注 16]。「馬の骨」は1990年4月、仲間の一人となっていた太田リョウの逮捕[注 17]を契機として解散に向かい[10]、同年6月以降は「秋の嵐」のメンバーとなった[73][61]。
1990年11月3日、24歳の時、「秋の嵐」の一員として天皇「即位の礼」抗議パフォーマンスを原宿明治神宮前で展開している最中[注 18]、公務執行妨害容疑で仲間のうち4人とともに逮捕[注 19]。11月14日、山本のみ起訴され[注 20]、留置場[85]と拘置所で99日間を過ごした[86][4]。
1991年、逮捕・起訴により勾留された東京拘置所で山本直樹の短編マンガ「BLUE」を読んで感銘を受け[87][20]、保釈後、同作品で有害コミック規制騒動の矢面に立たされていた山本直樹に弟子入りを懇願して許され[88][6]、作品『僕らはみんな生きている』でアシスタントを務める[89][4]。また、大学中退後の1988年9月から1992年まで美術学校セツ・モードセミナーの夜間部[要出典]に就学[注 21]、修了している[要出典]。
2022年1月、新型コロナウイルスに感染し入院、2型糖尿病を患っていることをTwitter上で報告[182]。回復し退院したが[183]、約二カ月後の3月13日、39度の発熱をTwitter上で報告[184]、翌14日に心不全で死去[172][11]。55歳没。葬儀は3月22日、カトリック高円寺教会の聖堂でミサ形式でおこなわれた[注 50]。葬儀ミサの司式は晴佐久昌英司祭が務めた[187][15]。
没後の2022年4月5日から4月8日までの四日間、「秋の嵐」関係者などかつての仲間有志の主催[11]による回顧展「大『山本夜羽音』展」が高円寺の素人の乱12号店で開催された[188][189][17]。また同年12月末開催のコミックマーケット101で、山本のエッセイ漫画作品を収めた同人誌『迷走日記ボトムレス 追悼編』[190]が元妻のほしのえみこの編集により刊行された[191]。
山本の残した漫画原稿アナログ原画は横手市増田まんが美術館で保管される[129]。
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