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加藤登紀子
日本の女性シンガーソングライター、女優 (1943-) ウィキペディアから
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加藤 登紀子(かとう ときこ、本名:藤本 登紀子[1]、1943年〈昭和18年〉12月27日 - )は、日本初の女性シンガーソングライター[2]、作詞家、作曲家、女優。日本訳詩家協会6代目会長。「おときさん」の愛称で親しまれている[3]。
「百万本のバラ」(1987年 のヒット曲)の日本語歌詞作詞を行ったことや、「難破船」(自身の歌唱後、中森明菜がカバーした)の作詞作曲などでも知られる。『ほろ酔いコンサート』を50年以上に渡って開いている(2023年現在)[2]。
城西国際大学観光学部で客員教授をした後、星槎大学共生科学科客員教授[4](2025年1月現在)。日本訳詩家協会会長に就任(2021年5月〜)。夫は学生運動活動家の藤本敏夫。次女は歌手のYae[5]。
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略歴
要約
視点



満洲国ハルビン市生まれ[6]、京都育ち(中学1年の夏まで[7])。実父の加藤幸四郎 (1910-1992) は旧制京都二中、ハルピン学院を経て関東軍特務機関や南満洲鉄道(ロシア人係)に勤務した人物で[8][9]、敗戦後に母の加藤淑子の実家がある京都に引き揚げ、小中に進学。中1の夏に父がレコード会社[注 1]に務めていた関係で東京都世田谷区へ転居。高校時代に永六輔の知己を得る[要出典]。世田谷区立桜木中学校卒業。
1962年3月、東京都立駒場高等学校卒業[7]。同年4月、東京大学文学部に入学[11]。
1965年、同大学在学中に第2回「日本アマチュアシャンソンコンクール」でフレンチ・ポップスの「ジョナタン・エ・マリ」を歌唱して優勝[2]。
1966年、「誰も誰も知らない」でレコード・デビュー。2枚目のシングル「赤い風船」で、第8回日本レコード大賞新人賞受賞。
1968年3月、東京大学文学部西洋史学科卒業[12]。
1969年、「ひとり寝の子守唄」で第11回日本レコード大賞歌唱賞受賞。
1971年、「知床旅情」で、2度目の第13回日本レコード大賞歌唱賞受賞。同年末の第22回NHK紅白歌合戦へ初出場を果たす。
1972年5月6日、全学連の活動家の藤本敏夫と獄中結婚し、芸能界に一大センセーションを巻き起こした[2]。出産のため、一時音楽を離れる。長女を出産。1973年、産休後、音楽界に復帰。
1975年、所有する伊東市の別荘にて革マル派と革労協が内ゲバ。1人死亡、9人重軽傷。
1975年、次女Yaeを出産。
1976年、2年前のアルバム「この世に生まれてきたら」に参加した告井延隆が本格的にライブに参加。以降告井およびセンチメンタル・シティ・ロマンスは加藤の音楽には欠かせない存在として現在までサポートを続けている。
1978年、中島みゆきより提供された「この空を飛べたら」がロング・ヒットを記録。
1980年、三女を出産。
1980年代には中国でコンサートを行い、残留日本人孤児と共に中国語で「知床旅情」を歌い、泣いたことがある[13]。
1981年、千葉県に農業体験などを提供する鴨川自然王国を夫の藤本と共に設立。
1983年の映画『居酒屋兆治』で高倉健の妻役、1986年のテレビドラマ『深夜にようこそ』では千葉真一の妻役で共演した。
1987年「百万本のバラ」大ヒット。中森明菜には「難破船」[14]、石原裕次郎には「わが人生に悔いなし」といった提供曲も、好セールスを記録。
1988年・1990年、ニューヨークのカーネギー・ホール(大ホール)でコンサート敢行。
1989年「百万本のバラ」で「第40回NHK紅白歌合戦・第2部」に18年ぶり2回目の出場。翌1990年末、2度目の「知床旅情」で「第41回NHK紅白歌合戦・第2部」に2年連続3回目の出場をそれぞれ果たした。
1992年、スタジオジブリ作品『紅の豚』に声優として出演。主題歌「さくらんぼの実る頃」、エンディング・テーマ「時には昔の話を」も担当した。また同年に、芸術文化活動における功績に対して、フランス政府から芸術文化勲章(シュヴァリエ)を授与される。
