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岡林信康

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岡林 信康(おかばやし のぶやす、1946年昭和21年〉7月22日 - )は、日本フォークシンガーシンガーソングライター血液型はO型(本人はA型に近いO型と語っている)。滋賀県近江八幡市出身[1]

概要 岡林 信康, 生誕 ...

実家は教会で、父親は牧師。現在は京都府亀岡市在住。

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経歴

要約
視点

生い立ち

父の岡林勝治は新潟県の出身で、30歳まで新潟で農業をしていた[2][3][4]。しかし、閉鎖的な村社会が嫌になって故郷を飛び出し、滋賀県紡績工場に就職[4]。その時期に宣教師ウィリアム・メレル・ヴォーリズに出会い、牧師となるため大阪神学校に通った後、近江八幡市の田んぼのど真ん中に西洋建築の教会を建てた[2][3](近江金田教会の礼拝堂は現存し、2012年(平成20年)に国の登録有形文化財に登録されている[5])。当地で信康は生まれる[1]近江兄弟社中学滋賀県立八日市高等学校を経て、1966年同志社大学神学部入学。牧師を目指していたため、音楽はクラシック讃美歌だけしか聴かず[1]、他は全て悪魔の音楽と思っていたという[1]。熱心なキリスト教信者であったが、実家の教会の不良少女の扱い(お祈りをさせないなど)に疑問を感じ「脱出」[3]、その後社会主義運動に身を投じる中で、高石ともやに出会いギターを始める。

フォークシンガーとして

1968年、大学をやめ、工事現場で人夫として働く[1]。同年「高石音楽事務所」に所属[1]、労音(勤労者音楽協議会)回りを始める[1]。京都で行われた第3回フォークキャンプに参加。同年9月、山谷に住む日雇い労働者を題材とした「山谷ブルース」でビクターよりレコード・デビュー。翌年までに、「友よ」「手紙」「チューリップのアップリケ」、「くそくらえ節」、「がいこつの歌」など、名作・問題作を発表。その内容から、多くの曲が放送禁止となる。当時、岡林とともに高石ともや、高田渡加川良五つの赤い風船なども活躍し、プロテスト・フォーク、反戦フォークが若者の間でブームとなった[6]。中でも岡林は一世を風靡し、「フォークの神様」と言われたが[1]、労音との軋轢や周囲が押しつけてくるイメージと本人の志向のギャップ(同時期、岡林はすでに直接的なプロテストソングに行き詰まりを感じており[1]、ロックへの転向を模索していた)などにより1969年9月、3か月余りのスケジュールを残したまま一時蒸発した[1][2]。書き置きは「下痢を治しに行ってきます」[2]長野県材木切り肉体労働に従事[1]

岡林は『月刊明星』1976年12月号のインタビューで「熱心なクリスチャンやったオレが、たまたま信仰に疑問を持ち、その相談に東京の山谷のドヤ街で活動していた牧師を訪ねたのが、すべての始まりやろうね。その山谷の状況を通して、政治に目覚めたんや。そいで、高石友也らの反戦フォークに興味を持って歌い始めた。1967年に作った『くそくらえ節』が最初の曲やろうな。しかし、オレはイデオロギーのために歌を歌う、つまり、フォークってのは何かを訴える手段としてしか見てなかったように思うんや。そんな中で、労音なんかとの政治的対立などもあって、つらい時代やったな」などと述べている[7]

1970年4月、コンサートに再登場[1]、「ごめんやす。出戻りです。お互い堅くならんといきましょう」と話した[2]。この時期からボブ・ディランに影響を受けたロックを[1]、当時無名だったはっぴいえんどをバックに展開し始める[1]ヒッピーを目指し[1]、それまでの労務者風のスタイルとは似ても似つかぬ黒い革ジャンにピッチリしたスラックスできめた[1]。「それで自由になったのかい」「私たちの望むものは」「自由への長い旅」などの作品を発表、喝采を浴びて東京に移り住み、一夫一婦制ナンセンスを唱えて自由なヒッピー風生活をするが行き詰る[2]。はっぴいえんどとのツアーは、1970年9月から翌年の1月21日まで続いた。

