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785-830, 平安時代初期の公家 ウィキペディアから
良岑 安世(よしみね の やすよ)は、平安時代初期の皇族・公卿。桓武天皇の皇子。官位は正三位・大納言、贈従二位。
良岑安世『前賢故実』 | |
時代 | 平安時代初期 |
生誕 | 延暦4年(785年) |
死没 | 天長7年7月6日(ユリウス暦830年7月29日、先発グレゴリオ暦830年8月2日、) |
官位 | 正三位・大納言、贈従二位 |
主君 | 桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇→淳和天皇 |
氏族 | 良岑氏 |
父母 | 父:桓武天皇、母:百済永継 |
兄弟 |
(異母兄弟) 安殿親王(平城天皇)、 朝原内親王、伊予親王、安世、 神野親王(嵯峨天皇)、 大伴親王(淳和天皇)、葛原親王、 万多親王、仲野親王、佐味親王、 坂本親王、賀陽親王、葛井親王、 甘南美内親王、伊都内親王、 菅原内親王、大宅内親王、高津内親王、安勅内親王、明日香親王、布勢内親王、長岡岡成、ほか (異父兄弟)藤原真夏、藤原冬嗣 |
妻 | 丹治氏娘 |
子 |
木蓮、長松、清風、宗貞(遍昭)、 高行、遠視、晨直、晨省、晨茂、行振、宮目姫 |
生母(百済永継)の身分が低いために、親王宣下を受けられずに成長した。延暦21年12月(803年1月)になると、良岑朝臣姓を賜与されて臣籍降下する。
平城朝において衛士大尉・右近衛将監を歴任し、大同4年(809年)嵯峨天皇の即位後に、従五位下・右近衛少将に叙任される。武芸に優れたことから武官を歴任する一方で、大同5年(810年)権右少弁次いで左少弁、弘仁2年(811年)蔵人頭と側近として嵯峨天皇に仕えた。その後、弘仁3年(812年)正五位下、弘仁5年(813年)従四位下・左衛門督と急速に昇進し、弘仁7年(816年)には32歳で、安世と同年齢で同じく天皇の側近であった藤原三守と共に参議に任ぜられ公卿に列した。弘仁12年(821年)従三位・中納言。嵯峨朝では『日本後紀』『内裏式』の編纂に参画したほか、『経国集』の編纂を主宰している。また、弘仁13年(822年)には以下を上疏し許されている。
弘仁14年(823年)淳和天皇の即位に伴って正三位・右近衛大将に叙任し、皇太子・正良親王(のち仁明天皇)の春宮大夫も兼ねる。天長元年(824年)守・介の任期を4年から6年に延長したほか、諸公卿の提言を入れて国司に関する新たな制度が定められているが、このうち以下については安世の提言が採用されている[2]。
天長5年(828年)大納言に至るが、天長7年(830年)7月6日薨去。享年46。最終官位は大納言正三位右近衛大将。没後、従二位が追贈され、嵯峨上皇はその死を悼んで挽歌2篇を詠んだという。
若い頃から狩猟を好んで、騎射を能くした。一方で書物の読解も得意とし、始めて孝経を読んだ際、儒教の教えここに極まると嘆息したという。また、歌舞・音曲など多くの伎芸も身に付けていたとされ、天長2年(825年)の嵯峨上皇の40歳を祝う宴では、中納言という高官ながら冷然院正殿の南階から降りて舞を踊ったという[5]。
漢詩に優れ、作品が『凌雲集』に2首、『文華秀麗集』に4首、『経国集』に9首が入集している。また、空海との親交でも知られ『性霊集』には安世に贈られた詩が多数収められている。
注記のないものは『日本後紀』による。
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