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大澤誉志幸
日本のシンガーソングライター、音楽プロデューサー(1957-) ウィキペディアから
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大澤 誉志幸(おおさわ よしゆき、1957年〈昭和32年〉10月3日[2] - )は、日本の歌手、作曲家、音楽プロデューサー。本名同じ。東京都杉並区高円寺出身。身長170cm。血液型AB型。2歳違いの兄が1人いる[3]。
ソルチ・ミュージック・エンタテインメント所属[1]。1999年までは大沢誉志幸(読みは同じ)名義で活動していた。
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来歴
要約
視点
学生・アマチュア時代
杉並第八小学校を卒業[3]。兄がグループ・サウンズを聴いていた影響で中学生の頃から音楽に興味を持ち、ボブ・ディランやドゥービー・ブラザーズ、バッファロー・スプリングフィールドなどのロック・R&B・ソウル音楽を始めとしたブラックミュージックを聴き始め、最初は父親にギターの初歩的な弾き方を教わり、10代でダンパや地元のロック喫茶などにも行くようになる[3][4]。1976年、駒澤大学文学部歴史学科に入学[5]。軽音楽のサークルに入る[3]。在学中、初期はブルーグラスをやっていたが、オーティス・レディング、ジョン・コルバートなどのR&Bに傾倒。大学3年の1978年にロックバンド「クラウディ・スカイ」を結成し、大沢はボーカル、ギター担当した[注釈 1]。ライブ活動を始め、多くのコンテストで優勝。渡辺プロダクションのオーディションを受けてレコード・デビューが決まる[3]。卒業後の1981年4月にビクター音楽産業からデビューを果たす。しかし、結束力が弱いため、ヒット曲を出すこともできずバンドの方向性を巡って他のバンドメンバーとトラブルになったことから、アルバム1枚(『明日はきっとハレルヤ』)とシングル2枚(「悲しきコケコッコ」「私は蝉になりたい」)を残すのみで同年末に解散。
バンド解散直後の1982年1月、大沢は印税を前借りしてその金で単身渡米する。ニューヨークのクリストファー・ストリート近辺のロフトで約1年間過ごし、他のアーティスト(特にアイドル歌謡曲)へのプロデュースおよび楽曲提供の傍ら、アポロシアターやジャズクラブ・美術館等に入り浸る日々を送っていた。
作曲家&ソロ活動
帰国後、EPIC・ソニーのディレクターに才能を見出され、ミュージシャン契約を結び、中森明菜や沢田研二などの楽曲提供とプロデュースを手がける。楽曲提供と並行しながらソロ活動を始め、1983年6月22日に「大沢誉志幸」名義でシングル「彼女には判らない (Why don't you know)」、アルバム『まずいリズムでベルが鳴る』でソロ・デビュー[6]。
1980年代は作詞家の銀色夏生とタッグを組み、アルバム『CONFUSION』からのシングルカットである「そして僕は途方に暮れる」をはじめ「ゴーゴーヘブン」「君の住む街角」などのシングルヒット、アルバム『Serious Barbarian』のシリーズ三部作やオムニバス・アルバム『Dance To Christmas』の企画などで、鈴木雅之、佐野元春、大江千里、TM NETWORK、渡辺美里等と並びEPIC・ソニーを代表するミュージシャンとして活躍した。
1989年に発表した「STOP&ギミーラブ」から、音楽性がスタイリッシュなAORサウンドへと移行し始め、1995年にイーストウエスト・ジャパンに移籍すると『Love Healing』『Loveduce』『Love Life』の「LOVE3部作」を発表した。1998年末にレーベルの枠を越えた2枚組ベスト・アルバム『I.D Y BEST COLLECTION』を発表した後、1999年3月5日、「悦楽の15年 最後のシャウト」(東京国際フォーラム ホールC)を以て、大沢誉志幸としての歌手活動を終了、その後数年間は作曲家や音楽プロデューサー活動に専念する。
近年の活動
2002年(平成14年)にボサノヴァ等のブラジル音楽を基調にしたサウンドを打ち出し、「大沢誉志幸」から戸籍上の表記でもある「大澤誉志幸」に改名して歌手復帰。2003年には古巣のエピック25周年記念のイベント「LIVE EPIC 25」にも出演し、ソロデビュー20周年盤『Y』をエピックから発表した。2004年からは自身のレーベルSORTEに腰を据え、『Favorite』を軸にした活動を行っている。
2011年にはフジテレビ系列『僕らの音楽』に出演し吉川晃司とのツインボーカルで「LA VIE EN ROSE」(実際は「LA VIE EN ROSE 2011」)を披露し、のちに吉川のベスト・アルバム『SINGLES+』に収録される。またFNS歌謡祭にも出演し、同曲と「そして僕は途方に暮れる」を吉川とのツインボーカルで披露した。
