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ダークダックス

かつての日本の男声歌謡グループ ウィキペディアから

ダークダックス
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ダークダックス英語: DARK DUCKSは、1951年から2016年まで日本で活動していた男声の重唱団(ボーカルグループ)である。過去のレコードジャケットや、NHKみんなのうたでは『ダーク・ダックス』という表記がされる時もあった。同グループのメンバー数は活動の中心時期には長らく4人であった。

概要 ダークダックス, 基本情報 ...

来歴

要約
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メンバー全員、慶應義塾大学経済学部出身[1]。同大学の男声合唱団ワグネルソサエティのメンバーたちが、1951年のクリスマスパーティーで「ホワイト・クリスマス」の合唱を披露したことがきっかけで結成。この時、高見澤宏が入学する前だったので、メンバーは3人だった。結成当時はJAZZ・黒人霊歌を中心に活動していたが、のちにオリジナル楽曲やロシア民謡、山の歌、唱歌など幅広いジャンルの楽曲をレパートリーとするようになった。

1957年にロシア民謡「ともしび」をヒットさせ、一躍人気を集めた。当時としては異例の年6枚のアルバムを発売し、記録的ヒットを収め、歌謡界にコーラスブームを巻き起こした。1957年3月22日、初演奏会をひらく[2]。翌1958年に第9回NHK紅白歌合戦に初出場し、以後、1971年の第22回まで14回連続出場。1976年の第27回に再出場を果たし、通算15回出場している。第9回、第10回(1959年)は彼らの歌のラジオの音声が現存し、1960年代中期からは映像が現存する。第10回は2009年4月29日放送のNHK-FM今日は一日“戦後歌謡”三昧』の中で彼らの歌も含め全編が再放送された(音声はモノラル)。

世界各国でも音楽活動を行っており、特にソビエト連邦へは1960年[3]、1962年、1972年[4]、1974年、1977年[5]の5回に亘り長期演奏旅行を行い、盛況を極めている。(尚、1967年のソ連訪問は、4月の東京‐モスクワ間の直通定期旅客航空路線開設[注釈 1]に伴う、東京発モスクワ行き第1便搭乗者としての招待旅行であり[注釈 2]、演奏旅行ではない[13][14]。)

1987年には、メンバーが変わらない日本で最も長期にわたって活動するコーラスグループとして、ギネス世界記録に認定。1993年(平成5年)、紫綬褒章受章。グループ全員による受章は史上初。

同形態をとるコーラスグループ、デューク・エイセスボニージャックスとの三者共演の歴史は古く、1973年4月の第2回東京音楽祭で、国内大会と世界大会との間の1週間に企画された「東京音楽祭ウィーク」でのコンサート「ビッグ3夢の競演」にまで遡る[注釈 3]。また、1986年3月には、「ザッツ・ハーモニー」と銘打った全10日間の合同企画も開催されている。これは、最初の3日間ずつで夫々が単独のリサイタルを行ない、最終日に三者合同で歌うという日程であった[注釈 4]。その後、21世紀に入った頃から、三者共同でのショー開催は恒例として度々行われるようになった。

1997年に一過性脳虚血発作で佐々木行が倒れ、翌年より療養生活に入る(後に鬱病を患っていることが喜早哲から明かされた)。新メンバー招聘の話もあったが「(ダークダックスの特色から言って)他メンバーのダークダックスは考えられない」とスタッフや後援会が反対、あくまで佐々木行復帰を待つということでコーラスのパートをカルテットからトリオに再編し、以後3人のメンバー(喜早哲いわく「ダークダックス3兄弟になった」と考えて欲しいとのこと)で活動。

2008年に群馬県館林市にて、グループの活動記録や資料を保存し功績と足跡を顕彰する施設「ダークダックス館林音楽館」[17][18]がオープンしている。

2010年2月からは高見澤宏も病のため療養。残ったメンバー2名はダークダックスと縁が深くステージ共演も多いしゅうさえこをゲストボーカルに招き、しゅうさえこが高見澤宏のパートを担当する形でダークダックスwithしゅうさえこというユニットを結成し活動。しかし、2011年1月7日に高見澤宏が77歳で死去したことを受け、2人ではダークダックスとしての音楽活動は出来ないという判断から同年3月29日放送の『ありがとう!ダークダックス』(NHK-BS2)にて、同番組を以てダークダックスとしての(音楽)活動に区切りを打つことが発表された。

活動休止宣言から約半年後の2011年11月17日・18日放送『ラジオ深夜便』(NHKラジオ)へ遠山一、喜早哲が出演し、グループ60年の歴史を振り返った。2人での活動再開についても「まだ(高見澤宏の死から)完全に立ち直った訳ではないから」としながらも「無いとも言えません、まだ先が長いつもりで考えていきたいと思います」(遠山一談)と、今後に含みを見せた。2012年に入ってからは、恒例となっているデューク・エイセス、ボニージャックスとの合同コンサートを行うなど、活動を本格的に再開。