1995年6月21日に発生した函館空港の全日空857便ハイジャック事件では、実母やバックバンドのメンバーらと一緒に搭乗し、16時間余りの緊張を体験した[注 2]。当日函館のコンサートの予定が中止となってしまったが、翌日苫小牧のコンサートでは、寝不足ながらも元気な姿を見せた。そのライブ終了後、加藤らはハイジャック事件の状況について記者会見に応じている。
1997年、世界自然保護基金日本委員会評議員に就任。この年から2000年にかけて、「さよなら私の愛した20世紀たち」と銘打った10枚シリーズのアルバムを次々と発表する。
2000年、国連環境計画親善大使に任命される。
2002年7月31日、夫の藤本が肝臓がんのため永眠。
2006年、NPO法人・グラウンドワーク三島の専務理事で都留文科大学教授の渡辺豊博からの依頼を受け、富士山の応援歌を制作。阿久悠の詩「富士が好き」に加藤が作曲し「富士山だ」と改題して発表した。
2006年、FUJI ROCK FESTIVAL06出演。若手ミュージシャンとも交遊が広く積極的にコラボレートするなど、現在も精力的に活動。
2008年、九条世界会議に参加し、全体会のフィナーレを飾った。
2009年、ソウル・フラワー・ユニオンらが主催した『PEACE MUSIC FESTA!』に出演。
2009年9月27日、自身のTwitterを開設。
2009年9月29日、国の特別天然記念物に指定されている佐渡のトキ野生復帰に向け行われた第2回トキ放鳥を記念して「佐渡トキ環境親善大使」に任命される。環境保全に熱心であること、名前に「とき」を含み、国産最後の「キン」を観るため、以前佐渡を訪れるなど、トキとの縁も深かったことから白羽の矢が立った。任期は3年間。
2012年2月23日、イベント等での限定で「富士山だ」のCDを発売[15]。
2012年10月20日、ブータンの首都・ティンプーにある時計塔広場でコンサートを行う。
2014年1月1日、「富士山だ」を全世界に向けて音楽配信で発売。同年1月22日、一般の音楽流通ルートに乗ったCDが発売された。
2018年9月17日、高崎音楽祭で加藤プロデュース「ジブリソングを歌う」コンサートを開催。加藤、夏木マリ、中川翔子が出演。
2018年11月8日、次女でシンガーソングライターとして活動しているYaeのコンサート「未来への詩(うた)」をプロデュース。娘のコンサートのプロデュースは初となる。
2020年6月28日、新型コロナウィルス拡大後初、東京・渋谷「Bunkamura オーチャードホール」にて大規模コンサートを開催した。感染対策も万全にした緊急事態宣言解除後初コンサートは音楽業界からも注目された。
2021年5月、日本訳詩家協会6代目会長に就任。
2022年5月22日、ウクライナ支援チャリティーアルバム「果なき大地の上に」をリリース。売上の全額を日本チェルノブイリ連帯基金を通じて寄付する。
2022年度毎日芸術賞受賞。
2024年10月10日(10月10日は、エディット・ピアフの命日でもある)、歌手生活60周年を祝うパーティーがビルボードライブ東京で盛大に行なわれた(著名人では湯川れい子、コシノジュンコ、平野レミ、デヴィ夫人、池畑慎之介、渡辺えり、南こうせつなどが祝いに駆けつけた。また、当日は宮崎駿、和田アキ子、石川さゆり、中森明菜など錚々たるメンバーからお祝いのメッセージが読み上げられた)[2]。
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人物
要約
視点

60年安保のデモに高校時代の放送部仲間と参加。その4日後に樺美智子の訃報にショックを受け、翌朝に事件をニュース原稿にし校内放送した。これをきっかけに『樺さんの後を継ぐためにも東大に入ろう』と思うようになった[7][12]。
東大在学中は学生運動とはすでに距離を置いており演劇活動に熱中。また歌手デビューも決まっていたことから大学からは足が遠のき、6年かけて卒業単位を取得した[12]。
自身の生業はあくまでも歌手であり、左派運動家ではないとしている[16]。
MCやインタビューなどでは軽妙なトークを展開しており、「爆笑そっくりものまね紅白歌合戦スペシャル」で松居直美と共に「知床旅情」を歌った際に[17]、司会の今田耕司に「普段の喋りは意外と漫談口調なんですね」と評されたほどである[17]。