1971年8月1日にリリースされた3rdアルバム岡林信康アルバム第3集 俺ら いちぬけた』を聴いた素人時代の富澤一誠が『新譜ジャーナル』1971年11月号の読書コーナーに投稿し[8]、世に出ようという時期で先鋭的な内容ではあるが「俺らいちぬけたくないよ 岡林さん」というタイトルで、特に「田舎のいやらしさは」で始める先行シングル俺らいちぬけた」に対して、「あんたは自分のことだけ考えればいいってもんじゃない。あなたの後ろには何万いや何十万という弱い人々がついている。あんたに頼り切った人々が。その人々を裏切るようなことをしちゃ駄目だ。岡林さん、俺らいちぬけた、なんてナンセンスだ。もう一度考え直してくれ。人間関係、現実社会を基盤にしなくちゃ何も得られないんだ。単なるあんたの頭の中で築き上げられたモロくてはかないユートピアになってしまうんだよ」などと400字近い文でボロクソに岡林を貶した[8]

1971年日比谷野外音楽堂での「岡林信康自作自演コンサート 狂い咲き」および、「第3回全日本フォークジャンボリー」を最後に、再び表舞台から姿を消す[1]

4年間の農耕生活

やがて岡林は人や街を嫌い、被害妄想、及び自閉症が進行[1]三重県で農業共同体を営んでいた山岸会を見学し、「ヤマギシズム」に傾倒[2]。自然の環境に身を置こうと岐阜県中津川近くの山村に移り住み、約1年後京都府綾部市の総戸数17戸の過疎村に居を移し農耕生活を始める[1][2][3][9]

農村に移住して、村の生活の中でリラックスし始めていたが、ギターに触れることもせず、歌手であることも忘れようとしていた(たまにゲスト出演などで他人のコンサートに出ても円形脱毛症になることがあった)[10]。そんな中つぶれかけの蔵の中で座禅・瞑想を30分ほどするようになり、半年ばかり過ぎた頃、誰かがポンと肩を叩いたような感覚になり、「無理をしてきたなぁ。もうこれから無理をする必要はないんだよ」という声が聞こえ、突如背中に電気が走ったようになり、涙がとめどなく溢れてきた。30分ほど泣き続け、体中をしばっていた鎧が粉々に飛び散ったような爽快感が広がっていくようであった[10][11]。それ以降、どんどんリラックスするようになり、いろんな価値観が変わっていくようになり、自分の歪をもっと知りたいと精神分析の本も読み漁ったりする中、新しい音楽を作る気持ちになった[10][11]

1973年CBS・ソニーへ移籍し、活動を再開[1]松本隆をプロデューサーに迎え制作されたロック路線のアルバム『金色のライオン』、『誰ぞこの子に愛の手を』などを発表。いかに今まで無理してきたかを普通の表現法では無理だったため、ディラン風の暗喩を多用した「あの娘と遠くまで」、「26ばんめの秋」などの曲などを発表するが、相変わらず「フォークの神様」を期待するファンは多かった[10]

復帰後

数年間の農村生活の間、文明との接点は古ぼけたステレオだけ、次第に肩肘から力がとれた[2]。知人である黒田征太郎宅のテレビで、西川峰子の「あなたにあげる」を聴いて感激[2][12][13]。「おれのものも歌だが、演歌もまた歌だ。歌にはいろいろな役目がある」と、ぽつりぽつりと自分だけの演歌を作り始めた[2]。作り始める中、いろんな演歌のレコードを買いあさり、演歌にのめり込んでいる中、自身の音楽のルーツが賛美歌やクラシック音楽だけではなく、ラジオから流れて聴いていた演歌にもあったことに気づく[12][13]。「月の夜汽車」「風の流れに」が美空ひばりに採用される。4年間にわたる農耕生活を終え[9] 山を降り亀岡市に転居。

1975年には、岡林本人も日本コロムビアに移籍し、演歌路線のアルバム『うつし絵』をコロムビアより発表。美空ひばりの後押しも受け、12月に中野サンプラザで久しぶりのワンマンコンサートも行った[14]。日本コロムビアでは他に、新録の2枚組ベスト・アルバム『岡林信康』、私小説的弾き語りの『ラブソングス』を発表。この頃、サザンオールスターズがブレイクする前のアミューズに所属していた[1][15]

