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日本の女優、モデル、タレント (1971-) ウィキペディアから
藤原 紀香(ふじわら のりか、1971年〈昭和46年〉6月28日[1] - )は、日本の女優、モデル、タレント。第24回(1992年度)ミス日本グランプリ[2]。
ふじわら のりか 藤原 紀香 | |||||
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2008年 | |||||
本名 | 片岡 紀香(出生名:藤原 紀香) | ||||
生年月日 | 1971年6月28日(53歳) | ||||
出生地 | 日本・兵庫県西宮市 | ||||
身長 | 171 cm[1] | ||||
血液型 | A型 | ||||
職業 | 女優、モデル、タレント | ||||
ジャンル | テレビドラマ、舞台、映画、CM | ||||
活動期間 | 1993年 - | ||||
配偶者 |
陣内智則(2007年 - 2009年) 六代目片岡愛之助(2016年 - ) | ||||
事務所 | サムデイ | ||||
公式サイト | 藤原紀香 オフィシャルサイト | ||||
主な作品 | |||||
テレビドラマ 『WITH LOVE』 『ハッピー・マニア』 『あきまへんで!』 『ナオミ』 『危険な関係』 『金曜日の恋人たちへ』 『億万長者と結婚する方法』 『昔の男』 『スタアの恋』 『大奥〜華の乱〜』 『ギネ 産婦人科の女たち』 『海の上の診療所』 映画 『ビッグタウンふたりの朝』 『CAT'S EYE キャッツ・アイ』 『GTO』 | |||||
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兵庫県西宮市出身。西宮市立生瀬小学校・親和中学校・親和女子高等学校[3]・親和女子大学文学部英文学科卒業[4]。高輪エージェンシー→バーニングプロダクション→サムデイ所属。お笑いタレントの陣内智則と結婚したが離婚し、歌舞伎俳優の片岡愛之助と再婚。
建築設計事務所経営の父、専業主婦の母と3歳下の弟がいる。紀香という名前は、和歌山県出身の両親が結婚前によく紀ノ川周辺でデートをしており、思い出深い「紀ノ川」の「香り」にちなんで命名された[3]。父は旧満洲国生まれであり、引き揚げの際に家族を失っている[9]。
子供の頃は自宅近くの野山を駆け回るようなやんちゃな性格で、いつも弟と一緒に男子がするような遊び[注釈 1]をしていたため、よく男子に間違えられていた[3][10][注釈 2]。また、小学生時代は、当時男子しか入れなかった少年野球チームに「なんで女子は入れないの?」とコーチに直談判して特別に入り、ポジションは3番ファーストだった[3]。その一方で『宇宙海賊キャプテンハーロック』『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』といった漫画、アニメに涙する少女でもあった[注釈 3]。
この頃父親が家族を連れて車で旅をするのが好きだったため、金沢や岡山など様々な観光地に行っていた。その道中渋滞に巻き込まれると、いつも車の中で一人用のカラオケセットで中森明菜やピンク・レディーの曲を歌って家族を楽しませていた[3]。歌が好きで小学校のころはピンク・レディーになるのが夢だったという。また海洋動物が大好きで、イルカショーのお姉さんも小学校の頃の夢だった[11]。思春期の頃は和歌山県白浜のアドベンチャーワールドに数え切れないほど通い、特に当時“オルカ”と名付けられたシャチのショーを見るのが大好きだった[3]。
中学・高校時代は神戸市まで阪急電鉄で通学。バスケットボール部に所属するスポ根少女だったが、高校では落語研究会にも所属[12]。
高校進学後から歴史が好きになり、歴史学者・考古学者の助手や世界史の教師になるのが夢だった。しかし17歳の時に先述のセンバツ高校野球の「セブンティーンリポーター」に応募し、「スポーツと私」という作文を書いて合格。甲子園球場から試合の模様を伝えたり、選手や彼らを支える人などをインタビューし、これが自身にとって初めてのテレビ出演となった。人に物事を伝える面白さを感じたことから、将来はアナウンサーやリポーターになることが夢になった[3]。