酒好き[3]で、特に毎年10月1日に「日本酒の日コンサート」を行うほど、日本酒が好きである[18]。また、1971年に大関のCMソング「酒は大関」(作詞・作曲:小林亜星)を歌唱したことにより、大関から樽酒が贈られ、これを機に来場客に日本酒をふるまい、自分も飲みながらコンサートをする「ほろよいコンサート」を定期的に行われている[19]。若い頃はそこそこの酒豪で、特に20代の頃は酒を飲む時は毎回記憶がなくなるまで飲んでおり、当時の週刊誌の酒豪番付で「大関」と評されたこともある[3]。本人によると現在(79歳の時点)、「かかりつけのお医者さんに肝臓など体を色々検査してもらったけどどこも悪くない」と語っている。また、若い頃から酒をいくら飲んでも顔が赤くならない体質で、以前に比べて飲む量自体は減ったものの79歳以降も酒を楽しんでいる[3]。
後述する波乱万丈な人生を送ったこともあって「見かけによらず衝動的で軽はずみで、迷いやすくて、行き当たりばったりの人生を送ってきた」と回想している[20]。また、自身の人生や活動について「その全部が、世の中の人に認められたわけではないけども、私にとっては宝ものだし、経験した全てが私の血肉になっているわけです。それも運命。命を運んできたということですね」と述べている[21]。
「生きることは、アップデートすること」という持論を持っており[22]、スマートフォンなども使用して、最新の知識を取り入れている[23]。また、脳を若く保つために新聞の切り抜きをテーマごとにファイリングする、洋服を自らリメイクするなど、アンチエイジングを意識した行動にも積極的に取り組み、2017年に「爆報! THE フライデー」(TBS) で脳年齢を計測したところ、30歳と診断された[24]。
Twitterを開設して2ヶ月後に「なう」などの用語を覚え、定期的に多用している[25][26]。
家族との交流も「アップデート」の宝庫であることを語っている[26]。
キマグレン[21]やBABYMETAL[27]などの若手アーティストの楽曲にも理解を示す発言をしている。またお笑い好きでもあり、銀シャリ[27]やオリエンタルラジオ[24]などのお笑い芸人に対しても理解を示している。その流れで、ダイアンの津田篤宏は遠戚ながら親戚同士であることを明かしている。加藤の父の姓が津田で、直系とのこと[28]。
スポーツなども積極的に見ており、日本人スポーツ選手の活躍に感動した旨を自身のTwitterで度々述べている[29][30][31]。
高倉健のファンであり、高倉が亡くなった際には「1960年代に青春を生きた私たち世代にとって、高倉健さんの生きざまはバイブルでした。(中略)亡くなったことを知り、寂しさでいっぱいです。『居酒屋兆治』で妻の役をやらせていただいた思い出、何より大切に、心からご冥福をお祈りします」という追悼コメントを発表している[32]。
2011年の東日本大震災を受けて被災地を訪問したり、チャリティ・コンサート収益金の全額が被災地への義援金に充てられるなど、チャリティー活動も行っており[33]、2012年5月1日には日本財団により、伊勢谷友介、EXILE、小林幸子、コロッケ、坂本龍一、サンドウィッチマン、杉良太郎、伍代夏子、中村雅俊、はるな愛と共に加藤も「被災地で活動した芸能人ベストサポート」に選出、表彰されている[34]。2013年から開始された「311 未来へのつどい Peace On Earth」には毎年出演している。
2ndシングル「赤い風船」を発表した際、ミニスカートを履いて赤い風船を持って銀座の街角に立つ、というキャンペーン活動を行ったが、同曲もデビュー曲「誰も誰も知らない」も売れ行きが悪かった。これを受けて制作側の「とにかくヒットさせたい」との思いから、3曲目は前2作とは大幅に路線を変えた演歌「恋の別れ道」が発売された。しかし直後に「赤い風船」が日本レコード大賞新人賞に決定したため、レコード会社は慌てて「恋の別れ道」のレコードを回収したという。
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エピソード
要約
視点
子供時代
旧満州のハルピンで生まれたが終戦の影響で住む家を失い、1年間を収容所や知人の家で過ごした[2]。帰国後、旧満州から日本に逃げてきたロシア人の苦境を知った両親の「手助けしたい」との思いから、ロシア料理屋「スンガリー」を開店[2]。子供の頃から、この店内で流れるロシア民謡、シャンソン、カンツォーネなど世界中の音楽を聞いて育った[2]。
世田谷区立桜木中学校へ転入した際に、京都との違いにカルチャーショックを受けた。6歳上の兄(加藤幹雄:元住友金属工業(現:日本製鉄)副社長、現在はロシア料理店経営者[35])と机を並べて勉強をするうちに成績は伸び、東京都立駒場高等学校にはトップ合格した[7]。