音楽評論家の中村とうようが「岡林が演歌をやめてフォークに戻ってきた」と評し、再び「フォークの神様」に戻ることを危惧するも、久しぶりにギター1本で約1年100箇所あまりの村や町を旅した[16]。昔の自分を求める観客との間に微妙なズレを感じつつも、どこの会場も大盛況だった[16]。弾き語りを100箇所も続けていると、他のミュージシャンと一緒にプレイしたくなり、そんな想いが強くなった頃、ニール・セダカポール・アンカといったアメリカン・オールディーズにひかれ、今度はこれらの曲を聴きまくった[16]。子どもたちがファンであったピンク・レディーのレコードをかけてくれとしょっちゅうせがまれた影響もあり、歌謡ポップス・アルバムを作ってやれと捻り出して作ったアルバム『セレナーデ』を発表[16][17]。これを皮切りに、パロディ色の強い、ニューミュージック路線を展開した[18]

古巣のビクターのレーベルであるインヴィテーションに移籍し、さらに『街はステキなカーニバル』、『ストーム』、『グラフィティ』を発表し路線を深めていく。「ミッドナイト・トレイン」、「Good-bye My Darling」、「山辺に向いて」などがこの時代の代表曲である。

1980年、テレビドラマ『服部半蔵 影の軍団』のエンディング・テーマである「Gの祈り」を発売。しかし、『ストーム』制作の際、プロデュースを担当した加藤和彦に、それまでの作詞の根本としていた部分を「逃げ」だとして批判されたことで、再び新たなスタイルを模索することになる。

1980年代中頃より、メジャーレーベルとの契約が切れたことなどもあり、往年のフォークスタイルであるギターとハーモニカによる弾き語りツアー「ベアナックルレビュー」を開始、全国を巡る。また、この頃より、封印していた初期の曲の一部を再び歌うようになる。

エンヤトットの完成〜現在

1981年ロンドンキング・クリムゾンロバート・フリップに「俺たちの真似じゃない、日本人のロックを聴かせろ」と言われたことで、日本民謡的なリズムに乗せた独自のロック「エンヤトット」を思案[18]。平野融らとともに模索を続ける中、韓国の打楽器集団サムルノリと出会い、開眼する。

1987年、自主制作テープ『エンヤトットでDancing!!』を発表。その後、東芝EMI日本クラウンなどでアルバムを発表。全国各地でコンサートを行う。

「古いファンからはあまり喜ばれなかった」と本人が語る「エンヤトット路線」ではあったが、2007年10月20日に36年ぶりの日比谷野外音楽堂ライブ「狂い咲き2007」を行うまでに至る。また、前述の日比谷野音ライブに前後した時期から、10年以上「封印状態」にあったURCレコード時代の音源を含む全アルバムが、紙ジャケットで再発された。また、岡林を敬愛するサンボマスターとの競演や、フジロックフェスティバルCOUNTDOWN JAPANなどのロックフェスへの参加、ロック時代の曲を数十年ぶりに再演するミニライブの開催、数々のテレビ出演など、より積極的な活動を行っている。

2009年九段会館のコンサートで「越後獅子の唄」をカバーしたことをきっかけに、翌2010年、EMIミュージック・ジャパンから美空ひばりのカバー曲を中心とした『レクイエム〜我が心の美空ひばり〜』を発表。5月には久々となる全国ツアーも行った。

2011年、「岡林信康コンサートツア-2011」を行い、東名阪のZEEPでライブを行った。

2012年、14年ぶりに作詞・作曲をした自主制作シングル「さよならひとつ」を発表した。

2016年にはフリー・ジャズ山下洋輔とも共演した。

2020年11月2日作詞家松本隆のデビュー50周年を記念したトリビュート・ライブ『松本隆 50周年 風街古都 コトノハ』にサプライズゲストとして登場。松本がプロデュースした岡林のアルバム『金色のライオン』にも収録され、タイトルも松本が命名した「26ばんめの秋」を披露した[19]

2021年3月3日、1998年発売の『風詩』以来23年ぶりのオリジナル・アルバム復活の朝』を発売する[20]

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人物

要約
視点

名前の由来

父方の姓は「下杉」といい、上杉謙信の子孫だったとのこと[4]。そのため、本来「下杉信康」だったということになると著書に書いている[4]

信康という名前は、キリスト教信仰の「信」と、三歳で病死した兄がいて、次に生まれてくる子は健康であってほしいという願いから「康」がとられ、「信康」となった[4]