2012年からは、「渡り鳥ツアー」というアコースティックツアーを開始。日本全国を回っている。
2013年からは、山下久美子とアルバム制作やライブを行うなど、精力的に活動。
2018年(平成30年)の3月に東京から始まった「SASURAI TOUR 2018」で日本全国を巡業し、10月・11月には、東海・信州・北陸を中心にライブを行っている。1月には、デビュー35周年記念のライブDVDを発売した。
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人物
作曲は全て本人が行い、作詞は他の作詞家が担当することが多いが、楽曲によっては作詞・作曲の双方を本人が担当する場合もある[注釈 2]。また、大澤の楽曲にはリカット・シングルも比較的多く、特にEPIC・ソニー在籍時代は『SCOOP』『LIFE』『SCRAP STORIES』を除いてシングルカットされたシングルが必ず一曲存在している[注釈 3]。
ボブ・ディランやオーティス・レディング等からの影響を受けたハスキーなボーカル、R&Bやソウルミュージックを巧みに取り入れたスタイリッシュなロックサウンドを特徴としており、特に初期の楽曲はロックサウンドを前面に打ち出した楽曲が多い。また、独特のコーラスワークやスキャットも特徴としている。その一方、ファルセットは出せず、全て大澤自身の地声で歌っている。
かつて同じレーベルに所属していた鈴木雅之、鈴木聖美、佐野元春、岡村靖幸、バブルガムブラザーズや大澤がプロデュースを手掛けた相手の一人として渡辺プロダクション時代の後輩だった吉川晃司等と親交が深い。特に鈴木姉弟、岡村、バブルガムブラザーズとは1987年と1988年に大澤がプロデュースを手掛けたジョイントコンサートやオムニバス・アルバムで共演している。また、大澤と同じ大学出身で、かつミュージシャンである後輩として久保田利伸やバブルガムブラザーズのBro.TOM等がいる。
高円寺出身であることから、毎年夏季に行われる高円寺阿波踊り祭りにも興味が強く、青年時代には必ず参加していたという。阿波踊りで一番大事なコツは、腰よりも“顔”で、「顔が作れない人はヘタ。人をおもしろおかしくさせるために踊るんだから、百面相してください。次は“手”。年代によって、切れ味をねらうか、もしくは円を描くような、枯れた境地に入るか。若いうちは、ピシッピシッっと切れがよくないと絵にならないね」という持論をもつ[7]。
「誉志幸」の名前の由来は、生まれた病院名が「美誉志病院」だったのと、父親の名前「幸康」からとられたという[7]。父は東芝勤務のサラリーマンだったが、大澤が小学生の頃、東芝が三億円事件に巻き込まれ、ボーナス無しの貧しい生活を余儀無くされていた[3]。
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ディスコグラフィ
要約
視点
シングル
12inchシングル
配信限定シングル
未発売シングル
コラボレーション・シングル
デュエットシングル
アルバム
オリジナル・アルバム
ミニ・アルバム
セルフカヴァー・アルバム
ベスト・アルバム
ライブ・アルバム
オーディオブック
コラボレーション・アルバム
映像作品
タイアップ
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楽曲提供
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あ行
か行
さ行
た行
な行
は行
- バブルガムブラザーズ
- そんな今夜悲しくてLOVESICK
- 静かな夜〜BLACK&WHITE〜
- 原田知世
- 続けて
- ビートたけし
- BIGな気分で唄わせろ
- ハードレインで愛はズブヌレ
- ビートたけし & たけし軍団
- 抱いた腰がチャッチャッチャッ
- 哀しい気分でジョーク
- 捨てきれなくて
- ポケットから堕ちた夜
- SUNSHINE
- 少しずつ消えていけYesterday
ま行
や行
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プロデュース
映画出演
ドラマ出演
未放送ドラマ
ラジオ
本
- Curve in New York(CBS・ソニー出版、1987年1月)
- Curve in Spain(CBS・ソニー出版、1987年1月)- 写真集(撮影:岩岡吾郎。詩:銀色夏生)
- ラブ・ライフ(アスキー、1998年5月)
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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