高校時代は放送部(駒場放送局)に所属。高2でアナウンス部長を務める[注 3]。同じ部活に1学年後輩の吉永小百合も仕事の合間に参加していた[7]。
憧れのピアフ、パリ旅行
10代の頃から、「愛の讃歌」などで知られるシャンソン歌手のエディット・ピアフに憧れていた[2]。歌と共に恋多きピアフの生き方にも魅せられ、1963年(加藤は19歳)に彼女が47歳の若さで亡くなったことに強い衝撃を受け、自らも歌手になることを決意した[2]。
18歳頃(大学入学前後)に東京日仏学院に通ってフランス語を学んだ[2]。父からシャンソンコンクールへの参加を勧められて応募[2]。人づてに紹介してもらったシャンソンの先生から手ほどきを受けた後、ピアフの「メア・キュルパ(私の罪)」でコンクールに挑んだ[2]。しかし審査員から低評価を受けた[注 4]で悔しい思いをしたが、これがきっかけで1年間シャンソンのレッスンに明け暮れて歌唱力を磨いた[2]。
20歳で日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝した後、ヨーロッパ旅行に訪れた[2]。フランスのパリでは、シャンソン歌手のリュシエンヌ・ボワイエが経営するライブレストランに訪れると突然歌うよう言われ、彼女の代表曲「聴かせてよ愛の言葉を」を客の前で披露して拍手喝采を浴びた[2]。また、この旅では古い石造りの建物の地下などでギターを弾き語る人の姿がカッコよく映ったことから、自らもギターを弾き始めた[2]。
夫・藤本敏夫との出会い
歌手デビュー後の1968年の東大紛争の際、加藤は事前に「卒業式では振り袖で来てほしい」という女性週刊誌から要請されていた[36]。しかし前日に医学部の学生が研修医制度の変革を要求して卒業式をボイコットすると聞いて悩んだ末、当日は週刊誌の要請を振り切ってジーパンで会場に現れ、デモの座り込みに参加した[2][36]。その噂を聞きつけた同志社大学の学生であり、ブント系の「反帝学連」委員長の藤本敏夫にコンサートへの出演依頼を受けるものの、歌を政治運動に利用されることを嫌って断る。しかし、この件をきっかけに彼に一目惚れしたことで、2人は交際を開始[37][2]。
紆余曲折を経て1972年5月に、防衛庁襲撃事件などで逮捕され勾留の身であった藤本と獄中結婚。当初加藤が藤本に結婚の意志を伝えると、彼から「リーダーとして責任がある」と結婚を反対された[2]。諦めようとしたが後日妊娠が発覚し、手紙で気持ちを伝えたことで藤本も結婚の意思を固めた[注 5]。周囲が交際に反対する中、母と当時の所属事務所「石井音楽事務所」の社長の石井好子が賛成したことが二人の結婚を後押しする形になった[38][39]。「ひとり寝の子守歌」は、塀の中にいる夫を思って作られた代表曲の一つでもある。
勾留と釈放を挟み、合わせて30年間を連れ添った夫は、2002年に死去(享年58)。夫との間には1972年、1975年、1980年生まれの3人の娘がおり、次女はYaeとして歌手活動中。
音楽観
文字面や言葉として格好良くても、会話の中で使わない言葉は歌詞にも使わないという[21]。
日本全国から世界各国まで幅広い場所を訪れており、様々な音楽をレパートリーに取り入れている[40]。「PHP」1993年8月号では、このエピソードを語った上で「結局、私はスタイルを決めない歌手として、やり通してきたことになるような気がします」[20]と述べている。
日本語の唄に対して「日本というのは海に囲まれているということだけではなくて、言葉という国境があるんですね。日本人のアーティストで外国で活躍した人はたくさんいるけど、まだうたうということで、その壁を越えた人がいないというふうに私は感じて、そしてほんとうの願いは日本語のポピュラー・ソングをポピュラーにしたい。そのきっかけが作れればいいなと思っています」と述べている[41]。
昭和歌謡から最新のJ-POPまで幅広くカバーしており、「自分が作った歌詞じゃないものを歌うってことが面白い」と述べている[21]。
「初めから答えが決まっているような、つまり、つじつま合わせのような『政治的なプロパガンダ』は本当のメッセージじゃない」「政治の力だけで世の中を変えるなんて、おこがましいと思いませんか?」「むしろ2つに分断されている人たちをつなげたい」としており、「どんな人たちとも一緒に音楽を楽しみたいし、プロの歌手として、あらゆる人たちの心の中に届くような表現の形を持っていなくちゃならない」といった考えがあることを述べている[16]。