2016年3月26日に病気療養中だった喜早哲が85歳で死去。また、同年6月20日には佐々木行も84歳で死去。この時点で存命するメンバーが遠山一だけとなったため、グループとしての活動に終止符を打つことになったが、同年10月から再びしゅうさえことの共演によるダークダックスのゾウさん&しゅうさえことしてコンサートを再開。晩年も約1年に1回のペースで活動を続けた。2019年7月には遠山一の録り下ろしナレーション入りのベストアルバムを新たにリリースした[19]

2023年9月22日、遠山一が93歳で死去したことにより、ダークダックスのメンバー全員が亡くなった[20]

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メンバー

高見澤 宏たかみざわ ひろむ1933年11月9日 - 2011年1月7日[21]
担当パートは、トップ・テナー静岡県出身。 愛称はパクさん。血液型 B型。干支 酉年。星座 さそり座。立ち位置は一番左[注釈 5]でマイクの保持は左手。静岡市立高等学校卒業。俳優の萬屋錦之介は義兄(妻の兄)、中村嘉葎雄は義弟(妻の弟)、中村獅童は甥にあたる。富永一朗によると、漫画家の田河水泡の甥にあたるという[22]。神奈川県藤沢警察署警察署協議会委員も務めていた。
2011年1月7日、心不全のため、神奈川県藤沢市の自宅で死去した[21]77歳没
佐々木 行ささき とおる1932年2月18日 - 2016年6月20日[23]
本名:佐々木通正(みちまさ)(本名でも活動していた時期があったことから、現在でも資料によってはこちらの名前が掲載されている)。担当パートは、リード・テナー 福島県出身。愛称はマンガさん。血液型 A型。干支 申年。星座 水がめ座。立ち位置は左から2番目でマイクの保持は右手。
主にメロディパートを担当。愛知県立旭丘高等学校卒業。1997年末に一過性脳虚血発作で倒れ、その後鬱病を発症。更に脳梗塞の後遺症[24]のため病気療養していた。歌手のさとう宗幸は、はとこ(さとうの祖母と佐々木の祖母が姉妹)、野球解説者の佐々木信也は遠戚にあたる。療養中の2008年、夫人に先立たれる不幸に遭う。
2016年6月20日、心不全のため死去した[23][25]84歳没
喜早 哲きそう てつ、1930年11月8日 - 2016年3月26日[26][27]
担当パートは、バリトン東京都出身。愛称はゲタさん。血液型 O型 干支 午年。星座 さそり座。立ち位置は右から2番目でマイクの保持は右手。佐々木行の休業後はメロディパートを担当。東京都立西高等学校卒業。日本エッセイストクラブ会員で『日本の抒情歌』(誠文堂新光社、1983年)『日本の美しい歌―ダークダックスの半世紀』(新潮社、2007年)等の著作もある。デューク・エイセスのリーダーでバリトン、谷道夫と誕生日が同じ。
2016年3月26日、急性肺炎のため死去。85歳没
遠山 一とおやま はじめ1930年5月26日 - 2023年9月22日)
本名:金井哲夫(後に金井政幸に改名)、担当パートは、ベース東京都出身。愛称はゾウさん。血液型 B型。干支 午年。 星座 ふたご座。立ち位置は一番右でマイクの保持は左手。神奈川県立湘南高等学校卒業。慶應義塾大学卒業後、東京藝術大学中退。ダークダックスの所属事務所でもあるエーディープロダクション社長も務めた。2016年に喜早哲、佐々木行が相次いで死去したことに伴い、ダークダックス最後の存命者となった。晩年も「ダークダックスのゾウさん」として活動していたが、2023年9月22日、慢性心不全と老衰のため死去93歳没[20]。これにより、ダークダックスはメンバー全員がこの世を去った。メンバーの中で唯一、令和の時代も存命した人物だった。
同年、第65回日本レコード大賞特別功労賞を受賞した[28]
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代表曲

要約
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など。その他の古くからある日本の唱歌なども幅広く歌っており、レパートリーは数千曲に及ぶ。