大学進学後、突然「ミス日本コンテスト」の書類選考を通過したとの知らせが届く。若い頃母が同コンテストに憧れながら断念した過去があり[3][注釈 4][注釈 5]、娘にその望みを託し「お見合いの箔つけにでもなれば」と内緒で応募していた。その後、応募者1722人の中から「ミス日本」35人の1人に選ばれ、「グランプリ」を獲得(優勝)[注釈 6]。
藤原は芸能界入りを望んだが両親から猛反対に遭い、後日親族たちも交えて話し合いの場が設けられて上京を諦めるよう説得を受けた[14]。その結果「1単位も落とさずに大学を卒業すること」と「芸能界の仕事は実家から通うこと」を条件に許可され、モデルデビューした[3][4]。高輪エージェンシーに所属後いくつかの企業のイメージガールに合格するが、1993年頃に水着姿の仕事を受ける際、両親から再び猛反対された。所属事務所が必死に両親を説得したことで何とか許可をもらい、東レのキャンペーンガールなどの仕事を担当[3]。モデル業に加えて、先述の『クイズ!紳助くん』など関西を中心にタレント活動をする。
自著である『藤原主義』によると、芸能界デビュー当初は兵庫県の実家から新幹線や飛行機で東京などの仕事場に通っていたが、1995年1月に発生した阪神・淡路大震災で知人を亡くして「やり残したことを後悔しながら死ぬのは嫌だ。これからは自分の夢に向かって生きていこう」と親元から離れて上京することを決意した。その時、家族会議が行われ、母から「あんたの帰るところはここやで。ダメやと思ったら自分で引き際を決めて帰ってきなさい」と言われ、3月[3]に上京。父親は最後まで首を縦に振らなかったが、トラックに荷物を積んで無言で運んでくれたという。その後しばらくは、学芸大学駅近くの6畳一間で暮らすが、オーディションになかなか受からず倹約生活を送った[3]。
本人は「和歌山は私の人生と切っても切れない、“第二の故郷”」と位置づけている[3]。両親が和歌山県出身であることから、「私には和歌山の血が流れている」[15]、「兵庫と和歌山のハーフ」と称することもある[8]。
幼い頃から休みの日には祖父母の家がある和歌山に遊びに行っていたため、「紀ノ川あたりは“私の庭”です」と評している[16]。ちなみに高校時代に歴史好きになったのは、和歌山の熊野三山[注釈 7]や熊野古道をよく散策したことがきっかけ[3]。
和歌山県ゆかりの有名人として、2015年に行われた第70回「紀の国わかやま国体」の開会式に参加した[17][18]。また同年「紀の川フルーツ大使」に任命された時は、本人は「とても嬉しかった」としている[3]。
女優を目指したのは1988年のドラマ『抱きしめたい!』で主演を務めた“W浅野”(浅野温子と浅野ゆう子)に憧れたことがきっかけ[12]。1993年に関西でタレント活動を始め、同年の映画『ビッグタウンふたりの朝』[注釈 8]主演で女優デビューした。
1995年に上京するが様々なオーディションに落ち続ける日々を過ごす。本人によると1997年にドラマ『ラブジェネレーション』への出演が転機となり、大きな仕事を依頼され始めたとのこと[3]。1999年の『ナオミ』でテレビドラマ初主演を務めた。
女優業では演技力を疑問視する声がマスコミからは上がっており、批判的な記事が掲載されることも少なくない[19][20][21][22]。また、ヒット作がないことから[23]、代表作は「バスロマン」[24][25][26]や「レオパレス」等[24][25][26][27]のCM、「披露宴」[26]と書かれたこともある。
サッカーに関してはW杯の日韓親善大使以外にも、2002年10月から12月に横浜FCのユニフォームスポンサー(NORIKA NET)に就任したこともあった。現在もトレーニングウェアのスポンサーとなっている。
格闘技にも精通し、フジテレビで放送の『K-1』の中継の司会を務めていた。また、2003年から2007年までフジテレビが独占放映中の2年に1度の『世界柔道選手権大会』の司会も務めていた(2007年は「スペシャルサポーター」として出演)。格闘技情報番組『SRS』の初代ビジュアルクイーンだったが、1999年に卒業。その際、藤原の卒業を祝って、アンディ・フグ、桜庭和志、フランシスコ・フィリォなどの著名格闘家が一堂に会し、それぞれエキシビションマッチや演武を披露した。
2004年、フジテレビのアテネオリンピックキャスターを務めた。
