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JWP女子プロレス(ジェイダブリュピーじょしプロレス)は、かつて存在した日本の女子プロレス団体。キャッチフレーズは「ピュアハート・ピュアレスリング」。
1999年2月、ジュニア選手を中心にリングネームの一斉改名を実施。改名した選手とリングネームは以下の通りである。
2003年、六木の道場で月1回開催している。道場マッチではエンターテイメント性を高めたユニークなルールの試合が行われている。後述の2カウントフォールマッチを始め以下のルールの試合が組まれている。
道場マッチはJ:COM足立の番組「あだちコミュニティーチャンネル」で中継したり足立区民向けに入場料を割引するなど地域に密着した興行を謳っている。
2006年、JWP女子プロレス道場を開放する形で開校したプロレス教室。
前年夏の体験練習に参加した中学生がきっかけとなりコマンド・ボリショイが考案して年明けに開講へ至った[1]。
現在は健康増進を主とする原則月1回の「スポーツ教室」と選手育成を主とする原則週1回の「プロコース」が開かれている。いずれも所属選手及び引退後、スタッフに転じた日向あずみが指導に当たっている。
出身第1号選手は大木アスカ、前出の中学生は第2号選手のピンキー真由香。
通常は道場で行われているが出張プロレス教室も実施されている。
スポーツ教室出身者も女子プロレスラーになるためには規定のオーディション及びプロテストを経る必要があるが、それまでに必要不可欠とされる受け身及び基礎体力を身につけることができるため早いデビューも可能となり中学生のうちに受講して中学校卒業後にデビューした選手も存在する。
1992年1月28日、ジャパン女子プロレスの解散後、同団体の子会社「JWPプロジェクト」を母体に設立。選手会の分裂で最終所属選手12人のうちJWPに加わったのは7選手で、それにジャパン女子の最終興行で一旦引退を表明したデビル雅美も加わった。さらに旗揚げ前に第1回「オーディション」を行って合格者の中から桑原三佳と小林美津恵が旗揚げメンバーになった。ジャパン女子でリングアナウンサーだった山本雅俊と同じく広報だった篠崎清の共同代表と言う形を採っていた。事務所は上野、道場は三郷に設置。
フォールカウントを通常の3から2に変更した「2カウントフォールマッチ」、サブミッションによるギブアップのみで勝敗を決する「オンリーギブアップマッチ」、ストリートファイトルールを擬した「ドレスアップワイルドファイト」などの実験的な試合形式を行ったこともある。
1992年以降、いわゆる「団体対抗戦ブーム」においては全日本女子プロレスとの間で互いの看板タイトルの争奪戦を繰り広げた。1993年4月11日にはダイナマイト関西&尾崎魔弓組が全日本女子のWWWA世界タッグ王座、12月6日にはキャンディー奥津が全日本女子の全日本ジュニア王座、1994年3月24日には全日本女子の下田美馬&三田英津子組がJWPタッグ王座を奪取。そして1995年8月30日には関西が全日本女子のアジャコングを破ってWWWA世界シングル王座に就いている。
ジャパン女子の解散後、選手会分裂によってJWPに加わらなかった選手たちから成るLLPWとは長く対立関係にあり1992年以降のいわゆる「団体対抗戦ブーム」においてもLLPWとの対抗戦は行われなかった。最盛期は全日本女子に匹敵するほどの人気を博していた。
1997年8月15日、アステールプラザで行われたタッグマッチでプラム麻里子が死亡するリング禍が起こった。その後、人気選手の退団が短期間に起きたため急速にファンの支持を失っていった(両国国技館等での大規模会場での興行を頻繁に行ったことで「運営が苦しいインディーだからこそ応援しよう」といった古くからのファンが離れていったことも理由に挙げられる)。12月5日、川崎市体育館でLLPWとの「交流戦」で「雪解け」を果たす。
2000年2月、全日本女子との業務提携を発表。全日本女子公認タイトルマッチのみならずジャパングランプリ公式戦をJWP興行内で行うなどした。8月、キックボクシングジム「アクティブJ」との業務提携を発表。同ジムから試合提供を受けていた。11月26日、ディファ有明大会を最後に一時活動停止。
2001年1月、代表の山本雅俊が退任するなど経営陣が変わった。2月18日、ディファ有明大会から活動再開。以降は東京キネマ倶楽部を始めとする小規模会場を中心に堅実な興行活動を継続している。
2003年、コマンド・ボリショイ筆頭たる選手会主導の運営に転換。
2010年10月5日、本郷にJWPメディア本部を兼ねた「LIVE&Bar ふらっとんTIMES」がオープン。
2011年1月、全日本女子が行っていた「タッグリーグ・ザ・ベスト」と同名の大会を復活させることになった。
2014年3月20日、キャリア5年未満のジュニア選手を中心とした興行「青春・無限大パワー」をレッスル武闘館で開催。
2016年11月5日、亀有最寄に移転することを発表[2]。名称は亀アリーナ。
2017年1月、運営会社がボリショイが代表取締役社長を務めるPURE DREAMに変更。
2月8日、ボリショイ、KAZUKI、Leon、中森華子、勝愛実、ライディーン鋼、藤ヶ崎矢子が記者会見を行って運営会社だったJWPプロデュースとの契約が4月いっぱいで終了して諸事情により更新することができないため独立して新たな女子プロレス団体を設立することを発表[3]。
3月28日、新団体名がPURE-J女子プロレスになったことを発表[4]。
JWPは団体対抗戦ブームより活動を続ける数少ない女子プロレス団体の1つであるため他団体との交流は比較的多く現在は国内で活動するほとんどの女子プロレス団体と何らかの交流を持っている。JWPの自主興行への参戦は所属が再び増加した現在は後楽園ホール大会を除けば減少傾向にあるがJWP所属選手の他団体参戦については主にOZアカデミーなど所属選手の少ない女子プロレス団体やアイスリボンのような興行数の多い女子プロレス団体へ積極的に参戦させている。
2011年12月23日、昼に開催した後楽園ホール大会をもって引退するはずだった米山香織がセレモニー中に引退撤回という前代未聞の騒動を起こして引退ロードのチケット払い戻しなど会社に損害を与える結果となった。(詳細は米山香織#引退撤回騒動)、この騒動の影響で大会終了時間が大幅に押して夜に開催される新日本プロレスの開始時刻が遅れる事態に発展。この日、新日本に参戦したKAIENTAI DOJOのTAKAみちのく代表がJWP及び米山を糾弾。前述の髪切りマッチで悪化させた大日本プロレスとの関係も更に悪化した。
JWPではこのような事態が2度と起こらぬよう対策のひとつとして「引退興行のスキーム」を整備した。大まかな概要として、それまで引退の意思確認は口頭のみであったものを文書での署名で記して、これにより引退を決定したものとして撤回した場合の罰則規定も検討している。
2012年5月22日、JWP実行委員会が旗揚げ20周年を期に発表[6]。
JWPが1年間を通じて活躍した選手を表彰する制度。各賞はファン投票で決定される。
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