楽器との関わり

小さい頃、父から無理やりピアノを習わされた(教会で賛美歌のオルガン奏者をみつけるのに苦労し、自分たちの子どもにそれをやってほしいという思いから、姉も弟も習わされていた)が苦痛で、小学校二年から始めて三年間でバイエル四十番までしかいかず、教える先生もさじを投げるほどだった[21]

ギターを始めたのは、高石ともやがきっかけではなく、浪人していた頃友達がギターを置かしてくれと持って来たのを、その友達に「ギターにはコードっていうのがあって、コードはこうやって弾くんだよ」と教えてもらい、これでグループサウンズの歌なんかができるんだぞって言われ、弾き語りをしたり、作曲をしたりしたと言う。加山雄三の詩に違うメロディーをつけて作曲もしていた。加山雄三に影響を受けてギター始めたっていうのは格好悪いから、いちいち訂正はしていないが、本格的にやり始めたのは高石ともやを聴いてから[22]。初めて買ったギターは、山谷の質屋で3,200円だった[23]

被差別部落

被差別部落に関わるきっかけは、山谷での日雇い労働での経験から来ており、それまで見たことのない人々や社会にショックを受け、地元の滋賀に帰ってから、琵琶湖のほとりでテントを張り、自問自答していく中で、自分の身近にある社会問題に目を向けたところ、それが被差別部落問題だった。そのことから、山谷に行ったり来たりしながら、地元の被差別部落区域でも日雇い労働を経験しながら、部落解放運動にも参加した。そのとき生れたのが初期の傑作「山谷ブルース」「流れ者」「手紙」「チューリップのアップリケ」である。この部落差別をテーマにした「手紙」「チューリップのアップリケ」は、放送禁止歌の代表例といわれる(実際のところ、放送禁止になっている歌というものは存在しない。抗議などを恐れての自主規制・自粛である)。

作品の特徴

岡林の作品の特徴として、「くそくらえ節」のように関西弁東京弁を混ぜた歌詞もあれば、「山谷ブルース」のように東京弁だけを使用した歌詞もあったりする。

前述のように、プロテストソングとしての評価は高く、先輩の小室等は、「岡林、よくぞ歌ってくれた」と『昭和は輝いていた』で絶賛していた。ただし「フォークの神様」の称号が、一人歩きする苦悩も垣間見たという。

便利や快適さへの懸念

便利や快適さを追い求めることに対しての危惧については、様々な著書で訴えている[24]。京都の過疎地区で暮らした際に、自然農法を始めたのもそれで、化学肥料、農薬による弊害、機械による農業への否定などから、自分でどうにか自然農法の、無農薬、有機肥料を使った農法をやってみたかった。現在は、化学肥料も完全否定ではなく、農薬は極力使わないにして、化学肥料もタイミングを見計らって少量だけ使っている[25]

動物

元々動物好きで、小さい頃はを買っていたが、50を過ぎた辺りでテレビで鳩が登場する番組があり、それを見てからまた鳩を飼いたくなり、34年ぶりに鳩小屋を作ってドイツ鳩を飼い始めた[26]

金魚も長年飼っており、金魚の歴史についても詳しい[27]

日曜大工

京都の山奥の農村で暮らしていた頃から日曜大工が好きで、それは今でも続いている。特に酒をやめてからは、以前に増して日曜大工をする時間が増え、テーブルや椅子を作りすぎて「置き場所がない、邪魔になる」と妻に怒られたりもしている[28]

昔はコンサートの後、店でさんざん呑んだ後、「ホテルに帰ったら、俺の部屋に集合!」と号令をかけるほどお酒好きで、あのC.W.ニコルが「岡林はバケモノだ」と驚くほどの酒豪だったが、年を取っても若い頃と同じ量の酒を呑んでおり、段々と体にこたえるようになり、今はやめている[28][29]。おかげで、コンサートでも以前より声が出るようになったと周りから言われ、もう酒飲みには戻れないと言っている[29]。「それぐらい強い俺が、ひばりさんの前では子どもだよ」と例えるほど、美空ひばりは酒に強かったという[29]。酒をやめたら人生の楽しみが消えるんじゃないかと心配していたが、前述のように、日曜大工が楽しくて、体がいくつあっても足りなくなるほど忙しくなった[28]

小室哲哉の5億円詐欺事件

小室哲哉が逮捕された「5億円詐欺事件」からは、多くを学んだという。「彼も最初は「いい歌ができた」という達成感が大きな喜びだったのに、いつの間にかたくさん売れるということが目的にすり変わっていった。考えたら、エンヤトットは売れないじゃないかと地団駄を踏んでいる自分も小室君と同じじゃないか。だから評価や売れることを目的にするのはやめようと思った」[30]