中央競馬所属の「ロイヤルキャンサー」という馬の名付け親でもある。同馬の馬主は藤原を支援してくれているイザワオフィス代表の井澤健である。
高校生時代は落語研究会に入り、「親和亭かつお」の名で落語をした。名前の由来は高校名の「親和」とアニメ『サザエさん』のキャラクターである「磯野カツオ」から[注釈 11]。
更に芸能界デビュー後は、先述の『クイズ!紳助くん』のアシスタント(1993年10月から1997年12月)を務めた際、司会の島田紳助とトーク中心に絡んでいた。このことが彼女のお笑いに対する理解や、女優として、コミカルな演技を求められた際の演技力向上に寄与し、プライベートでも深く影響を受けたとされている。上京を決意した時に、紳助から「東京は戦う場所や!決して甘く考えたらあかん!」と激励された。
2006年12月10日の陣内智則との結納時に、あまりにも報道陣が取り巻いていたため、藤原の母親がタクシーにうつむいて乗車した所、報道陣に影武者と書かれて写真を撮られているが、影武者のつもりはなかった。
2007年5月30日、ホテルオークラ神戸で結婚披露宴挙行。その模様は日本テレビ系で特番「完全独占中継!おめでとう!藤原紀香・陣内智則 愛と爆笑と涙の結婚披露宴」として放送[30]。司会は徳光和夫が務め[31]、乾杯の音頭に宇津井健、その後は郷ひろみの歌のプレゼント、舘ひろしからの祝辞、たむらけんじの「乱入」等で盛り上げた。さらに、陣内がコブクロの「永遠にともに」をピアノを弾きながら熱唱した[32]。
視聴率は関東地区では24.7%、2人の地元である関西地区では40.0%という高視聴率となった[30]。
離婚後の2016年の9月、再婚した片岡愛之助と挙式[33]。同月、都内で一度目と同じく徳光の司会による披露宴が行われた[31][34]。報道陣には非公開であった[35][36][37]。この2度目の披露宴については、2020年11月13日放送のTBS系「中居正広のキンスマ」で藤原がその経緯を語っている。藤原本人はしないと決めていたが、片岡が「それは違う」「自身が選んだ人を歌舞伎界に『よろしくお願いします』という披露目なので、しなければいけない」と藤原を諭したという[38]。
趣味は女磨き、書、陶芸、写真、スポーツ観戦、神社仏閣、動物園、絶叫マシン、温泉巡り[8]。他に加圧トレーニング[39]、映画鑑賞、タンゴ、スポーツ全般(特技も)、アロママッサージなど。
特技は歌、釣り、アニメ[8]、着物の着付け[注釈 12](着物着付け3級の資格を持つとされる)、英語検定2級。
好きな食べ物は寿司、刺身、薬膳料理などの和食全般、及びネクタリン、貴陽などの果物類[8]。また、毎朝色々な果物をミキサーにかけてジュースとして飲んでいる[15]。他に黒酢の酢豚、タイカレー、生クリーム100%のシュークリーム[8]。
好きな花はマドンナリリー、すずらん、ダリア、菖蒲、バラ、芍薬[8]。
好きな言葉は「三分前は過去」「一期一会」「NO PAIN NO GAIN」だという。
これまで藤原の健康美を追求する姿勢が注目を浴び、年齢を感じさせない美しさが話題になることが多いとされる。ただし本人は「年齢にあらがう」という言葉はあまり好きではなく、「将来は“笑いじわがすてきなお婆ちゃん”になることを目指しています」とのこと[4]。
※ここでは効果の有無に関わらず、本人が美容や健康のために取り入れているものを記述。
2013年9月、「特定秘密保護法案」を危惧する発言をブログで行った[42]。日本共産党の機関紙しんぶん赤旗にも寄稿している[43][注釈 13]。
ラジオDJパーソナリティである玉川美沙とは、同年齢で同じ関西人という繋がりで親交がある。2006年10月13日には、当時文化放送で放送されていた玉川の番組『玉川美沙 たまなび』にゲスト出演した。また、FM NACK5の『The Nutty Radio Show 鬼玉』で玉川から電話で「今日くる?」と言われ、スタジオがある銀座へ行って番組出演してしまったことがある。このエピソードは、番組の関連書籍『マル決本 3』に記されている。
週刊文春の「女が嫌いな女」ランキングでは、長年に渡って上位入りの常連である[44][45][46][47]。また、同誌の「嫌いな女優」部門[48][49][50][51]や「嫌いな夫婦」部門でも上位入りの常連である[52][53]。
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