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つのだ☆ひろ

日本の歌手、ドラマー、作詞家・作曲家、ラジオパーソナリティ。有限会社角田兄弟社代表取締役。秦雄喜の末男。 ウィキペディアから

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つのだ☆ひろ(つのだ ひろ 、1949年昭和24年〉8月1日 - )は、日本歌手ドラマー作詞家作曲家ラジオパーソナリティ。本名:角田 博民(つのだ ひろたみ)。有限会社角田兄弟社代表取締役。名前の「☆」は発音しない。

概要 つのだ☆ひろ, 出生名 ...
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経歴

両親の疎開先・福島県東白川郡塙町で生まれる[1]。兄4人と姉3人を持つ8人兄弟の末っ子[1]。生後1歳4ヵ月で東京に戻り[1]、以降は新宿十二社で育った[1]。次兄に漫画家つのだじろう、末兄(四兄)にリュート奏者のつのだたかしがいる。実家では両親が理髪店を営んでおり、両親は子供たちを食いっぱぐれのない理容師にする教育方針だったが、次兄のつのだじろうが漫画家として売れっ子となったため「食べていける職業ならいい」と方針を変更したという[2]

中学時代からドラムを始め、高校2年のときにジャズドラムとリズム理論を富樫雅彦に師事。高校3年で鈴木弘とハッピー・キャッツでプロデビューを果たす。卓越したテクニックと日本人離れしたパワフルなドラミングが評判を呼び、1960年代後半からジャズ・ピアニスト佐藤允彦のトリオとの活動を皮切りに、渡辺貞夫カルテットジャックス岡林信康成毛滋、フライド・エッグ、ストロベリー・パス五つの赤い風船赤い鳥サディスティック・ミカ・バンド浅川マキ加藤登紀子中島みゆき矢野顕子など、日本を代表するさまざまなミュージシャンたちと共演しドラマーとしての地位を確立する。

また、1971年には歌手として『メリー・ジェーン』をロングヒットさせ、そのソウルフルな歌声で一躍脚光を浴びる。1972年には結成当初のサディスティック・ミカ・バンドに参加したが、短期間で脱退し高橋幸宏が後任となった。同年に「キャプテンひろ&スペースバンド」を結成し、1972年12月24日のテレビ神奈川『ヤング・インパルス』に出演[3]している。

その後も、清水健太郎ヒット曲失恋レストラン』『帰らない』をはじめ、研ナオコの『風をくらって』、南沙織の『街角のラブソング』、田原俊彦の『騎士道』など、作詞・作曲家としても活動し、さまざまな歌手に楽曲提供も行っている。

各国の著名ミュージシャンと共演するなど幅広い活躍を行うほか、現在はドラムスクールを開催したり、東京都文京区で音楽スクール「WILD MUSIC SCHOOL」「ULTRAC(ウルトラック)」を開設している。

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☆について

「つのだ☆ひろ」の「」は、語呂が悪かったためと姓名の区切りをわかりやすくするために付けた「・」(中黒)の代わりである。「つのだひろ」では「つ・のだひろ」や「つの・だひろ」などと誤読されることがあったためだが、「☆」を付けた当初は「つのだほしひろ」と誤読されることもあった。現在でも爆笑問題太田光など、一部のお笑い芸人がボケてわざと「つのだほしひろ」と読むことがある。

元々は「」付きの「つのだ★ひろ」であったが、塗り潰しは黒星縁起が良くないということで、白抜きの「☆」に限定された。「★」付きの「つのだ★ひろ」は誰でも許可なく使うことが本人から許可されている。[要出典]

エピソード

ディスコグラフィ

要約
視点

シングル

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アルバム

オリジナル・アルバム

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ライブ・アルバム

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ベスト・アルバム

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タイアップ

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みんなのうた

2曲とも、つのだ歌唱によるCD化はしておらず、番組のコンピレーションアルバムにはカバー音源で収録されている。

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楽曲提供

フジテレビママとあそぼう!ピンポンパン

  • 「ドリーム・ボーイ」(1979年)

(作詞・作曲:つのだ☆ひろ、編曲:小笠原寛、歌:ビッグ・マンモス

NHK大!天才てれびくん

  • 「奇跡の子」(2013年)

(作詞・作曲・編曲:つのだ☆ひろ、歌:金子隼也長谷川ニイナ、島田太一、野田真哉、岡田結実中里萌黒澤美澪奈相澤侑我

社歌など

作曲

名古屋鉄道・名鉄グループ

編曲

常磐炭礦(現・常磐興産

  • 常磐炭礦礦歌(社歌)「我等の力」(作詞:野村俊夫、作曲:古関裕而、編曲:つのだ☆ひろ)[8]
  • 常磐炭礦野球部応援歌「若きいのち」(作詞:野村俊夫、作曲:古関裕而、編曲:つのだ☆ひろ)[8]
楽譜の原譜は常磐炭礦のいわき市の事務所で保管されていたが、1960年代半ばに火災で焼失し、以後は社員らによって歌い継がれてきたが、野球部の解散や炭鉱事業の完全廃止などもあり、メンバーの高齢化で途絶える懸念があった[8]。そのため、2020年につのだの協力を得て伴奏付きの楽曲として残されることになった[8]

出演

アニメ映画
舞台
ラジオ番組

脚注

関連項目

外部リンク

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