評価・交流
森繁久彌は1969年に自身が主催のコンサートで、「ひとり寝の子守唄」を歌っていた加藤の声を楽屋越しに聴き、「誰が歌っているんだ。ツンドラの風の冷たさを知っている声だ」と言い、舞台の袖で両手を広げて迎えたというエピソードがあり、前述の通り加藤がハルビン生まれで、森繁が旧満州からの引揚者だったため、加藤は「大陸への思いの共有が、縁を結んだと思っている」と語っている[13]。また、両者が新幹線でたまたま遭遇し、加藤が「知床旅情」をカバーしていることを報告した際には、「聞いたよ。君は、歌はうまくはない。(でも)心はあるな」と森繁に言われたという[13]。
桑田佳祐は、自身がリーダーを務めるバンドサザンオールスターズの楽曲「東京VICTORY」を「知床旅情」のようなイメージで制作していた旨を述べており、「やはり僕は日本人[注 6]。いくらロックに憧れても、僕らは発祥地たる西洋の人たちと同じにできないじゃないですか。それより日本人には日本人のボディサイズに合った歌があって、僕は何とかそれを見つけたい」「森繁久彌さんの歌詞と、生ギター一本で歌う加藤さんの姿は今回、僕にとっての”いい歌”の基準でした」と述べている[42]。「東京VICTORY」の制作意図や歌詞のテーマを桑田のファンから知らされた加藤は「ありがとう!なんか桑田さんからラブレターもらったみたいな気持ち。応えなきゃね」といった感想を述べている[47]。なお、奇しくも桑田の父親も満州からの引揚者であった[48]。
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音楽
シングル
オリジナル・アルバム
- ポリドール
- 赤い風船(1967年6月5日)
- ギターをひこう(1967年11月5日)
- ひとり寝の子守歌(1969年12月5日)
- 帰りたい帰れない(1970年4月1日)
- 私の中のひとり(1970年7月1日)
- ロシアのすたるじい(1971年2月1日)
- 日本哀歌集(1971年4月10日)
- 美しき五月のパリ(1971年11月1日)
- 色即是空(1972年9月1日)
- 日本寮歌集(1972年10月1日)
- この世に生まれてきたら(1974年3月21日)
- 音楽のパートナーとしてサポートを続ける告井延隆が初参加。
- 赤い靴 すばらしき詩人たち(1974年12月21日)
- いく時代かありまして(1975年12月1日)
- 回帰船(1976年12月21日)
- 本作より、告井およびセンチメンタル・シティ・ロマンスが本格的に参加する。
- さびた車輪(1977年12月1日)
- キティ・レコードから発売。
- 愛する人へ(1978年10月10日)
- キティ・レコードから発売。
- 悲しみの集い(1979年9月10日)
- キティ・レコードから発売。
- OUT OF BORDER(1981年2月5日)
- Rising(1982年6月25日)
- 愛は全てを赦す(1982年11月1日)
- 夢の人魚(1983年12月1日)
- デ・ラ・シ・ネ(1984年6月5日)
- 現在唯一のミニアルバムである。
- 最後のダンスパーティー(1984年12月1日)
- ムーンライダーズとのコラボレーション。
- Ethnic Dance 〜ゆらめく異邦人〜(1986年2月1日)
- My Story 〜時には昔の話を〜(1987年2月1日)
- 「時には昔の話を」「100万本のバラ」が初収録。
- CBS/SONY RECORDS
- TOKIKO—愛さずにはいられない(1988年9月1日)
- エロティシ 〜謎〜(1989年10月8日)
- ファシネイション (FASCINATION)(1991年9月26日)
- 25周年記念3ヶ月連続リリース第1弾。
- Cypango(シパンゴ)(1991年10月25日)
- 25周年記念3ヶ月連続リリース第2弾。全曲をフランス語で制作し、同国でも発売。
- TOKIKO SONGS(1991年11月21日)
- 25周年記念3ヶ月連続リリース第3弾。これまでの代表曲を全てリファインした。
- Sony Recoeds
- さくらんぼの実る頃(1992年9月21日)
- モンスーン 〜祈りの歌を呼び戻す〜(1993年11月21日)