ディスコグラフィー

要約
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シングル

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アルバム

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レーザーディスク

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DVD

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受賞・受章歴

  • 1958年:第13回文部省芸術祭奨励賞(レコード「四季の自然による四つの試み」に対して)
  • 1967年:第22回文部省芸術祭奨励賞(「ダークダックス・ショウ 日本のこどもたち」に対して)
  • 1968年:第3回モービル児童文化賞(一連の児童詩作品発表に対して)
  • 1969年:第24回文化庁芸術祭奨励賞(子供達のための演奏会、児童詩の制作発表に対して)
  • 1971年:第13回日本レコード大賞編曲賞(「花のメルヘン」のヒットに対して)
  • 1972年:第14回日本レコード大賞企画賞(6枚組LPアルバム「日本唱歌大百歌(全128曲)」に対して)
  • 1974年:第28回文化庁芸術祭優秀賞(コンサート「ダークダックス・北原白秋を歌う」に対して)
  • 1976年:第9回日本作詩大賞LP賞(アルバム「父と娘」に対して)
  • 1976年:第18回日本レコード大賞特別賞(25年間の音楽活動に対して)
  • 1976年:ギャラクシー賞(テレビ神奈川「ダークダックス25時間テレソン=生きる」の『花子の車椅子募金』に対して[30]
  • 1981年:朝日広告賞特別賞(朝日新聞全国版掲載「絆」の意見広告に対して)
  • 1982年:芸術選奨文部大臣賞(昭和56年度の音楽活動に対して)
  • 1983年:第16回日本作詩大賞優秀作品賞(「歌声が聞こえる」(作詩:岩谷時子)に対して)
  • 1988年:第8回日本作曲大賞特別賞(永年の活動に対して)
  • 1993年:紫綬褒章(グループの同時受章は初の快挙として話題に)
  • 2005年:第47回日本レコード大賞功労賞(永年の活動に対して)

ほか多数。

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エピソード

  • メンバー全員が慶應義塾大学経済学部出身であることから、政財界とのつながりが深く、特に三菱電機とは現在もダークダックスのリサイタルの協賛企業に名を連ねるなど関係が深いことで知られている。同社一社提供の「サンデーダークダックス」(ABCラジオ)、「ダークダックスワールドスタンダード」(TOKYO FM)はいずれも記録的長寿番組となったほか、1985年にはダークダックス、日本クラウン等の他の三菱グループ企業数社と共にレコード会社「メルダック」を設立している[注釈 7]。また、三菱電機中興の祖と呼ばれた元社長の進藤貞和はダークダックス後援会の会長も務めていた。
  • ラジオでは他にアール・エフ・ラジオ日本ダークダックスのダークと歌う仲間達」(横浜・玉川・港南台高島屋提供)も40年以上続く長寿番組であった。
  • NHK紅白歌合戦において、初のグループによる出場歌手である。
  • 小林亜星とは大学時代の先輩・後輩の間柄であり、現在においても楽曲の書き下ろしや、リサイタル会場にスタンド花が届けられるほどの親密な関係にある。小林と記念樹事件で争った服部克久はダークダックスにとって45年来の親友であり盟友の間柄にある。
  • 中国名は「黒鴨子」(ヘイヤーヅ)小合唱団という。
  • メンバー全員スキーが趣味[注釈 8]中田喜直をスキー好きにさせたのも、彼らが中田にスキー道具をプレゼントしたからである。
  • 象印マホービンの主力商品「押すだけポットぞうさん」のイメージキャラクターに起用されたことがある。このテレビCMの主役は、商品名が「ぞうさん」だったことから、「ダークのゾウさん」である遠山一が演じた。
  • 遠山一は、1984年1月 - 3月に日本テレビ系で放映されていたドラマ「パパになりたかった犬」にて、マスティフ犬・ヨサクの声を担当した。
  • 飲み屋などで、客が半身になって斜めに構え、より多くの人数がカウンターに立てるようにするダークになるという表現の「ダーク」はダークダックスに由来する。
  • 「つる」などの訳詞を手がけている中村五郎という人物は、ダークダックスのメンバー共通のペンネームである。
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出演

映画
テレビ
ラジオ
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CM

NHK紅白歌合戦出場歴

さらに見る 年度/放送回, 曲目 ...

NHKみんなのうた出演歴

出演は全25回で、男性コーラスグループとしてはボニージャックスの全44回に次ぐ。

さらに見る 初放送, 曲目 ...
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ダークダックス館林音楽館

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ダークダックス館林音楽館

群馬県館林市堀工町にある茂林寺の東に2008年4月12日にオープン。「特定非営利活動法人ダークダックス館林音楽館」が運営している。メンバーが使用していた楽譜、演奏会のポスター、レコードジャケット、メンバーの写真などが保存・展示されている。また、音楽館はホールとしての一般貸し出しも行っており、コンサート会場としても使われている。

2002年に喜早より「グループの関連資料の散逸を防ぐための施設を作りたい」という話が持ち上がり、この話に、同じ慶應義塾大学の出身で、グループの有力な後援者でもある、館林市の製麺業者「館林うどん」[注釈 9]の社長である小暮高史が応じ、小暮が理事長として「特定非営利活動法人ダークダックス館林音楽館」を設立。全国から約4000万円の寄付を集めて建設した[36]

著書

  • 『ダークの世界よちよち歩き』吉永淳一 編. 音楽之友社, 1961
  • 『東京横浜おいしい喫茶と甘党の店』編. 有紀書房, 1966

脚注

関連項目

外部リンク

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