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ディスコグラフィ

要約
視点

シングル

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アルバム

オリジナル・アルバム

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ライブ・アルバム

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セルフカバー・アルバム

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ベスト・アルバム

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オムニバス・アルバム

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企画・アルバム

  • レクイエム〜我が心の美空ひばり2010年1月20日 (2010-01-20)、ユニバーサルミュージック、TOCT-26935)   美空ひばりのカバー・アルバム

ボックス・セット

  • 岡林信康withはっぴいえんど 7インチBOX2018年7月25日 (2018-07-25)、FUJI)   岡林信康がはっぴいえんどと共にURC時代にシングル盤としてリリースしたシングルを収納した限定7インチボックス・セット。ボーナス・レコードとして、はっぴいえんどとの最後のスタジオ録音となった「私たちの望むものは」を加えた6枚組。

ビデオ

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提供(カバー)作品

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公演

要約
視点

飛:飛び入り、オ:オムニバス、ゲ:ゲスト、ワ:ワンマン(単独)

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交友関係

関連ミュージシャン

  • 岩井宏
  • 高田渡
  • 中川五郎
  • 西岡たかし
  • 北山修
  • はしだのりひこ
  • 遠藤賢司
    • はっぴいえんどをバックに歌うことが多かった時期に、持っていたアコースティックギター・マーチンD-35を「もっと弾いてやらないと可愛そうだ」の仲間内の声に、当時遠藤がこのギターさわらせてと楽屋にやってきてよく弾いていたので、遠藤に貸すことに決めた。そうすれば「鳴るギター」になるだろうとの思惑で貸したのだが、周囲からは「岡林が持っていたときよりよく鳴っている」などと言われ、返してほしいと言い出せなくなり、プレゼントすることにした。貸し出しから1年後に遠藤から「これで僕のだからね!これで僕のだからね!」と念押しされて、封筒に入った現金を渡された。プレゼントすると言った以上、この現金は受け取れないが時期を見て返そうと思って月日が経ち、そうこうしているうちに遠藤が亡くなってしまったため、返せずじまいとなった[33]

バックバンド

プロデューサー

岡林が影響を受けた人物

岡林から影響を受けた人物

交流のある(あった)人

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主な出演

テレビドラマ

バラエティ番組

ラジオ番組

映画

CM

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書籍

自著

  • 高石友也中川五郎フォークは未来をひらく : 民衆がつくる民衆のうた』〈新報新書〉、社会新報、1969年4月30日。
  • 岡林信康の村日記講談社、1982年11月30日。ISBN 978-4062002608
  • かんとりーソングス芸文社、1984年10月1日。ISBN 978-4874651490 - 巻末に、糸井重里との対談
  • 『ぼくの歌の旅―ベアナックルレヴュー道中記』(1987年・晶文社ISBN 978-4794950703
  • 『伝説 岡林信康』(1991年・小学館ISBN 978-4093633819 → 2009年・増補改訂新装版・白夜書房ISBN 978-4777102365
  • 『バンザイなこっちゃ!』(2005年・ゴマブックスISBN 978-4777102365
  • 『ぼくの村は美しい国 竜太の日記 [We love childrenアーティストによる絵本シリーズ 5]』(2007年・ランダムハウス講談社ISBN 978-4270002216
  • 『岡林、信康を語る』(2011年・DISK UNIONISBN 978-4925064415

解説書等

岡林信康について書かれている本

  • 『満員の木』(1973年3月15日・西岡たかし著・立風書房)- 栃村に住んでいた頃、西岡たかしとの対談を掲載。
  • 『山谷キューバフォーク』(1979年3月20日・田頭道登著・三友会出版)
  • 『岡林信康黙示録』(1980年8月1日・田頭道登著・三友会出版)- 山谷で知り合った田頭道登と岡林信康との手紙のやり取りを中心とした本。蒸発後の岡林と秦政明(高石事務所社長)とのやり取りも掲載されている。
  • 『日本フォーク私的大全』(なぎら健壱著・1995年・筑摩書房、1999年・ちくま文庫)
  • 『追憶のほんやら洞』(甲斐扶佐義編著・2016年4月19日・風媒社)
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脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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