- 花(1995年2月22日)
- 30周年記念盤。フランスで制作、同国でも発売された。
- 晴れ上がる空のように(1996年11月21日)
- TOKIKO ROMANCE 〜百万本のバラ〜 さよなら私の愛した20世紀たち Vol.1(1997年6月21日)
- 10枚に渡るアルバムシリーズ「さよなら私の愛した20世紀たち」の第1弾。
- TOKIKO CRY 〜美しい昔〜 さよなら私の愛した20世紀たち Vol.2(1997年11月21日)
- TOKIKO DANCE 〜踊れ時を忘れて〜 さよなら私の愛した20世紀たち Vol.3(1998年5月21日)
- Tokiko Records
- TOKIKO Ballads 1 〜バラ色のハンカチ〜 さよなら私の愛した20世紀たち Vol.4(1998年12月2日)
- TOKIKO Ballads 2 〜まっすぐ見つめたい〜 さよなら私の愛した20世紀たち Vol.5 (同上)
- TOKIKO L'amour 1 〜愛の讃歌〜 さよなら私の愛した20世紀たち Vol.6(1999年4月21日)
- TOKIKO L'amour 2 〜Songs For You 愛の歌を〜 さよなら私の愛した20世紀たち Vol.7(同上)
- TOKIKO Jurney 〜Born on the Earth〜 さよなら私の愛した20世紀たち Vol.8(1999年10月1日)
- TOKIKO Poesie 〜春待草〜 さよなら私の愛した20世紀たち Vol.9(2000年4月2日)
- TOKIKO SKY 〜蒼空〜 さよなら私の愛した20世紀たち Vol.10(2000年8月2日 南アフリカ共和国のヨハネスブルグで現地ミュージシャンが参加しレコーディング。)
- 〜人生の始まりと終わり〜「ひばりとピアフ」(2017年5月28日)
- ユニバーサルミュージック
- MY BEST SONGS 〜TOKIKO Today〜(2001年11月1日)
- 前作の演奏陣がポリドール時代の代表曲を演奏する形でリメイクしたベスト盤。
- 花筐(2002年10月3日)
- 沖縄情歌(2003年5月28日)
- 青い月のバラード Sound History(2004年5月26日)
- 今があしたと出逢うとき(2004年11月6日)
- どこにいても私(2005年4月6日)
- 40周年記念6枚組ボックス・ベストアルバム
- 登紀子情歌 〜LOVE SONGS〜(2005年5月18日)
- プライムセレクション(2006年1月18日)
- シャントゥーズ TOKIKO ~仏蘭西情歌~(2006年5月10日)
- シャントゥーズ 2 〜野ばらの夢〜(2007年5月9日)
- Essential Best(2007年8月22日)
- SONGS ~うたが街に流れていた~(2008年5月27日)
- ほろよい物語 加藤登紀子オリジナル曲集 1968-2008(2008年10月29日)
- 薔薇と恋のうた 〜シャントゥーズTOKIKOコレクション WITH 島健〜(2009年4月22日)
- iTunes Originals(2010年4月21日)
- iTunesダウンロード形式のみで発売されるベストアルバム。
- 命結〜ぬちゆい(2011年9月28日)
- ふくしま・うた語り(2012年6月6日)
- 「加藤登紀子、鎌田實」名義。
- 風歌 Kazeuta(2012年11月21日)
- 登紀子 愛歌 Aiuta(2013年12月4日)
- 百歌百会 Hyakka Hyakue(2015年11月18日)
- 超録 加藤登紀子ほろ酔いコンサート 20世紀編(2017年11月15日)
ベスト・アルバム
- 加藤登紀子ダブルデラックスアルバム(1970年12月)
- 豪華決定版愛のくらし(1971年10月)
- 歌に生命を(1971年)3枚組。楽譜つき。
- パーフェクト24(1978年11月)
- BEST SELECTION(1979年12月)
- 加藤登紀子/Best14(1980年2月)
- 百万本のバラ(1988年3月)
- 加藤登紀子 全曲集 〜 百万本のバラ(1996年9月)
- 加藤登紀子 全曲集(1999年9月)
- MY BEST ALBUM -TOKIKO TODAY-(2001年11月)
- GOLDEN☆BEST 加藤登紀子 シングルス(2003年11月)
- 終わりなき歌 加藤登紀子半世紀BEST 50th ANNIVERSARY(2014年)
- 花物語(2021年9月)
- for peace 新録15曲を含む全35曲、2枚組作品(2025年5月21日)
ライブ・アルバム
- 加藤登紀子リサイタル(1970年10月1日)
- リサイタル'71.3.30(1971年7月1日)
- 加藤登紀子'72(1972年6月25日)
- 真夏の夜のコンサート(1972年11月21日)
- 加藤登紀子ライヴ'73(1973年11月21日)
- 祭り(1974年7月10日)
- 加藤登紀子・長谷川きよしライブ(1978年6月1日)
- ほろ酔いコンサート・ライブ(1980年3月1日)
- ハルピンの夏 〜中国コンサート・ライブ〜(1981年9月21日、2013年7月3日にSHM-CDで再発)
- TOKIKO Best Live 〜酔夢〜(1985年3月1日)
- カルメン・カルメン 〜芝居仕立ての音楽会 3〜(1986年7月1日)
- 私は私 〜サムシングスペシャル・シャンソン編〜(1986年9月25日)
- Live at カーネギー・ホール N.Y.(1991年3月21日)
ビデオ・DVD
- 加藤登紀子LIVE IN THE SUN -花咲く頃に-(1995年)
- 加藤登紀子デビュー40周年記念コンサートDVD-Nowisthetime-(日本音声保存)(2005年)
- 加藤登紀子の半世紀 -その胸の火を絶やさずに(2014年10月14日)
- 加藤登紀子50周年記念百万本のバラコンサートwithラトビア・リエパーヤ交響楽団(2015年11月15日)
提供曲
- 1974年 「土耳古行進曲」(トルコ行進曲):小沢昭一
- 1975年 「黄昏のなかで」:沢田研二
- 1975年 「流転」:沢田研二
- 1976年 「ひとり立ち」:勝野洋
- 1976年 「パパが好き」:いのうえみどり、コロムビアゆりかご会(作詞:作曲)、「空のうた」:いのうえみどり(作詞:作曲)- 日本テレビ「ロンパールーム」より。
- 1978年 「パパが好き」:やまみどり、コロムビアゆりかご会(作詞:作曲)[49]
- 1987年 「わが人生に悔いなし」:石原裕次郎(作詞:なかにし礼)
- 1987年 「難破船」:中森明菜 - 厳密には中森がカバーした形でリリース。
- 1988年 「今あなたにうたいたい」:和田アキ子
- 1988年 「天国のかけら」:北原ミレイ(作詞:荒木とよひさ)
- 2012年 「青いこいのぼりと白いカーネーション」:うつみ宮土理(作詞作曲:加藤登紀子)
- 2016年 「想秋ノート」:手嶌葵(作詞作曲:加藤登紀子)
- 2016年 「白い街と青いコート」:手嶌葵(作詞作曲:加藤登紀子)
- 2016年 「百年の恋歌」:森昌子(作詞作曲:加藤登紀子)
- 2022年 「残雪」:石川さゆり(作詞作曲:加藤登紀子)
- 2022年 「きみはもうひとりじゃない」:Hana Hope (作詞:加藤登紀子/作曲:江崎文武)
校歌
- 大阪府立大塚高等学校校歌(作曲・編詞)
- 佐賀県立神埼清明高等学校校歌(作曲・作詞)
- 長浜バイオ大学校歌
- 千葉県立銚子高等学校校歌(作曲・作詞)
- 東松島市立鳴瀬未来中学校校歌(作曲・作詞)[50]
タイアップ曲
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出演
要約
視点
テレビドラマ
- お多江さん(1968年、朝日放送制作・TBS)- 町田昌子 役
- 土曜グランド劇場 / 秋日記(1977年、日本テレビ)
- 第10話
- 第11話
- コカコーラスペシャル / 女ともだち —誰のものでもない私の人生—(1982年3月29日、TBS)
- コカコーラスペシャル / 風にむかってマイウェイ(1984年11月12日、TBS)
- 金曜ドラマ / 深夜にようこそ(1986年、TBS)- 篤子 役 ※特別出演
- 第3回
- 第4回(最終回)
- 男と女のミステリー / 安川刑事の事件簿 少女あみの反乱(1989年、フジテレビ)
- ドラマ新銀河 / ワイン殺人事件25歳の夏(1995年、NHK総合)
- ドラマ30 / 家族善哉(2006年、毎日放送)
- 豆腐プロレス(2017年)- ナレーション
- 名建築で昼食を スペシャル 横浜編(2021年)- 宇野依子 役
- 水平線のうた(2025年、NHK総合・NHK BSプレミアム4K)- 菊池敏子 役[51]
映画
NHK紅白歌合戦出場歴
※NHK総合・ラジオ第1
- 注意点
- 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。
- 出演順は「出演順/出場者数」で表す。
NHKみんなのうた出場歴
▲はラジオのみの放送。
その他の番組
ラジオ
ドキュメンタリー
- 「人間ビジョンスペシャル 日本最北 愛しき野生たち〜利尻・礼文・サロベツの四季」(2002年2月3日、北海道テレビ放送制作・テレビ朝日系全国ネット)- ナレーション・音楽
- 「きらり!えん旅~加藤登紀子 岩手・遠野市へ~」(2011年10月27日、NHK BSプレミアム)
- 「"百万本のバラ"はどこから そして どこへ ~加藤登紀子 ジョージアへの旅~」(2024年2月17日18:00~19:30、NHK BSプレミアム4K / 同年2月23日8:00~9:30、NHK BS)
- 「百万本のバラ物語 TOKIKO KATO ~歌は国を越えて心をつなぐ~」(2024年2月17日19:30~21:00、NHK BSプレミアム4K / 同年3月8日22:40~翌0:10、NHK BS)
YouTube番組「登紀子の『土の日』」ライブ
(「土」の字の成り立ちに伴い、毎月11日に配信されている)
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著書
- 『ろばと砂漠と死者たちの国』文化出版局 1972、のち角川文庫
- 『壊された大地の上に』合同出版 1972、のち角川文庫
- 『死人たちの祈り』角川書店 1975
- 『旅人たち』潮出版社 1980.5、のち講談社文庫
- 『止まらない汽車』文化出版局 1980.7、のち新潮文庫
- 『加藤登紀子この瞬間を愛せよ』新潮文庫、1982.9
- 『ほろ酔い行進曲』講談社 1984.4、のち文庫
- 『加藤登紀子の悪男悪女列伝』潮文庫 1985.7
- 『ほろ酔い行進曲 結婚編』講談社 1985.9
- 『ほろ酔い行進曲 放浪編』講談社 1986.11
- 『日本語の響きで歌いたい』日本放送出版協会(NHKブックス)1990.9
- 『愛する人へ 自選詩集』サンリオ 1990.10
- 『時には昔の話を』宮崎駿共著 徳間書店 1992.8
- 『わんから 即自独楽』中央法規出版 1994.1
- 『男と女の一心不乱 対談/』森繁久彌、加藤唐九郎 風媒社 1997.9
- 『加藤登紀子の男模様』三省堂 1999.6
- 『青い月のバラード - 獄中結婚から永訣まで』小学館 2003.4、のち文庫
- 『ひとりぼっちはひとりじゃない 一書一夢』平凡社(深夜倶楽部)2003.3
- 『絆』藤本敏夫共著 藤原書店 2005.3
- 『土にいのちの花咲かそ』サンマーク出版 2008.1
- 『登紀子1968を語る』情況出版 2009年12月、ISBN 978-4915252730
- 『君が生まれたあの日』廣済堂出版 2013.2
- 『愛の讃歌 エディット・ピアフの生きた時代』発行:東京ニュース通信社、発売:徳間書店 2016.6.21
- 『TOKIKO’S HISTORY-Since1943 運命の歌のジグソーパズル』朝日新聞出版 2018.4.20
- 『にっぽん漂流 すっぴんお登紀の旅100 話!』アルファーベータブックス 2018.11.2
- 『自然を生きる、自分を生きる』河出書房新社 2019.2.7
- 『自分からの人生』大和書房 2019.3.1
- 『登紀子自伝〜人生四幕目への前奏曲』2020.11.29
- 『哲さんの声が聞こえる〜中村医師が見たアフガンの光』合同出版 2021.8.2
- 『百万本のバラ物語』光文社 2022.12.21
- 『加藤登紀子詩集 美しき20歳』2023.12.19
- 『「さ・か・さ」の学校 』(単行本)時事通信出版局 2024.11.14
- 『トコちゃん物語 いつも空があった』(加藤登紀子自伝 誕生・青春編)合同出版 2025.4.2
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翻訳
- エリック・バテュ『大きな空の木』フレーベル館 2003年11月
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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